川上弘美『蛇を踏む』 松山愼介
サナダヒワ子は「ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった」。この一行は「朝起きたら、虫になっていた」というカフカの「変身」を思い出させる。ミドリ公園のミドリもミドリ亀を思わせるし、ヒワも鳥の鶸を連想させる。さらに藪で蛇を踏むも「藪蛇」を意識していると思われる。全体としていえば「蛇変身譚」といえよう。
ヒワ子が踏んだ蛇は、「踏まれたらおしまいですね」と言い、人間に変身し、ヒワ子の住む部屋の方へ行き、ヒワ子の「母」だといって、一緒に生活するようになるが、夜になると柱を登って天井に行き、蛇にもどる。一方、勤め先の「カナカナ堂」の数珠作りの奥さんニシ子さんにも蛇がついている。また数珠の納品先の願信寺の住職は自身を「蛇の女房をもらったもん」といっている。この寺の大黒はカナカナ堂の「コスガさんに巻きついてからコスガさんの額をひと舐めした」。ヒワ子にも同じようにしたあと、最後には蛇に変り、「住職の膝をのぼり、背中を這い、首を三重に巻いた」。
ヒワ子の曾祖父は、曾祖母の話によると、突然出奔して、鳥と暮していたという。三回目の冬に曾祖父は鳥に疎んじられて、家に帰って来た。この話は曾祖父が単に女と出奔した寓話のようにもとれる。
作者の川上弘美は大学で生物学を専攻し、数年間理科の教師をしていたという。糸井重里の「ほぼ日刊糸井新聞」によるとセミ、コウロギ、蛾やゴキブリもけっこう好きのようだ。
「昆虫って、みんなメスのほうが大きいですよね。クモは昆虫じゃないですけど、やっぱりメスのほうが大きい。あるクモなんか、メスがあまりに大きく、オスは暴れて踏み潰されたりするので、メスを糸で縛りつけて交尾するという話を聞いたことがあります。私、自分も体が大きいもので、なんだか身につまされちゃって……。(笑)」というような発言もある。
蛇と人間の関係を書くというのは、「教師に対して生徒が何か求めてくることは少なかったが、求められているような気がしてきて、求められないことを与えてしまうことが多かった」というようなことから、人間と人間の関係の取りにくさを表現しているのだと思われる。文庫本四十四ページにはそこのところが詳しく書かれている。「人と肌を合わせるとき」のことが書かれている。「肌を合わせる」というのは人間と人間とが関係するときのことであろう。何回かしてようやく「肌を合わせる」ことができるようになったときには、相手の姿が蛇に変るのである。そうして、その蛇の姿となった相手は「蛇の世界へいらっしゃい」と「私」をさそうのである。そうして、蛇と私の間には、教師と生徒、同僚あるいは親、兄弟との間にある壁がなくなるのである。
作者は文庫本におさめられた、三つの作品を「うそばなし」と書いている。作者の最初に出版された『物語が、始まる』におさめられた「物語が、始まる」は雛型という人間型ロボットのようなものを育てる物語である。星新一のSF作品を思い出させる。芥川賞候補作となった「婆」という作品は道を歩いている途中で、婆に手招きされて、婆の家へ入ってしまうものである。このあたりの作品になると、SF調から脱して、不思議物語になっていく。婆の家の冷蔵庫の横にある穴に入るという話だ。穴のなかには婆達が集まってくる。死者達のお弔いをしているのだ。
『はじめての文学』は作者自薦の短編集だが、「神様」という作品はくまと散歩するという物語だ。「北斎」は蛸、「鼹鼠(うごろもち)」はモグラが主人公だ。このような作品を読んでいると、作者は動物と対話ができるような人ではないかと思えてくる。とりあえずは作者には人と動物の垣根は感じられていない。寓話ではなく「うそばなし」「不思議物語」というほかはない。比べるものがあるとすれば、宮崎駿の動画だろうか。宮崎駿の映画のなかでは、豚(「紅いの豚」)も猫(「となりのトトロ」)も人間と差別はない。そして自然に、異界へ誘ってくれる。川上弘美の作品が宮崎駿と違っているのは、動物から始まって異界だけでなく、冥界へ眼を向けていることだろう。案外、作者はこの世界に対する断念をもっているような気がした。 2011年4月8日
