三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2007/5/21

2000-02-29 02:12:00 | 映示作品データ
■『自由の幻想』 Le Fantome De La Liberte (1974、フランス)
監督 Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
製作 Serge Silberman セルジュ・シルベルマン
脚本 Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
   Jean Claude Carriere ジャン・クロード・カリエール
撮影 Edmond Richard エドモン・リシャール

 ナポレオン占領下のスペイン人抵抗者→少女→父親→医者→看護婦→宿泊者たち→教授→友人宅の話→二人の生徒(警官)→癌患者→娘の捜査→ライフル乱射男→警視総監→捜査の終了→動物園……とりとめもなく続くオムニバス形式。いつどこで終わっても違和感のないシュールな〈意味の逆転〉(猥褻な風景写真、神父とギャンブル、トイレと食卓、人口問題と排泄問題、娘を連れて娘の捜索願、死刑宣告への祝福……)そしてミニマルなテンポ。とくに、この映画最大の特徴は、オムニバスの抽象化といおうか、明らかにストーリーは連続していながら、通して出演している人物が一人もいないという点。始めから終わりまで登場している主人公らしき人物はおらず、誰もが一つか二つのエピソードで活躍しただけで姿を消す。消えてしまった人はそのあとどうなったんだろうと気がかりを残しながら話はどんどん脱線してゆく。脱線しながらも新しいエピソードがそのつど観賞者の興味の焦点になるので、飽きは来ない。
 消えた人物への気がかりとは逆に、監督のルイス・ブニュエルのもともとの関心は、世にある物語の脇役たちのこれからの運命だったという。主人公ではなく、脇役のその後が気になるのだと。そこで脇役を次のエピソードの主役へ格上げするという繋げ方をどんどんやりまくっていったのがこの作品。
 この「無焦点オムニバス」とも呼ぶべき手法は、きわめてドキュメンタリー的と言える。私たちの主観的生活には主人公はいて(つまり自分だ)、その主人公の目を通して生活が進行するのは、感情移入するべきメインキャラクターのいるハリウッド映画と同じだ。しかし、現実世界そのものは、対等な「私」たちが中心もなくただ散らばっているだけで、主人公に相当する特権的焦点はない。その意味で、「主観というフィルターを通さないあるがままの現実」の模倣がこの作品の試みだとも言えるだろう。
 「自由」を否定しているようなタイトルと劇中の叫びだったが、焦点の中心人物に終始縛られるハリウッド的大衆映画の不自由さを脱して、真に自由な境地で遊べる、それがこの無焦点オムニバス方式ではないだろうか。
 ぐっとアート色の薄い模倣作としては、最近のJホラーとしては『呪霊The Movie 黒呪霊』(2004)が挙げられる。

 〈主人公不在で脇役が次々に主役化していくという無焦点オムニバス〉がこの映画の眼目だと正しく書いていたのは、45人中29人でした。

2007/5/14

2000-02-29 01:26:24 | 映示作品データ
■『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(ハンガリー、ドイツ、フランス、2000年)
Werckmeister Harmoniak
監督 : タル・ベーラ Tarr Bela
原作 : クロスナホルカイ・ラースロー「抵抗の憂鬱」

