■『立喰師列伝』 2006、日本 106分
監督、脚本 押井守
音楽 川井憲次
「立喰師」という架空の職業師(犯罪者?)を軸に現実の日本戦後史を語る、という「座標変換モノ」。8つのエピソードの冒頭を事件史で始め、中盤からフィクション色に染まって、立喰作法と時代思潮の相互関係を述べてゆく。空虚に理屈っぽい饒舌ナレーションは、ただ聞き流すのがよいだろう。意味的には大したことは述べていないその無内容さに反比例するように、構文的・表層的には流麗なレトリックが散りばめられていて、おおむね静止画とズームで構成された映像が単調にパタパタするだけのところでも、ナレーションの攪拌作用でいたずらに濃密な時間が流れている気にさせられる。
ポイントは、やたらシリアスなナレーション、芸術的な音楽と、映像のドタバタ喜劇的なノリのコントラストであろう。このズレを引きずって、言葉・音楽・映像が調和したハリウッド的作品に慣れきった観客の五感を揺さぶり続ける。ただし、映像のドタバタモードは、ナレーションで「定説ではない」「虚構にすぎない」「都市伝説である」等々否定的に紹介される部分にほぼ限られていることに注意。大半は、言葉・音楽・映像が一致しておごそかな「立喰師」の研究史を提示し続ける。
先週の『バトル・オブ・チャイナ』(われらはなぜ戦うのか)で見た虚実の混合というドキュメンタリー特有の手法を二重化させている。つまり、虚実の本当の配合を背景に、その虚の部分の内部において実と虚を相対的に分けるという重層的構造である。
シリアスとドタバタのズレは、大半の時間は潜在しているだけだが、意味的なズレは常時遍在している。「立喰」という瑣末な文化(とも言えぬ一要素)を語るのに、大袈裟なナレーションと歴史的評釈モードを持ってするところに、意味的ズレが漂い続けるのだ。商業的なヒットは始めから放棄したような純アートとしてのこの作品は、しかし、『真・女立喰師列伝』(2007)なる続編(? 外伝?)に引き継がれたらしい(私は未見)。
監督、脚本 押井守
音楽 川井憲次
「立喰師」という架空の職業師(犯罪者?)を軸に現実の日本戦後史を語る、という「座標変換モノ」。8つのエピソードの冒頭を事件史で始め、中盤からフィクション色に染まって、立喰作法と時代思潮の相互関係を述べてゆく。空虚に理屈っぽい饒舌ナレーションは、ただ聞き流すのがよいだろう。意味的には大したことは述べていないその無内容さに反比例するように、構文的・表層的には流麗なレトリックが散りばめられていて、おおむね静止画とズームで構成された映像が単調にパタパタするだけのところでも、ナレーションの攪拌作用でいたずらに濃密な時間が流れている気にさせられる。
ポイントは、やたらシリアスなナレーション、芸術的な音楽と、映像のドタバタ喜劇的なノリのコントラストであろう。このズレを引きずって、言葉・音楽・映像が調和したハリウッド的作品に慣れきった観客の五感を揺さぶり続ける。ただし、映像のドタバタモードは、ナレーションで「定説ではない」「虚構にすぎない」「都市伝説である」等々否定的に紹介される部分にほぼ限られていることに注意。大半は、言葉・音楽・映像が一致しておごそかな「立喰師」の研究史を提示し続ける。
先週の『バトル・オブ・チャイナ』(われらはなぜ戦うのか)で見た虚実の混合というドキュメンタリー特有の手法を二重化させている。つまり、虚実の本当の配合を背景に、その虚の部分の内部において実と虚を相対的に分けるという重層的構造である。
シリアスとドタバタのズレは、大半の時間は潜在しているだけだが、意味的なズレは常時遍在している。「立喰」という瑣末な文化(とも言えぬ一要素)を語るのに、大袈裟なナレーションと歴史的評釈モードを持ってするところに、意味的ズレが漂い続けるのだ。商業的なヒットは始めから放棄したような純アートとしてのこの作品は、しかし、『真・女立喰師列伝』(2007)なる続編(? 外伝?)に引き継がれたらしい(私は未見)。