■『自由の幻想』 Le Fantome De La Liberte (1974、フランス)
監督 Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
製作 Serge Silberman セルジュ・シルベルマン
脚本 Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
Jean Claude Carriere ジャン・クロード・カリエール
撮影 Edmond Richard エドモン・リシャール
ナポレオン占領下のスペイン人抵抗者→少女→父親→医者→看護婦→宿泊者たち→教授→友人宅の話→二人の生徒(警官)→癌患者→娘の捜査→ライフル乱射男→警視総監→捜査の終了→動物園……とりとめもなく続くオムニバス形式。いつどこで終わっても違和感のないシュールな〈意味の逆転〉(猥褻な風景写真、神父とギャンブル、トイレと食卓、人口問題と排泄問題、娘を連れて娘の捜索願、死刑宣告への祝福……)そしてミニマルなテンポ。とくに、この映画最大の特徴は、オムニバスの抽象化といおうか、明らかにストーリーは連続していながら、通して出演している人物が一人もいないという点。始めから終わりまで登場している主人公らしき人物はおらず、誰もが一つか二つのエピソードで活躍しただけで姿を消す。消えてしまった人はそのあとどうなったんだろうと気がかりを残しながら話はどんどん脱線してゆく。脱線しながらも新しいエピソードがそのつど観賞者の興味の焦点になるので、飽きは来ない。
消えた人物への気がかりとは逆に、監督のルイス・ブニュエルのもともとの関心は、世にある物語の脇役たちのこれからの運命だったという。主人公ではなく、脇役のその後が気になるのだと。そこで脇役を次のエピソードの主役へ格上げするという繋げ方をどんどんやりまくっていったのがこの作品。
この「無焦点オムニバス」とも呼ぶべき手法は、きわめてドキュメンタリー的と言える。私たちの主観的生活には主人公はいて(つまり自分だ)、その主人公の目を通して生活が進行するのは、感情移入するべきメインキャラクターのいるハリウッド映画と同じだ。しかし、現実世界そのものは、対等な「私」たちが中心もなくただ散らばっているだけで、主人公に相当する特権的焦点はない。その意味で、「主観というフィルターを通さないあるがままの現実」の模倣がこの作品の試みだとも言えるだろう。
「自由」を否定しているようなタイトルと劇中の叫びだったが、焦点の中心人物に終始縛られるハリウッド的大衆映画の不自由さを脱して、真に自由な境地で遊べる、それがこの無焦点オムニバス方式ではないだろうか。
ぐっとアート色の薄い模倣作としては、最近のJホラーとしては『呪霊The Movie 黒呪霊』(2004)が挙げられる。
〈主人公不在で脇役が次々に主役化していくという無焦点オムニバス〉がこの映画の眼目だと正しく書いていたのは、45人中29人でした。
監督 Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
製作 Serge Silberman セルジュ・シルベルマン
脚本 Luis Bunuel ルイス・ブニュエル
Jean Claude Carriere ジャン・クロード・カリエール
撮影 Edmond Richard エドモン・リシャール
ナポレオン占領下のスペイン人抵抗者→少女→父親→医者→看護婦→宿泊者たち→教授→友人宅の話→二人の生徒(警官)→癌患者→娘の捜査→ライフル乱射男→警視総監→捜査の終了→動物園……とりとめもなく続くオムニバス形式。いつどこで終わっても違和感のないシュールな〈意味の逆転〉(猥褻な風景写真、神父とギャンブル、トイレと食卓、人口問題と排泄問題、娘を連れて娘の捜索願、死刑宣告への祝福……)そしてミニマルなテンポ。とくに、この映画最大の特徴は、オムニバスの抽象化といおうか、明らかにストーリーは連続していながら、通して出演している人物が一人もいないという点。始めから終わりまで登場している主人公らしき人物はおらず、誰もが一つか二つのエピソードで活躍しただけで姿を消す。消えてしまった人はそのあとどうなったんだろうと気がかりを残しながら話はどんどん脱線してゆく。脱線しながらも新しいエピソードがそのつど観賞者の興味の焦点になるので、飽きは来ない。
消えた人物への気がかりとは逆に、監督のルイス・ブニュエルのもともとの関心は、世にある物語の脇役たちのこれからの運命だったという。主人公ではなく、脇役のその後が気になるのだと。そこで脇役を次のエピソードの主役へ格上げするという繋げ方をどんどんやりまくっていったのがこの作品。
この「無焦点オムニバス」とも呼ぶべき手法は、きわめてドキュメンタリー的と言える。私たちの主観的生活には主人公はいて(つまり自分だ)、その主人公の目を通して生活が進行するのは、感情移入するべきメインキャラクターのいるハリウッド映画と同じだ。しかし、現実世界そのものは、対等な「私」たちが中心もなくただ散らばっているだけで、主人公に相当する特権的焦点はない。その意味で、「主観というフィルターを通さないあるがままの現実」の模倣がこの作品の試みだとも言えるだろう。
「自由」を否定しているようなタイトルと劇中の叫びだったが、焦点の中心人物に終始縛られるハリウッド的大衆映画の不自由さを脱して、真に自由な境地で遊べる、それがこの無焦点オムニバス方式ではないだろうか。
ぐっとアート色の薄い模倣作としては、最近のJホラーとしては『呪霊The Movie 黒呪霊』(2004)が挙げられる。
〈主人公不在で脇役が次々に主役化していくという無焦点オムニバス〉がこの映画の眼目だと正しく書いていたのは、45人中29人でした。