 2時間25分の上映時間に、たった37カット。「編集し尽くしNGを小刻みに差し替えて作り出すシミュレーション世界が映画だ」という暗黙の常識をさらりと侵犯していく、剥き出しの時間芸術。思わせぶりな素材はぎっしり。平均律を創始した音楽学者アンドレアス・ヴェルクマイスター(Andreas Werckmeister, 1645-1706)への論及、サーカスのクジラの見せ物、暴動、軍の出動など、それなりの素材が互いに繋がりそうな関係なさそうな、ゆるやかな連絡で羅列されてゆく。口述記録する音楽家の顔アップ360度撮影、クジラを積んだ巨大トラクターが夜の街路をゆっくり走る場面、無言で歩くところを延々と追ってゆくだけのシーン、群衆が一方向に歩くシーン、ヘリコプターの旋回シーンなどが、無駄と思われるほどの長回しでこれでもかとばかり提示され続けると、観ているほうはいい加減根負けしてくる、そんな映画だ。
 正直のところかなり退屈な映画なのだが(相当気持ちに余裕のあるときでないと全尺を真面目に観賞する気になれないかもしれない)、ポイントポイントに配置されたディテール集中シーンに誘われて、ずるずると魅入ってしまうのが不思議。
 ただ、ハンガリーという特殊な風土ならではの「特殊な映画」と見なしてすむかどうか。たしかに、オーストリア・ハンガリー二重帝国の第一次大戦敗戦による国民分断、失地回復を目指してナチス・ドイツの同盟国として最後まで戦った第二次大戦、共産主義国ハンガリー人民共和国下でのハンガリー動乱(1956年)、ソ連軍の介入、冷戦終結とともにハンガリー共和国発足、といった民族の歴史を知った上でないと、この不思議な作品は理解できないかもしれない。とくに、時間の流れ方がハリウッドとは全然違うこと。先進資本主義国のテンポとはまったく異なる「東欧の奥地」を感じさせる(やはり意図的だろうか)。とはいえ、ここで使われた反編集ともいうべき手法は芸術表現の普遍的な一側面を表わしている。色彩の否定、科白とカットの抑制、同じミニマル的BGMの多用、などは、映画に本来できることを極力排除して、最低限の表現資源で最大限の結実を得ようとする、表現の初心というべきものを象徴していた。その一種の<最大化原理>が、この映画の中の意味不明の民衆暴動(病院襲撃)にも共通した「最小限のテーマ」だったのかもしれない。

2007/5/7

2000-02-28 01:41:21 | 映示作品データ
「家での静かな一週間」
Tichý týden v dome (1969年、チェコスロバキア)20分
「ジャバウォッキー」
Zvahlav aneb Saticky Slameného Huberta(Jabberwocky) (1971年、チェコスロバキア) 14分
監督 ヤン・シュワンクマイエル Jan Svankmajer 1934年~
音楽(ジャバウォッキー) ズデネク・リシュカ Zdenek Liska 1922~83

 「特定の意味を持たないがゆえに、強引に意味を考えさせることにより、新たな意味を観賞者に創造させる」――ナンセンス作品は、確かにこのような効能を持つ。しかし、無意味な語や映像の羅列がありさえすれば、観賞者に対して「新しい意味体験」を強いる傑作になるとは限らない。実際、ナンセンス作品の中には、本当に無意味なだけの、啓発機能を持たない駄作も多い(時間があれば、そのような「駄作」もいくつか紹介したいと思うが)。シュワンクマイエルの作品は、この点で、周到に計算された啓発的ナンセンスの傑作と言えるだろう。
 「家での静かな一週間」は、モノクロ+音声のパート(外部)と、カラー+無音のパート(室内)が繰り返されて、日常の一側面を交代で強調しつつ捨象する。一週間の日課表を律儀に抹消しながら、男は機械的な反復作業を続ける。それとは対照的に室内は混沌として、二度と同じ繰り返しはないかのような乱雑運動。穴から覗かれるまではぼやけていて、見られることで室内があわてて焦点を結ぶ、といった構成がどの曜日でも繰り返されるが、これは、量子力学の観測問題(光を当てるまでは電子の位置その他の物理量は定まらない)を思わせる。
 「ジャバウォッキー」の室内の混乱も、「家での静かな一週間」と似ているが、イメージ的に、子どもが部屋を散らかすありさまをシミュレーションした形になっている。そのぶんわかりやすい。一方向に進もうとする迷路の進行と、全体の堂々巡り的な展開とが矛盾して、その緊張が最後に解体される。が、それは爆発的なカタルシスによるスッキリ解決ではなく、猫を鳥カゴに閉じこめるという収束的な形の解決だ。子どもがライバル(邪魔者)を片づけた格好だが、これは同時に、子ども部屋からの成長脱出が社会への「囲い込まれ」である、という事実を暗示しているようにも思われよう。
 一見、デタラメのようなナンセンス世界が、ただのデタラメに終わっていないのは、その表層的な映像表現の質の高さによるところも大きいが、それ以上に、ストーリー(?)の運びがそこはかとなく社会的な意味情報を伝えているからなのである。

 なお、シュワンクマイエルはDVDがたくさん出ていますが、作品を探すときは、「シュヴァンクマイエル」で検索したほうが多く出てくるでしょう。監督作品はどれも傑作。ただし、別の人の監督作品で、シュワンクマイエルが映像特殊効果に協力だけしている映画もシュワンクマイエルの名で登録されていることがあるので要注意。
 シュワンクマイエルの長編では、『オテサーネク』と『アリス』が特にお薦めです。
 http://green.ap.teacup.com/miurat/496.html
 http://green.ap.teacup.com/miurat/293.html
 http://green.ap.teacup.com/miurat/298.html

