深沢七郎『みちのくの人形たち』 松山愼介
深沢七郎は『楢山節考』『東北の神武たち』や今回のテキスト『みちのくの人形たち』という、タイトルから東北出身のイメージがあったが、山梨県出身である。考えてみれば『笛吹川』という作品もある。
『みちのくの人形たち』というタイトルから、十年くらい前に宮沢賢治の故郷、花巻へ行ったときに遠野へ行ったことを思い出した。遠野には伝承園のなかにオシラサマ千体を祀った「御蚕神(おしら)堂」がある。昔、遠野の農家では曲がり屋といって、人と馬とが同じ屋根の下に住んでいた。その昔、農家の娘が飼馬に恋をした。怒った娘の父親が馬を殺したところが、馬を追って娘も命を断ち、天に昇りオシラサマになったという。
オシラサマは三十センチほどの桑の木の棒の先に人の顔や馬の顔を彫り、布片の着物を幾重にも着せたもので、蚕の神、農業の神、家の守り神として各家々で祀られているという。伝承園の奥のやや暗い部屋に入ると、壁中にオシラサマが飾られてあり壮観であるが、すこし気味が悪くもあった。
『みちのくの人形たち』も怖い話である。ある日、「そのヒト」が「私」の家へやってきて「もじずり(文字摺草)」という花の話をして、よかったら訪ねてきてくれという。この花はネジバナ(捩花)ともいい、茎がねじれたようになって花が咲いていく。花言葉は「思慕」だそうだ。
東北の山奥に、「そのヒト」を訪ねていくと、その村では「ダンナさま」と呼ばれている。その家に泊まることにすると、夜、半道も上にあるところから青年が、横二尺、縦三尺くらいの屏風を借りにくる。出産があるのだという。また、遅くなって別の家からも屏風を借りにくる。青年の家は初産で、あとの家は何回もお産をしているので、こちらの方が早く生まれそうなので、屏風を青年の家から取り戻して先に使うことになる。出産が続くことを、この家の奥さんは「口がアいた」と言っている。
「私」は先に出産がある家に、旦那さまの後について入ってしまう。そこでは、線香の匂いがし、屏風が逆さまに立ててあった。「お産は、すみましたか?」と聞くと、「へー、母子とも変りありませんでした」ということだった。
旦那さまに詳しい話を聞くと、逆さ屏風の意味は、生まれたばかりの嬰児を産湯のタライ中で、呼吸を止めてしまうという。産声をあげないうちに処置するので、殺人にもならず、闇から闇へ葬るのである。この村では、人工流産(中絶)という処置をしないで、生まれるまで何もしないという昔からの風習を守っているらしい。時代は東北自動車道が仙台まで開通してから十年ということであるから、一九八三年頃のこととなる。
より怖いのは、旦那さまが床の間の部屋に「私」を連れて行き、横にある仏壇の奥にある、小さい女性の仏像を見せる。旦那さまの先祖で産婆だった人の仏像である。両手がない。この先祖は多くの嬰児の処置(間引き)をしたので、罪を重ねた両腕を肩の付け根から切り落としたという。この人は傷口に松ヤニをぬって、その後、三年、生きたそうだ。
駅通りの土産物売場に人形がおいてあり、それは「あのヒト」の家のふたりの子供が並んでいるようだった。霊的な表情であり、旦那さまの仏壇のご先祖様と、形も顔も同じだった。
この山奥の人形(仏像)の話は深沢七郎の面目を躍如とさせるものである。ただ、疑問点も残る。
江戸時代は人口三千万人で、安定していたといわれている。農業をはじめとして、循環型社会で、再生エネルギーどうのこうのという現代からみれば、ある種、理想的な社会だと思っていたが、このような形で人口調節をしていたに違いない。
ただ、土産物店の人形がこけしだとすれば、腕がないのは、当然だし、中絶で胎児の頭を鑿で割るというようなことは無いだろう。話は「あのヒト」のもじずりから始まるのだが、このもじずりにはどういう意味があるのだろう。
『kawade道の手帖 深沢七郎』の中にあるインタビューを読んでいると、深沢七郎と一般の人の生に対する方向性は逆転している。伝染病や戦争で人が死ぬのは人工調節でいいことだと考えている。産児制限運動を提唱し、訪日したこともあるサンガー夫人を称賛している。
『楢山節考』で、息子が年取った母親を姥捨山に連れて行くのだが、これも一般の人の考えでは哀れな話になるが、深沢七郎は、母親は山へ連れて行かれて幸せになると考えているのだろう。
2021年7月10日
