自分の部屋のカタログ等を整理していたら面白い小冊子に目が入った。
発効日 昭和59年3月1日 発行所 科学技術学園高等学校 通信制生徒会
その中に私の一文があった。全く覚えていない。どんなことを書いたのだろう。
私の思い出、というよりは、驚きといったのがよいかも知れません。科技高に入って、初めての授業。たしか、応用力学という科目(今で言う機械設計)で個人生の3年生だった。私が教室に入った。みんな無視している。しかたなしに「授業をこれから始めます」という始末。生徒に、「なんだ、先生だったのか」と言われた。それで、出席を取ろうと教室を見渡すと、なんと私より年上の人がたくさんいるではありませんか。これでは、私を先生と思う人が少ないのも仕方がありません。出席を取るのに、名前を呼ぶのにどうするか困ってしまいました。たくさんいるのに君、さん付けでは時間がかかってしまう。よびつけでは年上の人に申し訳ない、という複雑な気持ちがありました。ようするに、科技高に入って一番の思い出は、このような戸惑いだった。
たくさんある思い出の中。青少年センターの編入生との出会いも楽しいものだった。今年に入ってどのような職場なのか見学しに行った。第一サービスという自動車整備工場で、みんなてきぱきと行動していた。胸の名前をよむと、工場長もいるし、みんな偉いのだ。その夜、編入生の時間のある人と懇談した。ざっくばらんな話し合いの中で、人間のあたたかいふれあいを知ることができた。彼らに私は勉強を続けることを求めた。現状を肯定するのではなく、否定する中で向上する精神をもとうと話し合った。
もっともっと個人生と接したい。私は残念ながら個人生の担任を持ったことがない。暇があったら私のところにも寄ってください。
恥ずかしい文章だ。個人生の担任を待ったことがないので具体的な思い出がない。
当時は、いすゞ自動車川崎工場、いすゞ藤沢工業高等学校の担当をしていた。町芳朗くん(いすゞ川崎)が大阪府立体育館で新人王ボクシングバンタム級決定戦に出場するので応援に行った。親父が看板を作ってくれた。
いすゞ藤沢の学校行事スキー合宿(蔵王天元台スキー場)に参加した。