 授業用でなく自分用メモとして書いたものは↓
    http://green.ap.teacup.com/miurat/515.html
    http://green.ap.teacup.com/miurat/163.html

2007/4/23

2000-02-27 02:26:45 | 映示作品データ
■ヒロシマ
 BBC放送
 Days That Shook the World
 2002年 (50分)

 前回に観た終戦直後のアメリカの調査映像とは違って、戦後57年経って作られたイギリスのドキュメンタリーTV番組。制作国、時代の違いを、映像の比較から読み取っていただきたい。
 BBCのこの作品は、アメリカ側の視点に立ちながらも、広島サイドからのショットも同時進行で入れることで、事実を客観的に映し出すドキュメンタリーの建前を強調している。盛り上げる音楽もなく、劇的な解釈や感傷的なコメントもなく、事実をひたすら追ってゆくことで、情緒を掻き立てるスタンスをとっている。
 戦時中にもかかわらず比較的平穏な日々が続いていた広島の日常風景と、アメリカの戦争努力に傾けた科学技術とを対比させることで、戦争を日常と非日常の両極端から照らし出す。アメリカの戦争努力にしても、20億ドルの費用という国家規模と、空中で起爆装置を命がけで組み立てる一兵士の手ワザという、大小の極端を並べることで、ここでも対比の効果を出している。いわば二重のコントラスト効果により、戦争の描写に深みをもたらしているのだ。冒頭近くに、手に血が滲むネジ回しの繰り返し訓練が描かれたことで、原爆を作ったのも被害を受けたのも一人一人の生身の人間であることが強調されたと言えよう。
 ドキュメンタリーでは、描かれる内容は「歴史的事実」として変更できないので、内容よりも手法(映像処理、アングルなど)の占める割合が大きくなる。この作品のように、再現映像と記録映像を組み合わせる場合は、結果的にフィクションとノンフィクションを融合させることになり、無意識の批判精神を観賞者に要請することになる。ドキュメンタリーを単に「事実の記録」として観るのではなく、手法のデモンストレーションとして、フィクション要素との緊張関係における表現芸術として観る姿勢を意識していただきたい。

2007/4/16

2000-02-26 00:01:53 | 映示作品データ
■「広島・長崎 原爆投下」『ドキュメント第2次世界大戦1』コスミック出版
  企画 CINEMA LIFE LTD.

 日本降伏直後に、広島・長崎に入ったアメリカ調査団の報告と宣伝を兼ねたフィルム。
 爆心地から建物までの距離、建っている方角、材質、等によって破壊度を検証しているところが尤もらしい。ちなみに、消滅した大半の建物の間に例外的に残った建物にスポットを当てていること、工業施設や交通施設の破壊に焦点を絞っていること、人間の被爆状況については、視覚的にも言語的にもなんのレポートも含まれていないことに注目すべきである。とくに長崎の描写では、爆発高度を調整したがゆえに、地上での被爆はほとんどなかった、と述べている。
 広島にいて被爆したドイツ人牧師(ジョン・ジーマス)にインタビューして「客観的な」印象を求めているところが面白い。はじめ日本人はアメリカ人を軽蔑していたが、B29による本土空襲が始まると、技術力に尊敬の念を抱くようになった、という観察は面白い。戦争体験者に私が聞いた範囲でも、当時の国民の意識はその通りだったようである。
 ジーマスの言にあったが、総力戦という前提のもとで原爆投下が正しいかどうかという問題と、総力戦そのものに対する倫理的問いかけは区別されなければならない。国民感情からすると、私たち日本人は、「原爆投下は悪だった」に違いないと思い込む。しかし、前提や視点によって見方が全然違いうることは意識せねばなるまい。日本より遥かに激しく長期にわたる空襲に耐えたドイツと、戦争末期の5ヶ月間に集中的に爆撃された日本とを比較することで、「無差別爆撃」について考えるとよいだろう。
 参考図書
 A・C・グレイリング『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』河出書房新社
 大内建二『ドイツ本土戦略爆撃』光人社文庫
 前田哲男『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』凱風社
 ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』草思社
 ロナルド・タカキ『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』草思社

↑ ここから2007年前期の「アメリカ圏研究」&「文学講義」  
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