静寂の季節
松山愼介
松沢吾郎はこのところ、何もすることがなくぼんやりしていることが多くなった。週に二度、整形外科へ五十肩のリハビリに行き、月に一度、高血圧の薬を貰いに行くという日課があるくらいだ。後はテレビを見るか、本を読むくらいのことだ。定年退職して五年、妻を交通事故で亡くして三年になる。この頃は、人生は緩慢な死への道なのかと思うことがある。テレビドラマでALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかった青年の物語があった。ALSは身体の筋肉が徐々に麻痺していき、最終的には、呼吸筋が麻痺して死に至るか、人工呼吸器を付け、身体は半植物状態になり、脳の機能は維持されながら、死を待つという残酷な病気である。時間の長い短いの個人差はあれ、人は確実に生まれた時から死に向かって生きているのだ。ただ、それを意識して生きているかどうかという違いがあるだけだろう。
二、三日前に山で滑落死した女性がいた。報道によると六十六歳と六十九歳の女性二人で登山し、その内一人が雪で足を滑らし転落したらしい。年齢からいっても、おそらく雪のない山ではもの足りなくなって、雪の残る春山に挑戦したのだろう。結果的に一人が亡くなったとはいえ、そのチャレンジ精神には感心した。三浦雄一郎という八十歳でエベレスト登頂に成功した冒険家もいるが、この人は例外だろう。六十五歳というのは微妙な年齢で、仕事を引退し、といってそれほど体力に衰えを感じるわけではない。しかし、確実に体力は低下している。その体力と精神のバランスをうまく取って生きていくということが、この年齢層の課題だろう。そんなことを考えている吾郎の脳裏に浮かぶのは若い学生時代の体験である。
それは四十数年前のことである。彼の行っていた地方大学にも大学三年の春にはいわゆる全共闘運動というのが押し寄せてきた。その一、二年前から東京などでは学生と機動隊の派手な衝突が報道されていたが、彼には無縁のものだと思っていた。ところがこの年の一月には東大安田講堂の攻防戦というのがテレビを賑わし、東大の入試が中止になった。これで学園闘争も終わりかと思っていたら、春になって吾郎の大学にも突然のようにキャンパス内にいろんな色のヘルメット姿の学生が登場し、入学式も会場の体育館に学生達が立てこもって封鎖したため中止になった。
この体育館封鎖、入学式中止という事態に対し、学長が「ナチスもやらなかったような暴挙」という声明を発表したことで、逆に一般学生の怒りを買い、彼らをも運動に巻き込むことになった。一般学生だった吾郎のところにもその波が押し寄せてきた。吾郎は経済学部に進学していた。ただ所定の単位を取って卒業しどこかの企業に就職すればいいと考えていた。入学当初は文学部のロシア文学科にいきたいと思っていた。しかしロシア語は難しかった。半年くらい挑戦してみたがすぐ挫折した。だいたい、ロシア語はアルファベット自体が英語と異なり、しかも三十三もあるのだ。それはそれで覚えればいいのだが、名詞が前置詞によって変化するのにはまいった。モスクワがモスクヴァとかモスクヴィエと語尾が変化するのである。男性名詞、女性名詞というものもあり、じっくり取り組む気力がなくなってしまった。
一年のロシア語の単位はなんとか取ったが、二年になるともうお手上げで授業にもほとんど出なかった。試験も欠席しようと思っていたが、何か書けば最低の合格点はもらえると、風の噂で聞いたので試験を受け、単位だけはお情けで取ることができた。こんな風に成長していくということは、自分の可能性がどんどん狭められていくことだった。そして大学を卒業して、どこかの企業に入って結婚してというような、決められた人生のコースがもう見えるようだった。
そんな風に人生を考えていたところに、降って湧いたような大学の騒ぎであった。クラスの中にはいち早く、この運動に参加している者がいた。それが山上だった。彼は東京出身で、東大入学者数で上位になっていた進学校からこの地方大学に来ていた。高校時代から学生運動にかかわっていたようだった。吾郎は高校ではラグビーをやっていたが、大学では運動部に入る気はなかった。ロシア文学科への進学はあきらめたものの、ドストエフスキーは好きでよく読んでいた。自分の内部にも一人のラスコーリニコフが存在していると考えていた。
