約束はいつ成立するのか、について、一ノ瀬正樹は「相手聴時説(契約説)」と「話者発話時説(誓い説)」の二説を比較している(12月17日茨城新聞「茨城論壇」)。
「aがbにPを約束する」の約束が成立したと言えるのは、bがaの約束発言を聞いた時か、aが約束発言を発した時か。この二つは通常はとくに区別する必要が生じないが、手紙や留守電など、発話と聴取の間に相当の時間差がある場合は問題になりうる。
私の考えでは、上記二説のいずれも約束の定義を満たしておらず、「共通了解説」とでも呼ぶべき第三の説が正しい。共通了解説は、いわゆる「共通知識common knowledge」という概念を行為に応用したもので、以下のように説明されるだろう。
「aがbにPを約束する」の定義は――
約束する(a、b、P)=df aはbがPを望むと信じる & aはPを行なう意図を表明する & bはaの意図表明に依存する旨を表明する & aはbの依存を信じる
Ba(DbP) & Sa(IaP) & Sb(Rb(Sa(IaP)))& Ba(Sb(Rb(Sa(IaP))))
この連言は理念的には、無限に続くことが必要である。すなわち、上記の後に、bは(aはbの依存を信じる)と信じる&aは(bは(aはbの依存を信じる)と信じる)と信じる&…… これが合わせ鏡のようにどこまでも成立していなければならない。
それが成立するのは、対面で言葉を交わした場合である。対面で双方が同意すれば、上記のような無限階層に収束する連言が成立する。もう一つは、文書で確認を交わし、常時参照できるようにすることである。
ただ、理念的にはともかく実践的には、上記の定義のように一往復の了解確認が成立すれば、事実上の無限了解が成立したものと双方が解釈できるだろう。
この「共通了解説」は、「相手聴時説(契約説)」を十全に展開したものに他ならない。「発話と聴取の間に発話者が亡くなってしまったら約束は成立するのか」という相手聴時説への反例も、共通了解説は処理できる。そのような反例は生じないからである。
また、一ノ瀬は言及していないが、話者発話時説への同様の反例も処理できる。「発話の時点で相手が亡くなっていたら約束は成立するのか」あるいは「発話の時点で相手が当該Pを望んでいなかったら約束は成立するのか」。共通了解説ではそのような反例は生じない。
共通了解説によると、約束は、契約の一種に他ならない。約束が契約の一種でないことを証明するのは難しいだろう。したがって、もともと共通了解説は信憑性の高い仮説であったはずだ。
「話者発話時説」が含意する「約束は誓いである」という立場においては、「自分自身に対する約束」という概念が意味を持つことになるが、心変わりした時、あるいは以前の自分の誓いが倫理的にあるいは功利的に間違っていたと悟った時にも当該誓いの実行を自らに課すことになってしまい、不合理である。相手が他者である場合は、倫理観または功利的判断が食い違っている可能性があるため、相手への約束によって話者が束縛されるのは合理的である(むろん相手の合意があれば約束解消は可能である)。
このように考えると、先の「共通了解説」の定義に、aとbは同一人物ではない、という条件を付け加えることが必要だろう。すなわち、自分自身に対する約束というものは意味をなさない、という条件である。
約束する(x 、y、P)=df x≠y & Bx(DyP) & Sx(IxP) & Sy(Rb(Sx(IxP)))& Bx(Sy(Ry(Sx(IxP))))
より厳密には、各連言肢が、一つ前の連言肢を原因として(かつ理由として)成立すること(つまり偶然に成立するのではないということ)のような細かい条件が求められるかもしれない。いずれにしても、約束とは、共通了解説の枠組みで理解すべき概念であることは確かである。
なお、約束と契約一般との違いは、約束が、約束された側が約束した側に「依存する」ことを要する点だろうと私は考える。単なる契約の定義は、約束の定義の「に依存」を「を了解」に変更すればよいだろう。