センチメンタルになる8月さいごの日
暮れるのも早くなり銭湯の帰りにはコオロギに鳴き声が聞こえる。栗も開きそう。夏の終わりで秋の始まりか。そんな悠長な気持ちをぶっ壊した台風10号。気象庁が警鐘を鳴らしていたがどうも真剣に受け止め用意していた人は少ないようだ。「観測史上初めて」ということは想定外のことが起こるよ。今までの経験は通用しないことをしっかり受け止め行動しないといけない。
ふたつの記事を紹介し8月を締めくくろう。
施餓鬼法要案内 あるがままに
お寺の隅に野菜の苗を植えています。今年はあまり稔ってくれませんでした。わずかにできた季節の稔りをお供えして、家族で頂きました。
命をいただいている実感がある。いきいきとした「稔りのいのち」がちょっと夏バテぎみの「私のいのち」に浸み渡る。
季節のものに必要な栄養がある。満足があり、豊かさがそこにある。そしてそれをおいしく感じることができるよろこび。
暑さのピーク「処暑」が過ぎ、だんだんと秋を迎へつつある。心配事も多いけれど、季節に応じて過ごし、そこに感動を頂戴する。
歳に応じて生き、そこに喜びを頂戴する。巷では「老若男女みな同じように」と目標が強いられ、あるべき姿、あるがままの姿を整え喜ぶ余裕も得にくい世の中とも思うけれど、「先取り」でもなく「後追い」でもない、あるがまま、今ここにしか喜びも満足もない。
昼夜平等の彼岸。自然を見つめ、ご先祖さまと向き合い、あるがままの、あるべき自分をみつめたい。
水澤山真福寺
南北統一の希望、日本で抱く 金時鐘さん「『在日』のはざまで」
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12537153.html?ref=pcviewpage
強く清い言葉だ。しっかり受け止めよう。
詩とは、ウソのない本当のもの、美しいもの。真、善、美を極めていく。だから詩人は正義にもとることを容認できない。良くないと思う方向に世の中が、雪崩を打って流れていくことを体で止められないとしても、少なくとも同調はしない。
「詩人はカナリアだ」という人もいます。地底に降りていくときに有毒ガスなどの危険を知らせてくれるカナリア。詩人には予知感応の力がある。
詩を書く者は生き方も必然的に問われます。絶対的少数者の側に立つ。それが詩を書く者の意思だと思っています。参院選の結果を見て、生きるのも嫌だという気分になりましたが、変化を避け、なれ合いを続けようとする社会に分け入っていくのもやはり詩だと信じています。