山上と話をすると、彼もロシア文学に興味を持っていたが、話はすぐロシア革命の方へいった。レーニンやトロツキーという名前が山上の口からポンポン出てきた。
「松沢は、今のソ連が正しい社会主義だと思っているかい?」
「自由や民主主義がない国はおかしいと思う。でも資本主義もいいとも思えないね」
「今のソ連はレーニンやトロツキーのプロレタリア革命をスターリンが歪曲して、スターリンが独裁体制を打ちたて、その後も党官僚の支配体制が続き、民衆を秘密警察が監視するというとんでもない国家なんだ」
「山上はトロツキストなのかい?」
「トロツキストという言葉は感心しないな。トロツキストは自治会執行部派の連中が俺たちを誹謗中傷するときの言い方だからな。まだトロツキー主義者という言葉の方がましだがね。俺達はトロツキー主義者でもないよ。ロシア革命におけるトロツキーの役割は再評価されなければならないが、レーニン亡き後、トロツキーがなぜスターリンに敗北したのかを考える必要があるんだ」
「じゃ~君らの目指しているのはどんな国なんだい?」
「現在の資本主義の貧富の差を解消して、かつソ連のような間違った社会主義国家でもない、新しい労働者国家をつくるんだ」
吾郎は今まで、資本主義も悪いが、ソ連を中心とする社会主義も良いとは思えなかった。たとえば東西に分割されたドイツはベルリンも東西に分割されていた。その境界には壁があった。これまでにも、何人もの人が東から西へ壁を越えようとして殺されていた。死を覚悟してまで、自分の住んでいる国から脱出しようとするということは、その国が相当ひどい状態にあるということだろう。いつも資本主義もダメ、社会主義もダメというところで思考がストップしていた吾郎にとって、資本主義でもない現在の秘密警察国家になっている社会主義でもない新たな労働者国家という考え方は新鮮だった。
学内では自治会執行部派と、入学式を中止させた反自治会派の小競り合いは続いていた。吾郎は経済学部に進学していたので、教養部のように活発なクラス討論はなかったが、ゼミの連中や、二年までのクラスの連中と進んで話し合った。結論は出なかったが現在の大学の大人数を相手にしてのマイクを使った授業がおかしいとか、なんの業績もあげていない教授が毎年、同じ授業をしながら、その地位が保障されているのはおかしいというような意見がだされた。
そのうち入学式を中止させた教養部の二年生を中心としたグループが教養部闘争委員会(C闘委)を結成した。C闘委は早速、「ナチスもやらなかったような暴挙」という声明を発表した学長と大学当局に対して大衆団交を申し込んだ。当然ながら大学当局はこれを拒否した。つまり学長や大学当局は学生との話し合いに応じないという態度を示したのだった。ここでC闘委は大学当局を大衆団交に応じさせるためにストライキを追及するという戦術を提起した。吾郎は、教養部は過激だなという感想をもった。それにストライキという方針がこれまで平穏であったこの地方大学で通るわけはないと思った。ところが学生大会で、自治会執行部派の反対をよそに可決されてしまったのである。
今から考えてみると、学生達は平穏な大学生活にあきあきしていたのだ。なんか刺激的な行動を求めていたのだ。それが大学内の若い世代ほど、その度合が強かったのだ。教養部の主導権を握ったC闘委は決議になかったのだが、当然のように出入口にバリケードを作った。しばらくして吾郎は教養部のバリケードをのぞいてみたのだが、人一人分が通れるスペースを作ってロッカーがきちんと並べてあった。それも直線ではなく、鈎型状の折れ曲がった通路になっていた。要所を針金で止めてあって、見事なものだった。誰に学んだわけでもなく、このようなバリケードを作った教養部の学生達に感心した。
あせったのはそれまで大学内で自治会執行部派と対抗関係にあった既成セクトであった。最大野党であったK派は突然、大学本部を封鎖した。二十数名で角材とヘルメットで武装して、大学本部内に入り、職員の退去を求めた。抵抗する職員はほとんどいなかった。ただこのK派は警察機動隊が導入されるかもしれないという噂で、一週間ほどでこの封鎖を解いた。みずからの党派の存在を示したことに満足したのであろう。
