最近“断捨離”という言葉を耳にした。
先日ふらりと書店に足を運んだ際にもこの本が平積みされているのを目にした。
俺はこの言葉を断固拒否する。
なぜなら俺が人一倍過去を大切にしたいと思っている人間だからだ。
こう書くと過去にすがっていると言われるかもしれない。
ご丁寧な方なら、過去に留まっていてはいけない、そこから前に進むことによって新たな道があるんだよ、なんて力説してくれてるかもしれない。
俺は思うのだが、過去にすがって生きることがそんなに悪いことなのだろうか。
確かに考え方としては一理あるとは思う。ただ、過去を大切にするが余り、過去にすがって過去から抜け出せない生き方の何がいけないのだろうか。
その本が流行り、なるほどと感化され、よし、この思い出は捨てよう。
そう行って簡単に手放せるような思い出ばかりが詰まっている人間なんて果たしているのだろうか。その程度の思い出ならば捨てていい。無いに等しいからだ。
本当に大切にした思い出を、今、必要無いから捨てて、一体何になる。
過去の思い出なんて、暫くすると実際不必要なものばかりである。
だがしかし、そのものに関わる思い出は確かに存在したはずだ。
物を捨てたところで、その過ごした日々や思い出は決して否定できない。
なぜなら確かに過去に自分はその瞬間を過ごしていたのだから。
確かに、本当に大切にしてあったはずの思い出の品が、今じゃ部屋のどこにあるのかも分からない。それは果たして取っておく必要があるのかと思うかもしれない。
俺はそれでも取っておいていいと思う。
現在、今必要でないから捨てる、離れるという考えが俺には理解できないからだ。
埃に塗れた記念品が本当に偶然、見つかった。
それを見た瞬間に、そのときの記憶が走馬灯のように蘇ってくる。この様な経験は誰しもがあると思う。
俺はこの瞬間は人間にとって途方も無く貴重なものであると思う。
絶対に、二度と戻らない時間の引き金となってくれる。
余りに詩的で恥ずかしい表現を使えば、それを見たときにちょっと時間を取り戻せる。
風化する記憶の中で唯一時間をまき戻せるのだ。
その物自体なんてどうでもいいんだ。
物自体にではなく、その物に関わる自分の人生が刻み込まれている。
その人生記憶こそが本当に過去という概念の遺産ではないだろうかと思う。
そしてそれは人の大きな財産になると信じている。人間は過去を美化する生き物だ。その過去にすがって生き、そこから生まれるものだってある。それを捨てることだけを美化して、新たな道を求めるという考え方が余りに単純で、そんな簡単に出来るものかと疑問に思う。そんな単純に思い出の品を手放したくらいで、新たな物を見つけられるのだろうか。人間はそこまで単純じゃないと思う。
何かを捨てたからといって、果たしてそれで離れられるものではない。
物を捨てた。けどどうしても捨てられない思い出だけが残る。
もう全てものは無くした筈なのに、どうしても記憶からは離れない。
これが真実じゃないのか。
もちろん、意識としてのレベルで考えればいい事なのかもしれないとは思う。
しかし、俺は多分、人より“過去”ってものに対して敏感なんだと思う。
けれども俺が“断捨離”実践者に劣った人生を歩むとはどうしても思えない。
先日ふらりと書店に足を運んだ際にもこの本が平積みされているのを目にした。
俺はこの言葉を断固拒否する。
なぜなら俺が人一倍過去を大切にしたいと思っている人間だからだ。
こう書くと過去にすがっていると言われるかもしれない。
ご丁寧な方なら、過去に留まっていてはいけない、そこから前に進むことによって新たな道があるんだよ、なんて力説してくれてるかもしれない。
俺は思うのだが、過去にすがって生きることがそんなに悪いことなのだろうか。
確かに考え方としては一理あるとは思う。ただ、過去を大切にするが余り、過去にすがって過去から抜け出せない生き方の何がいけないのだろうか。
その本が流行り、なるほどと感化され、よし、この思い出は捨てよう。
そう行って簡単に手放せるような思い出ばかりが詰まっている人間なんて果たしているのだろうか。その程度の思い出ならば捨てていい。無いに等しいからだ。
本当に大切にした思い出を、今、必要無いから捨てて、一体何になる。
過去の思い出なんて、暫くすると実際不必要なものばかりである。
だがしかし、そのものに関わる思い出は確かに存在したはずだ。
物を捨てたところで、その過ごした日々や思い出は決して否定できない。
なぜなら確かに過去に自分はその瞬間を過ごしていたのだから。
確かに、本当に大切にしてあったはずの思い出の品が、今じゃ部屋のどこにあるのかも分からない。それは果たして取っておく必要があるのかと思うかもしれない。
俺はそれでも取っておいていいと思う。
現在、今必要でないから捨てる、離れるという考えが俺には理解できないからだ。
埃に塗れた記念品が本当に偶然、見つかった。
それを見た瞬間に、そのときの記憶が走馬灯のように蘇ってくる。この様な経験は誰しもがあると思う。
俺はこの瞬間は人間にとって途方も無く貴重なものであると思う。
絶対に、二度と戻らない時間の引き金となってくれる。
余りに詩的で恥ずかしい表現を使えば、それを見たときにちょっと時間を取り戻せる。
風化する記憶の中で唯一時間をまき戻せるのだ。
その物自体なんてどうでもいいんだ。
物自体にではなく、その物に関わる自分の人生が刻み込まれている。
その人生記憶こそが本当に過去という概念の遺産ではないだろうかと思う。
そしてそれは人の大きな財産になると信じている。人間は過去を美化する生き物だ。その過去にすがって生き、そこから生まれるものだってある。それを捨てることだけを美化して、新たな道を求めるという考え方が余りに単純で、そんな簡単に出来るものかと疑問に思う。そんな単純に思い出の品を手放したくらいで、新たな物を見つけられるのだろうか。人間はそこまで単純じゃないと思う。
何かを捨てたからといって、果たしてそれで離れられるものではない。
物を捨てた。けどどうしても捨てられない思い出だけが残る。
もう全てものは無くした筈なのに、どうしても記憶からは離れない。
これが真実じゃないのか。
もちろん、意識としてのレベルで考えればいい事なのかもしれないとは思う。
しかし、俺は多分、人より“過去”ってものに対して敏感なんだと思う。
けれども俺が“断捨離”実践者に劣った人生を歩むとはどうしても思えない。