森田草平『煤煙』 松山愼介
森田草平と平塚明子の塩原心中未遂事件をえがいた『煤煙』は集英社の日本文学全集を古本で買っていて、読むのを楽しみにしていた。ところが、前半は長々と小島要吉の故国(くに)の描写が続き、やや退屈であった。ようやく十節で、平塚明子をモデルにした、真鍋朋子が登場するが、その印象は「あの眉と眉の間の暗い陰は、誰の眼にもつくじゃないか。冥府の烙印を顔に捺したような……一度見りゃ一生忘れられない顔だ」というものだった。要吉は神戸(生田長江がモデル)とともに金葉会の講師をしており、朋子は目白の女子大を出て会員になっていた。これが二人の出会いだった。
数日後、要吉は急性リュウマチで入院し、その見舞いに神戸と朋子が来て、朋子はダヌンチオの『トライアンフ、オブ、デス』(「死の勝利」)を借りて帰ることになる。この頃から、朋子は要吉に好意を抱いていたようである。詳しくは知らないが、二人が死のうとした理由のひとつにこの「死の勝利」という書があるようだ。
要吉は神戸から見せられた朋子の「末日」という小品の批評を送り、末尾に「伝説によればサッフォーは顔色の悪いダークな女であった」と書き添える。朋子は返信の最後に「この夜このごろ御言葉のはしばしまで繰返して、思い乱るることの繁く候」と書いてあった。後半でこれらの言葉の意味は解き明かされるので、森田草平という作家は、伏線をうまく使いなかなかの書き手のようである。一方で、この小説は明治末年の東京の風景をよく描いている。題名にもなった「煤煙」は東京砲兵工廠からの煙である。招魂社(靖国神社)の高台から神田、御茶ノ水、小石川の方を二人で眺めていて、ニコライ堂や砲兵工廠の煙が見えるのである。ここで、朋子は「私はもうどうしてもあなたと離れることができなくなった」という告白を要吉にしている。朋子は「煤煙」が好きだと言う。要吉はそれを「あなたの心の中の動揺を象徴的(シンボリック)に表していうようだから?」と受けている。まだ煤煙が公害ではなく、産業の発展を示すのどかな時期だったのだろうか。
塩原心中行は、終始、短刀を持った朋子のリードで行われ、要吉はやむを得ずついていったようである。太宰治の心中も、山崎富栄に心ならずも玉川上水に引き込まれたという説もある。朋子の遺書は明治四十一年三月二十一日になっている。夜、雪の山道を彷徨いながら要吉は、朋子の短刀を谷間に投げ捨て、「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分じゃ死なない。あなたも殺さない」と叫ぶところで物語は終わっている。前半はやや退屈であったが、後半の塩原行きのところは迫力があった。
実際の二人の塩原心中行は捜索願がだされ、二十四日早朝、警察官に保護される。二十五日の「朝日新聞」は「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士小説家 情婦は女子大卒業生」という見出しで、社会面中央に数段抜きでのせられた。取り押さえの警官に対して「我輩の行動は恋の神聖を発揮するものにして俯仰天地に愧ずるところなし」と言ったと伝えられた。朋子の母と生田長江が塩原まで迎えに行った。
漱石はこの事件を森田草平に小説に書くことを勧め、草平がためらっている間に『三四郎』が書かれ、平塚明子のイメージは美禰子に投影されている。草平も明治四十二年一月から『煤煙』を「朝日新聞」に連載することになる。この連載は、漱石から平塚家に、草平はこの事件の結果、中学の英語教師の職を失いものを書くより他に道はなくなったので、小説に書くことを認めてほしいという手紙が来た。母は断るために漱石を訪ねたが押し切られた。(堀場清子『青鞜の時代』岩波新書)
明子は、『煤煙』は事実と異るが作者の想像は自由なのでしょう、「本当の私とは違っています。書く人に私という人間がよく分かっていなかったのでしょう」と反撃した。井手文子『平塚らいてう』(新潮選書)によれば、まだ明治のこの時代には「恋愛」ということが西洋文学のイリュージョンでしかなく、明子は観念的に恋愛を求め、当時、結婚もし、子をなしていた森田草平が、そのような明子を扱いかねた結果だとしている。
『元始、女性は太陽であった』、「はじめて結ばれた人」によれば、その当時、明子は性知識がほとんどなく犬や猫の交尾を見たことはあっても、人間にそういうことがあるという現実感はなかったという。人間のそういう行為は春画を見て知ったという。塩原事件のあと、明子の家に嫌がらせに春画が送られてきたというから、それを見たのかもしれない。結局、はじめて結ばれた人は海禅寺の中原和尚で明治四十三年の夏頃であったという。ともあれ、これらの体験をバネにして平塚明子は「青鞜」の女、平塚らいてうになっていくのである。
2017年11月11日