C闘委は教養部のバリケードストだけではなく、大学当局の反応がないので、街頭闘争にも打って出た。アメリカによるベトナム戦争が続いていたし、千葉県三里塚には農民の反対を押し切って新空港建設が強行されようとしていた。またこの地方都市の郊外に自衛隊のナイキミサイル基地建設が計画されようとしていた。沖縄返還も決まり、日本国内の米軍基地に核兵器が持ち込まれるという危機感もあった。大学内部の空洞化と、反戦闘争の激化はC闘委のまわりに多くの学生を結集させた。これらの学生達がベトナム反戦、成田三里塚空港建設反対、沖縄の米軍基地撤去を叫んで街頭へ繰り出していった。C闘委はこのような政治に対する抗議運動と、大学闘争を結びつけようとした。
大学内では全共闘が結成され、各学部闘争委員会は学生大会の決議なしに次々とバリケード封鎖していった。ただ自治会執行部派が圧倒的力を持っていた理学部だけは全共闘も手を出せなかった。工学部では工学部闘争委員会によって、スト権投票が行われた。このスト権投票は変わっていて、工学部ストライキは当然決行されるべきであるという考えのもとに、ストライキに反対する者だけが投票するべきだというものだった。その結果、ストライキ反対票少数ということで、ストライキが決行された。
吾郎はこのような成り行きを、山上の後ろに付いてまわりながら見守った。そのうちに、気がつくと山上から黒色のヘルメットを渡された。その黒ヘルメットには白色のポスターカラーで経闘委(経済学部闘争委員会の略)と書かれていた。
「今日は十月二十一日だ。なんの日かわかるな。国際反戦デーだ。三時からデモに出発するから、俺について来い」と山上は言った。吾郎は釈然としないものを感じていたが、黒ヘルメットを受け取りうなずいた。デモに出るのは始めてだったが、C闘委や全共闘に共感はしていたので抵抗はなかった。
その日のデモは荒れた。大学正門から一キロほどのところに国鉄の陸橋があった。そのたもとで警察機動隊は阻止線を張っていた。市の中心部にデモ隊を近づけず、大学内に押し込める作戦だったようだ。デモ隊は道路一杯に隊列を組んで、ジュラルミンの大盾を持った機動隊と激突した。デモ隊は何度か突破を試みたが、機動隊から発射される催涙弾と放水のために押し返された。日が暮れるころになると、どこからか火炎ビンを持った学生の一団が現れ、機動隊に火炎ビンを投げ込み、他の学生達も歩道の敷石をはがし、割って投石した。その日は夜まで、散発的に投石は続いたものの、時間が立つにつれ学生達は散り散りになっていった。道路上は投石された石が転がっていた。また近くの交番に火炎ビンが投げ込まれ炎上した。
吾郎は途中で、頃合いをみてヘルメットを脱ぎ捨て下宿に帰った。次の日、大学に行くと百数十人が検挙されたという話だった。先頭に立っていた山上も検挙されたということだった。
大学内では自治会執行部派の拠点である理学部、そこへ突入して、全学バリケードストをはかるC闘委を中心とする全共闘派の間で攻防戦が連日のように繰り返された。理学部の建物は上からスッポリ網でおおわれ、異様な姿をしていた。その網で全共闘派の投石を防御していた。一週間ほど、この攻防戦は続いたが、結局理学部に突入はできなかった。この頃を境にして、自治会執行部派と全共闘派の力関係が逆転してきた。四月から夏休みを経て、ストライキが半年を越えてくると、全共闘派の動員力も落ちてきて、その一方で授業再開を求める一般学生も多くなってきた。大学や世間をおおっていた閉塞感から逃れようと全共闘の運動にのったものの、全共闘が先行きの展望を見いだせず、街頭闘争へ出たことが結局、学内での全共闘派の支持を失わせていった。その逆に自治会執行部派が支持を盛り返してきた。全共闘派が理学部への突入をあきらめると、自治会執行部派は教養部の封鎖解除の実力行使に出てきた。激しい攻防戦の末、教養部の封鎖は解除された。
丁度、この頃「大学立法」といわれた法案が国会を通過した。大学を不法に占拠している学生を、警察が大学内に立ち入って排除するための法案であった。形骸化していた「大学の自治」は完全になくなり、大学内に自由に警察機動隊が入れるようになった。十一月の初め、吾郎の大学への機動隊導入が決定された。C闘委を中心に全共闘として五人が今なお堅固なバリケードに守られた大学本部に籠城することが決まった。
その日、吾郎はただ機動隊に攻撃される大学本部の建物を百メートルほど離れた場所から見守っていた。大学の周りは機動隊に固められ、構内には入れなかった。機動隊は催涙弾と放水を徹底的に浴びせた後、ケージのようなものに機動隊員十人くらいを入れ、クレーンで屋上に降下させた。学生五人は、力を出し尽くしたのかもう抵抗しなかった。全員が逮捕された。
