■『世にも怪奇な物語』HISTOIRES EXTRAORDINAIRES
(1967年、フランス・イタリア)
「黒馬の哭く館」Metzengerstein
監督 :Roger Vadim
「影を殺した男」William Wilson
監督 :Louis Malle
「悪魔の首飾り」Toby Dammit(Never Bet the Devil Your Head)
監督 :Federico Fellini
原作 : Edgar Allan Poe
――第3話のみを観ました。
キャスト
Terence Stamp (Toby)
Salvo Randone
Fabrizio Angeli
『オテサーネク』『アリス』とは違う、〈あちら側〉の少女。
『ゴーストシップ』にも少女の亡霊が出現したが、あの種の犠牲者としての霊体ではなく、死神の化身。ジャパニーズホラーの生身の「怨念系・ズルズル系」とも異なって、出自の一部たりとこの世にはない、百パーセントあちら側の存在である。ヨーロッパゴシック色の強い、独特の姿と言えよう。
アート仕立てのサイコホラーだが、手法はかなりオーソドックスである。
大まかに三つに部分に分かれる。
①トビーが空港に着いてからテレビインタビューを受けるまでの、昼間のローマ市内移動場面。ここは、通常の日常世界が描かれる。ただし、空港のエスカレーターに少女が現われたシーンが回顧されたり、交通事故現場に遭遇したり、手相を見る女が絶句したりと、トビーの末路をさりげなく暗示するシーンが散りばめられる。
②一転して、映画界の華やかな授賞式。メインゲストとしてトビーがもてはやされる。受賞者たちがみな全く同じ決まり文句で挨拶しているところなど、ナチュラルで雑然とした①の世界と対照的な、表層だけの虚飾に満ちた共同体が蠢く。トビーの自己嫌悪にこの虚飾性が共振して、トビーの現実逃避が暴発する。
③さらに一転して、夜のローマの裏通りをフェラーリでぶっ飛ばすシーンとなる。きらびやかなショウビジネスの風景②から再び都市の自然環境へ。ただし①とも対照的に、悪魔がトビーに張り付くには絶好の暗闇環境。無意識の恐怖が昂進する。結局、予想通りの結末が、予想しえなかった形態で訪れる。
静と動、明と暗、歓と恐、といったコントラストで効果を倍増させる手法はオーソドックスでありハリウッド的だが、ショッカーの大音響を伴うような急激な展開ではなく、リアリズムに則った対比になっている。
対比といえば、私が小学生の時に観て戦慄したのは、少女とトビーの対比だったかもしれない。こちら側にいながら死相を浮かべたトビーと、あちら側の住人でありながら妙に生き生きとした少女の顔(不気味なほど大人びたまさしく魔女の顔ではあるが)との、二重反転の関係が怖かったのだと思われる。
そしてもちろん、トビーを取り巻く無邪気な人間たち――したたかなショウビジネスマンでありながら魔界の風景に対しては盲目のおめでたい人々――の様子が壁紙となって、少女とトビーの対比を引き立たせている。授賞式会場でトビーに言い寄った「夢の女」は、無垢な現実界と魔界を繋ぐ象徴であろうか。
時間的推移のシーンの対比とともに、空間的共存をするキャラクターやアイテムの対比も、「恐怖」その他の強い感情を引き起こす要因となることが確認される。
なお、1966年のイタリア映画『呪いの館Operazione paura』(マリオ・バーバ監督Mario Bava)に、ボールを持った少女の怨霊が出てくる。『悪魔の首飾り』は、そこから影響を受けたと思われるが、『悪魔の首飾り』の少女のほうがはるかに怖い。(幾分ミステリータッチでダークな雰囲気の『呪いの館』も傑作の誉れが高い。)
『悪魔の首飾り』の結末の首切断システムが、どれほど『ゴーストシップ』オープニングに影響を与えているのかは不明。
(1967年、フランス・イタリア)
「黒馬の哭く館」Metzengerstein
監督 :Roger Vadim
「影を殺した男」William Wilson
監督 :Louis Malle
「悪魔の首飾り」Toby Dammit(Never Bet the Devil Your Head)
監督 :Federico Fellini
原作 : Edgar Allan Poe
――第3話のみを観ました。
キャスト
Terence Stamp (Toby)
Salvo Randone
Fabrizio Angeli
『オテサーネク』『アリス』とは違う、〈あちら側〉の少女。
『ゴーストシップ』にも少女の亡霊が出現したが、あの種の犠牲者としての霊体ではなく、死神の化身。ジャパニーズホラーの生身の「怨念系・ズルズル系」とも異なって、出自の一部たりとこの世にはない、百パーセントあちら側の存在である。ヨーロッパゴシック色の強い、独特の姿と言えよう。
アート仕立てのサイコホラーだが、手法はかなりオーソドックスである。
大まかに三つに部分に分かれる。
①トビーが空港に着いてからテレビインタビューを受けるまでの、昼間のローマ市内移動場面。ここは、通常の日常世界が描かれる。ただし、空港のエスカレーターに少女が現われたシーンが回顧されたり、交通事故現場に遭遇したり、手相を見る女が絶句したりと、トビーの末路をさりげなく暗示するシーンが散りばめられる。
②一転して、映画界の華やかな授賞式。メインゲストとしてトビーがもてはやされる。受賞者たちがみな全く同じ決まり文句で挨拶しているところなど、ナチュラルで雑然とした①の世界と対照的な、表層だけの虚飾に満ちた共同体が蠢く。トビーの自己嫌悪にこの虚飾性が共振して、トビーの現実逃避が暴発する。
③さらに一転して、夜のローマの裏通りをフェラーリでぶっ飛ばすシーンとなる。きらびやかなショウビジネスの風景②から再び都市の自然環境へ。ただし①とも対照的に、悪魔がトビーに張り付くには絶好の暗闇環境。無意識の恐怖が昂進する。結局、予想通りの結末が、予想しえなかった形態で訪れる。
静と動、明と暗、歓と恐、といったコントラストで効果を倍増させる手法はオーソドックスでありハリウッド的だが、ショッカーの大音響を伴うような急激な展開ではなく、リアリズムに則った対比になっている。
対比といえば、私が小学生の時に観て戦慄したのは、少女とトビーの対比だったかもしれない。こちら側にいながら死相を浮かべたトビーと、あちら側の住人でありながら妙に生き生きとした少女の顔(不気味なほど大人びたまさしく魔女の顔ではあるが)との、二重反転の関係が怖かったのだと思われる。
そしてもちろん、トビーを取り巻く無邪気な人間たち――したたかなショウビジネスマンでありながら魔界の風景に対しては盲目のおめでたい人々――の様子が壁紙となって、少女とトビーの対比を引き立たせている。授賞式会場でトビーに言い寄った「夢の女」は、無垢な現実界と魔界を繋ぐ象徴であろうか。
時間的推移のシーンの対比とともに、空間的共存をするキャラクターやアイテムの対比も、「恐怖」その他の強い感情を引き起こす要因となることが確認される。
なお、1966年のイタリア映画『呪いの館Operazione paura』(マリオ・バーバ監督Mario Bava)に、ボールを持った少女の怨霊が出てくる。『悪魔の首飾り』は、そこから影響を受けたと思われるが、『悪魔の首飾り』の少女のほうがはるかに怖い。(幾分ミステリータッチでダークな雰囲気の『呪いの館』も傑作の誉れが高い。)
『悪魔の首飾り』の結末の首切断システムが、どれほど『ゴーストシップ』オープニングに影響を与えているのかは不明。