深沢七郎は『楢山節考』『東北の神武たち』や今回のテキスト『みちのくの人形たち』という、タイトルから東北出身のイメージがあったが、山梨県出身である。考えてみれば『笛吹川』という作品もある。
『みちのくの人形たち』というタイトルから、十年くらい前に宮沢賢治の故郷、花巻へ行ったときに遠野へ行ったことを思い出した。遠野には伝承園のなかにオシラサマ千体を祀った「御蚕神(おしら)堂」がある。昔、遠野の農家では曲がり屋といって、人と馬とが同じ屋根の下に住んでいた。その昔、農家の娘が飼馬に恋をした。怒った娘の父親が馬を殺したところが、馬を追って娘も命を断ち、天に昇りオシラサマになったという。
オシラサマは三十センチほどの桑の木の棒の先に人の顔や馬の顔を彫り、布片の着物を幾重にも着せたもので、蚕の神、農業の神、家の守り神として各家々で祀られているという。伝承園の奥のやや暗い部屋に入ると、壁中にオシラサマが飾られてあり壮観であるが、すこし気味が悪くもあった。
『みちのくの人形たち』も怖い話である。ある日、「そのヒト」が「私」の家へやってきて「もじずり(文字摺草)」という花の話をして、よかったら訪ねてきてくれという。この花はネジバナ(捩花)ともいい、茎がねじれたようになって花が咲いていく。花言葉は「思慕」だそうだ。
東北の山奥に、「そのヒト」を訪ねていくと、その村では「ダンナさま」と呼ばれている。その家に泊まることにすると、夜、半道も上にあるところから青年が、横二尺、縦三尺くらいの屏風を借りにくる。出産があるのだという。また、遅くなって別の家からも屏風を借りにくる。青年の家は初産で、あとの家は何回もお産をしているので、こちらの方が早く生まれそうなので、屏風を青年の家から取り戻して先に使うことになる。出産が続くことを、この家の奥さんは「口がアいた」と言っている。
「私」は先に出産がある家に、旦那さまの後について入ってしまう。そこでは、線香の匂いがし、屏風が逆さまに立ててあった。「お産は、すみましたか?」と聞くと、「へー、母子とも変りありませんでした」ということだった。
旦那さまに詳しい話を聞くと、逆さ屏風の意味は、生まれたばかりの嬰児を産湯のタライ中で、呼吸を止めてしまうという。産声をあげないうちに処置するので、殺人にもならず、闇から闇へ葬るのである。この村では、人工流産(中絶)という処置をしないで、生まれるまで何もしないという昔からの風習を守っているらしい。時代は東北自動車道が仙台まで開通してから十年ということであるから、一九八三年頃のこととなる。
より怖いのは、旦那さまが床の間の部屋に「私」を連れて行き、横にある仏壇の奥にある、小さい女性の仏像を見せる。旦那さまの先祖で産婆だった人の仏像である。両手がない。この先祖は多くの嬰児の処置(間引き)をしたので、罪を重ねた両腕を肩の付け根から切り落としたという。この人は傷口に松ヤニをぬって、その後、三年、生きたそうだ。
駅通りの土産物売場に人形がおいてあり、それは「あのヒト」の家のふたりの子供が並んでいるようだった。霊的な表情であり、旦那さまの仏壇のご先祖様と、形も顔も同じだった。
この山奥の人形(仏像)の話は深沢七郎の面目を躍如とさせるものである。ただ、疑問点も残る。
江戸時代は人口三千万人で、安定していたといわれている。農業をはじめとして、循環型社会で、再生エネルギーどうのこうのという現代からみれば、ある種、理想的な社会だと思っていたが、このような形で人口調節をしていたに違いない。
ただ、土産物店の人形がこけしだとすれば、腕がないのは、当然だし、中絶で胎児の頭を鑿で割るというようなことは無いだろう。話は「あのヒト」のもじずりから始まるのだが、このもじずりにはどういう意味があるのだろう。
『kawade道の手帖 深沢七郎』の中にあるインタビューを読んでいると、深沢七郎と一般の人の生に対する方向性は逆転している。伝染病や戦争で人が死ぬのは人工調節でいいことだと考えている。産児制限運動を提唱し、訪日したこともあるサンガー夫人を称賛している。
『楢山節考』で、息子が年取った母親を姥捨山に連れて行くのだが、これも一般の人の考えでは哀れな話になるが、深沢七郎は、母親は山へ連れて行かれて幸せになると考えているのだろう。
2021年7月10日
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