学内のバリケードはすべて撤去され、一週間ほどして授業が再開された。吾郎はしばらく授業にでるのをためらっていたが、とりあえずゼミにだけは出ることにした。ゼミはマルクス『資本論』の購読だった。吾郎には『資本論』を読む力はなかったが、担当教授は丁寧に『資本論』の論理構造を教えてくれた。『資本論』の内容が一ページ、一ページ頭の中に入ってくる実感があった。大学闘争の中で、バカにした教授もあったけど、吾郎の前に新しい世界が開かれたようだった。
そんな時、十月二十一日のデモで逮捕された山上がようやく出所してきた。彼は警察から目を付けられていたこともあって、公務執行妨害、凶器準備集合罪で起訴されていた。起訴されたということは裁判にかけられるということである。裁判の準備や、弁護士との打ち合わせ等、時間と費用がかさむことになる。山上にとっては保釈金も負担であった。とりあえず吾郎は一万円をカンパすることで、自己を免罪した。今頃になって自分ももっと闘わなければならなかったのではないかという、ある種、良心の呵責を感じていたからである。
C闘委のよく闘ったメンバーは、自治会執行部派の連中から嫌がらせを受けていた。大学に出てくると「大学解体と言っていたのはどうしたんだ!」と罵声を浴びせられた。後になって聞いた話だが二年ほど休学して、顔見知りの自治会執行部派の連中が卒業してから、復学したメンバーも相当数いたらしい。またC闘委のメンバーは理学部にはいくことはできなかった。吾郎の経済学部は、対立はほとんどなかったし、吾郎は活動家というほどのこともなかったので、比較的平穏な大学生活を送ることができた。しかし、封鎖解除後の大学は、今までの大学となにか違っていた。吾郎はもう講義を受ける気をなくしていた。ただ週に一度のゼミには欠かさず出席した。
吾郎は大学を中途退学することも考えたが、よくよく考えて卒業することにした。この時、大学の卒業証書をもらっておいた方が、後々有利になるのではないかという打算があったことは否定できなかった。ただ卒業までの一年余りは長かった。大学には平穏な秩序が戻り、大学闘争などなかったかのように、以前と変わりない授業が続けられた。
吾郎はゼミには出席したが、後は図書館に行って、一日を過ごした。学問というものを教えてくれたゼミの教授は信頼していたので、卒業論文は提出したかった。論文の書き方もわからなかったが、とりあえず初期マルクスに関する文献を少しずつ読んでいった。また取り残した単位も取るべく努力した。特に教養部の時、体育の授業が月曜日の一講目だったので、朝に弱い吾郎はほとんど出席できなかった。大学はこのような連中を集めて体育の補講をしていた。ある日などは一日四時間くらい、この体育の補講に出たりした。ほとんどが卓球だった。気のいい体育の教授は吾郎の顔を覚えていて、授業の準備を手伝っただけで、一講分、出席したことにしてくれた。
期限ぎりぎりで吾郎は卒業に必要な単位を取ることができた。大学の封鎖が解除されて一年半がたっていた。裁判闘争を続けている山上ともう会うこともなかった。卒業できることが確実になると、吾郎は同じゼミの東田に誘われてスナックに飲みにいったりもした。東田はひょうきんな男で、女の子を楽しませる会話が自然とできる性格だった。吾郎は東田の横に座って、スナックの女の子とのたわいない会話を楽しんだ。
大学の卒業式が近づき、吾郎は荷物を故郷に送り出し、最後にいつものスナックに飲みにいった。そこで女の子に「靴を買ってくれない」と頼まれた。たわいない会話を店でするだけで、まだそんなに仲が良いというほどの関係でもなかった。彼女は少し親しくなると、誰彼なしにプレゼントをねだっていたようだった。吾郎は大学四年間で親しく付き合った女性もいなかった。それでその子のためでなく、自分の思い出のために靴をプレゼントすることにした。次の日、待ち合わせて彼女の気に入った靴を買って喫茶店で、たわいない話をして別れた。
大学闘争の終わってからの静寂の季節は長かった。吾郎は卒業式に出ることもなく、下宿の後輩に卒業証書を送ってくれるように頼んで、誰に見送られることもなく、一人この地方大学を去り故郷に帰って行った。
2014年3月31日
松山愼介