サナダヒワ子は「ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった」。この一行は「朝起きたら、虫になっていた」というカフカの「変身」を思い出させる。ミドリ公園のミドリもミドリ亀を思わせるし、ヒワも鳥の鶸を連想させる。さらに藪で蛇を踏むも「藪蛇」を意識していると思われる。全体としていえば「蛇変身譚」といえよう。
ヒワ子が踏んだ蛇は、「踏まれたらおしまいですね」と言い、人間に変身し、ヒワ子の住む部屋の方へ行き、ヒワ子の「母」だといって、一緒に生活するようになるが、夜になると柱を登って天井に行き、蛇にもどる。一方、勤め先の「カナカナ堂」の数珠作りの奥さんニシ子さんにも蛇がついている。また数珠の納品先の願信寺の住職は自身を「蛇の女房をもらったもん」といっている。この寺の大黒はカナカナ堂の「コスガさんに巻きついてからコスガさんの額をひと舐めした」。ヒワ子にも同じようにしたあと、最後には蛇に変り、「住職の膝をのぼり、背中を這い、首を三重に巻いた」。
ヒワ子の曾祖父は、曾祖母の話によると、突然出奔して、鳥と暮していたという。三回目の冬に曾祖父は鳥に疎んじられて、家に帰って来た。この話は曾祖父が単に女と出奔した寓話のようにもとれる。
作者の川上弘美は大学で生物学を専攻し、数年間理科の教師をしていたという。糸井重里の「ほぼ日刊糸井新聞」によるとセミ、コウロギ、蛾やゴキブリもけっこう好きのようだ。
「昆虫って、みんなメスのほうが大きいですよね。クモは昆虫じゃないですけど、やっぱりメスのほうが大きい。あるクモなんか、メスがあまりに大きく、オスは暴れて踏み潰されたりするので、メスを糸で縛りつけて交尾するという話を聞いたことがあります。私、自分も体が大きいもので、なんだか身につまされちゃって……。(笑)」というような発言もある。
蛇と人間の関係を書くというのは、「教師に対して生徒が何か求めてくることは少なかったが、求められているような気がしてきて、求められないことを与えてしまうことが多かった」というようなことから、人間と人間の関係の取りにくさを表現しているのだと思われる。文庫本四十四ページにはそこのところが詳しく書かれている。「人と肌を合わせるとき」のことが書かれている。「肌を合わせる」というのは人間と人間とが関係するときのことであろう。何回かしてようやく「肌を合わせる」ことができるようになったときには、相手の姿が蛇に変るのである。そうして、その蛇の姿となった相手は「蛇の世界へいらっしゃい」と「私」をさそうのである。そうして、蛇と私の間には、教師と生徒、同僚あるいは親、兄弟との間にある壁がなくなるのである。
作者は文庫本におさめられた、三つの作品を「うそばなし」と書いている。作者の最初に出版された『物語が、始まる』におさめられた「物語が、始まる」は雛型という人間型ロボットのようなものを育てる物語である。星新一のSF作品を思い出させる。芥川賞候補作となった「婆」という作品は道を歩いている途中で、婆に手招きされて、婆の家へ入ってしまうものである。このあたりの作品になると、SF調から脱して、不思議物語になっていく。婆の家の冷蔵庫の横にある穴に入るという話だ。穴のなかには婆達が集まってくる。死者達のお弔いをしているのだ。
『はじめての文学』は作者自薦の短編集だが、「神様」という作品はくまと散歩するという物語だ。「北斎」は蛸、「鼹鼠(うごろもち)」はモグラが主人公だ。このような作品を読んでいると、作者は動物と対話ができるような人ではないかと思えてくる。とりあえずは作者には人と動物の垣根は感じられていない。寓話ではなく「うそばなし」「不思議物語」というほかはない。比べるものがあるとすれば、宮崎駿の動画だろうか。宮崎駿の映画のなかでは、豚(「紅いの豚」)も猫(「となりのトトロ」)も人間と差別はない。そして自然に、異界へ誘ってくれる。川上弘美の作品が宮崎駿と違っているのは、動物から始まって異界だけでなく、冥界へ眼を向けていることだろう。案外、作者はこの世界に対する断念をもっているような気がした。 2011年4月8日
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