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佐伯一麦『渡良瀬』を読んで

2018-03-30 10:32:28 | 読んだ本
    佐伯一麦『渡良瀬』              松山愼介
 東京で七年間、電気工をやっていた南條拓は、子供の緘黙症や喘息、それに自身のアスベストによる肋膜炎の予後という事情もあって、配電盤作りの見習工として茨城県の渡良瀬の(株)平塚電機製作所で働いている。時は昭和から平成へ代わる時で、昭和天皇の病状の進行を背景に物語が進んでいく。昭和天皇の病状を背景にすることで、単なる配電工と家族の物語に厚みを加えている。途中に宮崎勤事件もはさまれる。
 私は家族経営の単なる薄鋼板販売店で働いていたが、機械の配電盤が故障したりすると、自分で電線を繋ぐこともあったので、規模は異るがこの配電盤を制作している現場の様子はよくわかった。このような大きな配電盤になると、取り付ける現場によって、場所や電気の容量が異るのでひとつひとつ設計するという注文制作になるのだと思われる。そのため既成品ではなく、異なった仕様の配電盤を作らなければならないので電気職人の腕が重要になってくる。技術も先輩の作業を見ながら盗んで腕を上げていかなければならない。
 ラチェットレンチ、六角スパナ、モンキースパナなどは薄鋼板を切断する刃を交換するのに必要な道具なので、いつも使っていたので、働いていた当時を思い出して懐かしかった。電線は絶縁ビニール(?)で被覆されているので、電工ナイフ(ニッパー?)で電線を傷つけないように被覆だけを切り取る。昔はそれをねじってそのまま端子に巻いていたのだが、圧着端子が使われるようになり、電線を圧着端子に通して、首の部分を圧着工具で押し潰すようにして連結するようになった。端子の先は書いてあるように丸型とYの字型の二つの種類がある。太線の場合は油圧式の圧着工具を使うと書いてあるので、相当、太い電線なのであろう。普通は手のひらにおさまる圧着ペンチで十分である。両手で使う大きな圧着ペンチもあるが。
 昭和天皇の死、渡良瀬の鉱害の跡地などがでてくるが、立ち入った考察はなされず配電の仕事の内容だけでこれだけの作品が書けるのは作者の力量だろう。福武書店からでていた「海燕」に連載されていたが、「海燕」の販売不振による休刊によって連載は一九九六年に中止となった。吉本隆明の「イメージ論」も「海燕」に連載されていた。「海燕」の編集者が吉本家に出入りしていた関係で吉本ばななが「海燕」新人賞に応募し、賞を獲得したのは有名な話である。
『渡良瀬』が二〇一三年十二月に残りを加筆して出版されたが、同じ年の二月に『還れぬ家』が刊行されている。これは時間的には『渡良瀬』の続編となっている。『還れぬ家』になると先妻と離婚し、染織家の柚子と一緒になっている。先妻は〈私〉がアスベストの後遺症と胸膜炎、喘息の発作で病院にかかり、退院した直後離婚届を突きつけた。〈私〉は大きな文学賞の賞金と本の印税で、まとまったお金が入り、先妻との関係は冷え切っていたがやり直せるかもしれないと考えて、それを頭金にして家を建てていたのだった。ところが「ゆとり返済」を甘くみていていたのと、医療費と生活費に住宅用の資金を流用し多額の借金をするハメになってしまった。また先妻が無断で駐車場などの追加工事を発注していたためもあった。病気で心が弱っていた時に、この思いがけない工事費の請求がきたため、〈私〉は自殺未遂を起こしてしまう。
 柚子さんは、先妻への慰謝料、子供の養育費、先妻が住んでいる家のローンを払い続けることを承知の上で結婚し、共稼ぎでやりくりしてくれた。しかし、柚子さんは子宮内膜症いかかり、結局、二人の間には子供はできなかった。この『還れぬ家』では、仙台で東北大震災にあっている。家が海から八キロのところにあったので津波の被害は免れている。『渡良瀬』で、昭和天皇の死や、鉱害が他人事のように書かれていたが、こちらでは地元の出来事なのでより深刻に内的に受けとめられている。「私小説」作家といわれる由縁であろうか。もっとも『還れぬ家』のテーマは震災の二年前に亡くなった認知性の父親との関係がテーマなのだが。
 ところで、先妻のことが気になったので『ショートサーキット』を読み返してみると、先妻とは《私と妻は、六年前、フリの客とスナックのアルバイト嬢として知り合ったその夜から、野合同然に一緒に暮し始めたのである。互いに、二十一だった。妻はすぐに子を孕み、私たちは籍を入れて夫婦となった》ということなのだった。別の作品では、すぐ孕んだ子ははたして自分の子だろうかと疑問に思っているところもあった。『渡良瀬』だけでは、なにか物足らなかったが『還れぬ家』を合わせて読むことによって、佐伯ワールドにひたることができた。
                        2018年2月10日

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