松沢吾郎はこのところ、何もすることがなくぼんやりしていることが多くなった。週に二度、整形外科へ五十肩のリハビリに行き、月に一度、高血圧の薬を貰いに行くという日課があるくらいだ。後はテレビを見るか、本を読むくらいのことだ。定年退職して五年、妻を交通事故で亡くして三年になる。この頃は、人生は緩慢な死への道なのかと思うことがある。テレビドラマでALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかった青年の物語があった。ALSは身体の筋肉が徐々に麻痺していき、最終的には、呼吸筋が麻痺して死に至るか、人工呼吸器を付け、身体は半植物状態になり、脳の機能は維持されながら、死を待つという残酷な病気である。時間の長い短いの個人差はあれ、人は確実に生まれた時から死に向かって生きているのだ。ただ、それを意識して生きているかどうかという違いがあるだけだろう。
二、三日前に山で滑落死した女性がいた。報道によると六十六歳と六十九歳の女性二人で登山し、その内一人が雪で足を滑らし転落したらしい。年齢からいっても、おそらく雪のない山ではもの足りなくなって、雪の残る春山に挑戦したのだろう。結果的に一人が亡くなったとはいえ、そのチャレンジ精神には感心した。三浦雄一郎という八十歳でエベレスト登頂に成功した冒険家もいるが、この人は例外だろう。六十五歳というのは微妙な年齢で、仕事を引退し、といってそれほど体力に衰えを感じるわけではない。しかし、確実に体力は低下している。その体力と精神のバランスをうまく取って生きていくということが、この年齢層の課題だろう。そんなことを考えている吾郎の脳裏に浮かぶのは若い学生時代の体験である。
それは四十数年前のことである。彼の行っていた地方大学にも大学三年の春にはいわゆる全共闘運動というのが押し寄せてきた。その一、二年前から東京などでは学生と機動隊の派手な衝突が報道されていたが、彼には無縁のものだと思っていた。ところがこの年の一月には東大安田講堂の攻防戦というのがテレビを賑わし、東大の入試が中止になった。これで学園闘争も終わりかと思っていたら、春になって吾郎の大学にも突然のようにキャンパス内にいろんな色のヘルメット姿の学生が登場し、入学式も会場の体育館に学生達が立てこもって封鎖したため中止になった。
この体育館封鎖、入学式中止という事態に対し、学長が「ナチスもやらなかったような暴挙」という声明を発表したことで、逆に一般学生の怒りを買い、彼らをも運動に巻き込むことになった。一般学生だった吾郎のところにもその波が押し寄せてきた。吾郎は経済学部に進学していた。ただ所定の単位を取って卒業しどこかの企業に就職すればいいと考えていた。入学当初は文学部のロシア文学科にいきたいと思っていた。しかしロシア語は難しかった。半年くらい挑戦してみたがすぐ挫折した。だいたい、ロシア語はアルファベット自体が英語と異なり、しかも三十三もあるのだ。それはそれで覚えればいいのだが、名詞が前置詞によって変化するのにはまいった。モスクワがモスクヴァとかモスクヴィエと語尾が変化するのである。男性名詞、女性名詞というものもあり、じっくり取り組む気力がなくなってしまった。
一年のロシア語の単位はなんとか取ったが、二年になるともうお手上げで授業にもほとんど出なかった。試験も欠席しようと思っていたが、何か書けば最低の合格点はもらえると、風の噂で聞いたので試験を受け、単位だけはお情けで取ることができた。こんな風に成長していくということは、自分の可能性がどんどん狭められていくことだった。そして大学を卒業して、どこかの企業に入って結婚してというような、決められた人生のコースがもう見えるようだった。
そんな風に人生を考えていたところに、降って湧いたような大学の騒ぎであった。クラスの中にはいち早く、この運動に参加している者がいた。それが山上だった。彼は東京出身で、東大入学者数で上位になっていた進学校からこの地方大学に来ていた。高校時代から学生運動にかかわっていたようだった。吾郎は高校ではラグビーをやっていたが、大学では運動部に入る気はなかった。ロシア文学科への進学はあきらめたものの、ドストエフスキーは好きでよく読んでいた。自分の内部にも一人のラスコーリニコフが存在していると考えていた。
山上と話をすると、彼もロシア文学に興味を持っていたが、話はすぐロシア革命の方へいった。レーニンやトロツキーという名前が山上の口からポンポン出てきた。