森田草平と平塚明子の塩原心中未遂事件をえがいた『煤煙』は集英社の日本文学全集を古本で買っていて、読むのを楽しみにしていた。ところが、前半は長々と小島要吉の故国(くに)の描写が続き、やや退屈であった。ようやく十節で、平塚明子をモデルにした、真鍋朋子が登場するが、その印象は「あの眉と眉の間の暗い陰は、誰の眼にもつくじゃないか。冥府の烙印を顔に捺したような……一度見りゃ一生忘れられない顔だ」というものだった。要吉は神戸(生田長江がモデル)とともに金葉会の講師をしており、朋子は目白の女子大を出て会員になっていた。これが二人の出会いだった。
数日後、要吉は急性リュウマチで入院し、その見舞いに神戸と朋子が来て、朋子はダヌンチオの『トライアンフ、オブ、デス』(「死の勝利」)を借りて帰ることになる。この頃から、朋子は要吉に好意を抱いていたようである。詳しくは知らないが、二人が死のうとした理由のひとつにこの「死の勝利」という書があるようだ。
要吉は神戸から見せられた朋子の「末日」という小品の批評を送り、末尾に「伝説によればサッフォーは顔色の悪いダークな女であった」と書き添える。朋子は返信の最後に「この夜このごろ御言葉のはしばしまで繰返して、思い乱るることの繁く候」と書いてあった。後半でこれらの言葉の意味は解き明かされるので、森田草平という作家は、伏線をうまく使いなかなかの書き手のようである。一方で、この小説は明治末年の東京の風景をよく描いている。題名にもなった「煤煙」は東京砲兵工廠からの煙である。招魂社(靖国神社)の高台から神田、御茶ノ水、小石川の方を二人で眺めていて、ニコライ堂や砲兵工廠の煙が見えるのである。ここで、朋子は「私はもうどうしてもあなたと離れることができなくなった」という告白を要吉にしている。朋子は「煤煙」が好きだと言う。要吉はそれを「あなたの心の中の動揺を象徴的(シンボリック)に表していうようだから?」と受けている。まだ煤煙が公害ではなく、産業の発展を示すのどかな時期だったのだろうか。
塩原心中行は、終始、短刀を持った朋子のリードで行われ、要吉はやむを得ずついていったようである。太宰治の心中も、山崎富栄に心ならずも玉川上水に引き込まれたという説もある。朋子の遺書は明治四十一年三月二十一日になっている。夜、雪の山道を彷徨いながら要吉は、朋子の短刀を谷間に投げ捨て、「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分じゃ死なない。あなたも殺さない」と叫ぶところで物語は終わっている。前半はやや退屈であったが、後半の塩原行きのところは迫力があった。
実際の二人の塩原心中行は捜索願がだされ、二十四日早朝、警察官に保護される。二十五日の「朝日新聞」は「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士小説家 情婦は女子大卒業生」という見出しで、社会面中央に数段抜きでのせられた。取り押さえの警官に対して「我輩の行動は恋の神聖を発揮するものにして俯仰天地に愧ずるところなし」と言ったと伝えられた。朋子の母と生田長江が塩原まで迎えに行った。
漱石はこの事件を森田草平に小説に書くことを勧め、草平がためらっている間に『三四郎』が書かれ、平塚明子のイメージは美禰子に投影されている。草平も明治四十二年一月から『煤煙』を「朝日新聞」に連載することになる。この連載は、漱石から平塚家に、草平はこの事件の結果、中学の英語教師の職を失いものを書くより他に道はなくなったので、小説に書くことを認めてほしいという手紙が来た。母は断るために漱石を訪ねたが押し切られた。(堀場清子『青鞜の時代』岩波新書)
明子は、『煤煙』は事実と異るが作者の想像は自由なのでしょう、「本当の私とは違っています。書く人に私という人間がよく分かっていなかったのでしょう」と反撃した。井手文子『平塚らいてう』(新潮選書)によれば、まだ明治のこの時代には「恋愛」ということが西洋文学のイリュージョンでしかなく、明子は観念的に恋愛を求め、当時、結婚もし、子をなしていた森田草平が、そのような明子を扱いかねた結果だとしている。
『元始、女性は太陽であった』、「はじめて結ばれた人」によれば、その当時、明子は性知識がほとんどなく犬や猫の交尾を見たことはあっても、人間にそういうことがあるという現実感はなかったという。人間のそういう行為は春画を見て知ったという。塩原事件のあと、明子の家に嫌がらせに春画が送られてきたというから、それを見たのかもしれない。結局、はじめて結ばれた人は海禅寺の中原和尚で明治四十三年の夏頃であったという。ともあれ、これらの体験をバネにして平塚明子は「青鞜」の女、平塚らいてうになっていくのである。
2017年11月11日
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