「松沢は、今のソ連が正しい社会主義だと思っているかい?」
「自由や民主主義がない国はおかしいと思う。でも資本主義もいいとも思えないね」
「今のソ連はレーニンやトロツキーのプロレタリア革命をスターリンが歪曲して、スターリンが独裁体制を打ちたて、その後も党官僚の支配体制が続き、民衆を秘密警察が監視するというとんでもない国家なんだ」
「山上はトロツキストなのかい?」
「トロツキストという言葉は感心しないな。トロツキストは自治会執行部派の連中が俺たちを誹謗中傷するときの言い方だからな。まだトロツキー主義者という言葉の方がましだがね。俺達はトロツキー主義者でもないよ。ロシア革命におけるトロツキーの役割は再評価されなければならないが、レーニン亡き後、トロツキーがなぜスターリンに敗北したのかを考える必要があるんだ」
「じゃ~君らの目指しているのはどんな国なんだい?」
「現在の資本主義の貧富の差を解消して、かつソ連のような間違った社会主義国家でもない、新しい労働者国家をつくるんだ」
吾郎は今まで、資本主義も悪いが、ソ連を中心とする社会主義も良いとは思えなかった。たとえば東西に分割されたドイツはベルリンも東西に分割されていた。その境界には壁があった。これまでにも、何人もの人が東から西へ壁を越えようとして殺されていた。死を覚悟してまで、自分の住んでいる国から脱出しようとするということは、その国が相当ひどい状態にあるということだろう。いつも資本主義もダメ、社会主義もダメというところで思考がストップしていた吾郎にとって、資本主義でもない現在の秘密警察国家になっている社会主義でもない新たな労働者国家という考え方は新鮮だった。
学内では自治会執行部派と、入学式を中止させた反自治会派の小競り合いは続いていた。吾郎は経済学部に進学していたので、教養部のように活発なクラス討論はなかったが、ゼミの連中や、二年までのクラスの連中と進んで話し合った。結論は出なかったが現在の大学の大人数を相手にしてのマイクを使った授業がおかしいとか、なんの業績もあげていない教授が毎年、同じ授業をしながら、その地位が保障されているのはおかしいというような意見がだされた。
そのうち入学式を中止させた教養部の二年生を中心としたグループが教養部闘争委員会(C闘委)を結成した。C闘委は早速、「ナチスもやらなかったような暴挙」という声明を発表した学長と大学当局に対して大衆団交を申し込んだ。当然ながら大学当局はこれを拒否した。つまり学長や大学当局は学生との話し合いに応じないという態度を示したのだった。ここでC闘委は大学当局を大衆団交に応じさせるためにストライキを追及するという戦術を提起した。吾郎は、教養部は過激だなという感想をもった。それにストライキという方針がこれまで平穏であったこの地方大学で通るわけはないと思った。ところが学生大会で、自治会執行部派の反対をよそに可決されてしまったのである。
今から考えてみると、学生達は平穏な大学生活にあきあきしていたのだ。なんか刺激的な行動を求めていたのだ。それが大学内の若い世代ほど、その度合が強かったのだ。教養部の主導権を握ったC闘委は決議になかったのだが、当然のように出入口にバリケードを作った。しばらくして吾郎は教養部のバリケードをのぞいてみたのだが、人一人分が通れるスペースを作ってロッカーがきちんと並べてあった。それも直線ではなく、鈎型状の折れ曲がった通路になっていた。要所を針金で止めてあって、見事なものだった。誰に学んだわけでもなく、このようなバリケードを作った教養部の学生達に感心した。
あせったのはそれまで大学内で自治会執行部派と対抗関係にあった既成セクトであった。最大野党であったK派は突然、大学本部を封鎖した。二十数名で角材とヘルメットで武装して、大学本部内に入り、職員の退去を求めた。抵抗する職員はほとんどいなかった。ただこのK派は警察機動隊が導入されるかもしれないという噂で、一週間ほどでこの封鎖を解いた。みずからの党派の存在を示したことに満足したのであろう。
C闘委は教養部のバリケードストだけではなく、大学当局の反応がないので、街頭闘争にも打って出た。アメリカによるベトナム戦争が続いていたし、千葉県三里塚には農民の反対を押し切って新空港建設が強行されようとしていた。またこの地方都市の郊外に自衛隊のナイキミサイル基地建設が計画されようとしていた。沖縄返還も決まり、日本国内の米軍基地に核兵器が持ち込まれるという危機感もあった。大学内部の空洞化と、反戦闘争の激化はC闘委のまわりに多くの学生を結集させた。これらの学生達がベトナム反戦、成田三里塚空港建設反対、沖縄の米軍基地撤去を叫んで街頭へ繰り出していった。C闘委はこのような政治に対する抗議運動と、大学闘争を結びつけようとした。
大学内では全共闘が結成され、各学部闘争委員会は学生大会の決議なしに次々とバリケード封鎖していった。ただ自治会執行部派が圧倒的力を持っていた理学部だけは全共闘も手を出せなかった。工学部では工学部闘争委員会によって、スト権投票が行われた。このスト権投票は変わっていて、工学部ストライキは当然決行されるべきであるという考えのもとに、ストライキに反対する者だけが投票するべきだというものだった。その結果、ストライキ反対票少数ということで、ストライキが決行された。
吾郎はこのような成り行きを、山上の後ろに付いてまわりながら見守った。そのうちに、気がつくと山上から黒色のヘルメットを渡された。その黒ヘルメットには白色のポスターカラーで経闘委(経済学部闘争委員会の略)と書かれていた。
「今日は十月二十一日だ。なんの日かわかるな。国際反戦デーだ。三時からデモに出発するから、俺について来い」と山上は言った。吾郎は釈然としないものを感じていたが、黒ヘルメットを受け取りうなずいた。デモに出るのは始めてだったが、C闘委や全共闘に共感はしていたので抵抗はなかった。
その日のデモは荒れた。大学正門から一キロほどのところに国鉄の陸橋があった。そのたもとで警察機動隊は阻止線を張っていた。市の中心部にデモ隊を近づけず、大学内に押し込める作戦だったようだ。デモ隊は道路一杯に隊列を組んで、ジュラルミンの大盾を持った機動隊と激突した。デモ隊は何度か突破を試みたが、機動隊から発射される催涙弾と放水のために押し返された。日が暮れるころになると、どこからか火炎ビンを持った学生の一団が現れ、機動隊に火炎ビンを投げ込み、他の学生達も歩道の敷石をはがし、割って投石した。その日は夜まで、散発的に投石は続いたものの、時間が立つにつれ学生達は散り散りになっていった。道路上は投石された石が転がっていた。また近くの交番に火炎ビンが投げ込まれ炎上した。
吾郎は途中で、頃合いをみてヘルメットを脱ぎ捨て下宿に帰った。次の日、大学に行くと百数十人が検挙されたという話だった。先頭に立っていた山上も検挙されたということだった。
大学内では自治会執行部派の拠点である理学部、そこへ突入して、全学バリケードストをはかるC闘委を中心とする全共闘派の間で攻防戦が連日のように繰り返された。理学部の建物は上からスッポリ網でおおわれ、異様な姿をしていた。その網で全共闘派の投石を防御していた。一週間ほど、この攻防戦は続いたが、結局理学部に突入はできなかった。この頃を境にして、自治会執行部派と全共闘派の力関係が逆転してきた。四月から夏休みを経て、ストライキが半年を越えてくると、全共闘派の動員力も落ちてきて、その一方で授業再開を求める一般学生も多くなってきた。大学や世間をおおっていた閉塞感から逃れようと全共闘の運動にのったものの、全共闘が先行きの展望を見いだせず、街頭闘争へ出たことが結局、学内での全共闘派の支持を失わせていった。その逆に自治会執行部派が支持を盛り返してきた。全共闘派が理学部への突入をあきらめると、自治会執行部派は教養部の封鎖解除の実力行使に出てきた。激しい攻防戦の末、教養部の封鎖は解除された。
丁度、この頃「大学立法」といわれた法案が国会を通過した。大学を不法に占拠している学生を、警察が大学内に立ち入って排除するための法案であった。形骸化していた「大学の自治」は完全になくなり、大学内に自由に警察機動隊が入れるようになった。十一月の初め、吾郎の大学への機動隊導入が決定された。C闘委を中心に全共闘として五人が今なお堅固なバリケードに守られた大学本部に籠城することが決まった。
その日、吾郎はただ機動隊に攻撃される大学本部の建物を百メートルほど離れた場所から見守っていた。大学の周りは機動隊に固められ、構内には入れなかった。機動隊は催涙弾と放水を徹底的に浴びせた後、ケージのようなものに機動隊員十人くらいを入れ、クレーンで屋上に降下させた。学生五人は、力を出し尽くしたのかもう抵抗しなかった。全員が逮捕された。
学内のバリケードはすべて撤去され、一週間ほどして授業が再開された。吾郎はしばらく授業にでるのをためらっていたが、とりあえずゼミにだけは出ることにした。ゼミはマルクス『資本論』の購読だった。吾郎には『資本論』を読む力はなかったが、担当教授は丁寧に『資本論』の論理構造を教えてくれた。『資本論』の内容が一ページ、一ページ頭の中に入ってくる実感があった。大学闘争の中で、バカにした教授もあったけど、吾郎の前に新しい世界が開かれたようだった。
そんな時、十月二十一日のデモで逮捕された山上がようやく出所してきた。彼は警察から目を付けられていたこともあって、公務執行妨害、凶器準備集合罪で起訴されていた。起訴されたということは裁判にかけられるということである。裁判の準備や、弁護士との打ち合わせ等、時間と費用がかさむことになる。山上にとっては保釈金も負担であった。とりあえず吾郎は一万円をカンパすることで、自己を免罪した。今頃になって自分ももっと闘わなければならなかったのではないかという、ある種、良心の呵責を感じていたからである。
C闘委のよく闘ったメンバーは、自治会執行部派の連中から嫌がらせを受けていた。大学に出てくると「大学解体と言っていたのはどうしたんだ!」と罵声を浴びせられた。後になって聞いた話だが二年ほど休学して、顔見知りの自治会執行部派の連中が卒業してから、復学したメンバーも相当数いたらしい。またC闘委のメンバーは理学部にはいくことはできなかった。吾郎の経済学部は、対立はほとんどなかったし、吾郎は活動家というほどのこともなかったので、比較的平穏な大学生活を送ることができた。しかし、封鎖解除後の大学は、今までの大学となにか違っていた。吾郎はもう講義を受ける気をなくしていた。ただ週に一度のゼミには欠かさず出席した。
吾郎は大学を中途退学することも考えたが、よくよく考えて卒業することにした。この時、大学の卒業証書をもらっておいた方が、後々有利になるのではないかという打算があったことは否定できなかった。ただ卒業までの一年余りは長かった。大学には平穏な秩序が戻り、大学闘争などなかったかのように、以前と変わりない授業が続けられた。
吾郎はゼミには出席したが、後は図書館に行って、一日を過ごした。学問というものを教えてくれたゼミの教授は信頼していたので、卒業論文は提出したかった。論文の書き方もわからなかったが、とりあえず初期マルクスに関する文献を少しずつ読んでいった。また取り残した単位も取るべく努力した。特に教養部の時、体育の授業が月曜日の一講目だったので、朝に弱い吾郎はほとんど出席できなかった。大学はこのような連中を集めて体育の補講をしていた。ある日などは一日四時間くらい、この体育の補講に出たりした。ほとんどが卓球だった。気のいい体育の教授は吾郎の顔を覚えていて、授業の準備を手伝っただけで、一講分、出席したことにしてくれた。
期限ぎりぎりで吾郎は卒業に必要な単位を取ることができた。大学の封鎖が解除されて一年半がたっていた。裁判闘争を続けている山上ともう会うこともなかった。卒業できることが確実になると、吾郎は同じゼミの東田に誘われてスナックに飲みにいったりもした。東田はひょうきんな男で、女の子を楽しませる会話が自然とできる性格だった。吾郎は東田の横に座って、スナックの女の子とのたわいない会話を楽しんだ。
大学の卒業式が近づき、吾郎は荷物を故郷に送り出し、最後にいつものスナックに飲みにいった。そこで女の子に「靴を買ってくれない」と頼まれた。たわいない会話を店でするだけで、まだそんなに仲が良いというほどの関係でもなかった。彼女は少し親しくなると、誰彼なしにプレゼントをねだっていたようだった。吾郎は大学四年間で親しく付き合った女性もいなかった。それでその子のためでなく、自分の思い出のために靴をプレゼントすることにした。次の日、待ち合わせて彼女の気に入った靴を買って喫茶店で、たわいない話をして別れた。
大学闘争の終わってからの静寂の季節は長かった。吾郎は卒業式に出ることもなく、下宿の後輩に卒業証書を送ってくれるように頼んで、誰に見送られることもなく、一人この地方大学を去り故郷に帰って行った。
2014年3月31日
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