三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2007/10/15

2000-03-07 21:51:52 | 映示作品データ
BLACKTOP
1952年
10:49
監督:チャールズ&レイ・イームズ Charles & Ray Eames

●DVD
EAMES FILMS:チャールズ&レイ・イームズの映像世界

 家具などのインダストリアル・デザインの世界で有名なイームズ夫妻の実験映像。
 「ブラックトップ」とはアスファルトの舗装道路という意味だが、文字通り、どこにでもあるアスファルトの庭だか駐車場だか道路だかの上を流れてゆく水と洗剤の泡を撮っただけの作品。
 簡素すぎるほどのミニマリズムだが、バッハのハープシコード曲のBGMと水の流れとが微妙にマッチして、不思議な陶酔感を醸し出す。太陽がときおり映って、まるで大海原か雲海のように見える瞬間もある。しかししょせんは路上の汚水なので、枯葉や汚れがいっしょに流れてきたりして、ふと我に返らされたりする。ロマンチックな幻想と俗っぽい日常感覚とが、ミクロな視線の中で交錯する。
 「汚れた水なので見ていて美しいと感じられず、楽しくなかった」と書いている人がいた。もちろん、「美」や「快」とは程遠い作品である。「美」や「快」はもともと、クジャクの羽やウグイスの声のような、オスがメスを誘惑するときに用いる生理学的性質であり、生物学的本能にもとづいた原初的芸術の特質でもある。現代芸術は、原初的芸術とは異なり、生物学的な必要性の束縛から自由になったところに展開してきた。もちろん、ハリウッド映画のように、金と技術をつぎ込んで、「美」「快」を量的極限まで高めて観客サービスに徹し、興業的成功を勝ち取ろうという「芸術の進化論的初心」を保った保守的分野も現在盛況をきわめている。しかし現代の芸術的実験の大半は、オスがメスの気を惹くために使ったお定まりの手練手管とは違う、文明世界独自の新しい価値を見出そうと「質的な」工夫を凝らしている。その一例が、今回のミニマリズム映像「BLACKTOP」である。

 世界的にハリウッド映画が最も成功しているのは、文明化された人間にとっても、生物学的・本能的生理の占める重要性が依然として大きいことの証明だろう。多くの人の目には、物理学者や数学者や哲学者よりも、スポーツ選手やポピュラー歌手のほうが「カッコよく」見えるのも進化論的本能ゆえである。しかしだからこそ、じっと路上を見つめる視線に意義を見出すような、反ハリウッド的・反本能的価値観に目覚めるところに、文化的自意識の未知の可能性があるのではなかろうか。生物学的生理にもとづいた「美」「快」とは別のレベルに成立する非ハリウッド的諸作品をこれから見ていこう。

 ↑ここからが、
  2007年後期「文学講義【ノン・フィクション】D-2」「言語と社会」です。
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2007/7/9

2000-03-06 18:52:33 | 映示作品データ
『ロード・トゥ・トーキョー』Road to Tokyo (2006年、アメリカ)
 全13話のうち第2、3話

 戦後61年経って作られたドキュメンタリーであるだけに、戦争中に公開されたジョン・フォード作品(前回)とはかなり異なっている。
 まず、真珠湾攻撃の体験者である元兵士へのインタビューの比重が大きい(戦争中の映画では、兵士への直接インタビューは考えられないだろう)。語り手たちは、事件当時十代の若者だったこともあり、今の十代の青少年に語りかけているような口調である。「戦艦の中がどうなっているか知っているかな? 喫水線より下のほうが大きくて、5、6階分もあるんだ」などと、いかにも戦争を知らぬ世代を想定した語りが迫真的である。
 ヨーロッパ戦線との関係を語っているところはかなり客観的なレポート調だ。第二次大戦中の分岐点として注目を集めがちな真珠湾攻撃だが、その全く同じ頃に、モスクワ近郊でドイツ軍の退却が始まっていたという出来事を提示して、東部戦線=独ソ戦争の重要性を思い出させている(東部戦線は日本でもアメリカでもとかく見過ごされやすいが、第二次大戦の主戦場はモスクワとベルリンの間であったことは忘れてはならない)。
 真珠湾攻撃の成功の前兆として、1921~3年にアメリカ陸軍准将ミッチェルが行なった実験に触れているのも独特である。飛行機によって戦艦など各種艦艇を撃沈するデモンストレーションをして、これからは航空兵力の充実を図らねばならないことを説いたのだった。ミッチェルの実験の実写映像は貴重である。
 同様に、真珠湾攻撃の成功の前兆として、1940年11~12日に、イギリスの空母艦載機によるイタリアのタラント軍港に対する奇襲攻撃にもしっかり触れていた。イギリス機21機が、イタリア海軍の戦艦3隻などに大損害を与えたのだった。日本軍は、このタラント空襲でのイギリスの攻撃法を研究し、真珠湾攻撃に生かしたのである。

 真珠湾攻撃とそれに続くマレー沖海戦(イギリス艦2隻撃沈)で、飛行機を主兵器とする戦法が有効であることを実証して見せた日本軍だったが、当の日本が戦艦大和などの大艦巨砲主義にこだわり続け、真珠湾で敗北を喫したアメリカがすばやく空母主体の航空主兵論に切り替えることができたのは、真珠湾攻撃の皮肉である。戦艦を破壊されて空母が生き残ったがゆえの自然な戦術転換でもあっただろうが、それよりも、攻撃を成功させた側よりも被害を受けた側のほうが教訓を学びやすい、ということではなかろうか。
 原爆攻撃を受けた日本が核兵器の恐ろしさを痛感し核廃絶を訴えているのに対し、攻撃側のアメリカはいっこうに核戦略を放棄しようとしないのも、同じ構図のように思われる。
 授業の最初で2回見比べた原爆投下と、最後に2回見比べた真珠湾攻撃とは、学ぶべき教訓に類似性があり、相補的な対応があるとも言えるだろう。

2007/7/2

2000-03-05 23:27:50 | 映示作品データ
『真珠湾攻撃』 December 7th (1943年、アメリカ、82分)
監督・制作 ジョン・フォード  John Ford
監督・脚本 グレッグ・トーランド  Gregg Toland
撮影 Gregg Toland グレッグ・トーランド
音楽 Alfred Newman アルフレッド・ニューマン

 フィルムそのものはアメリカ軍当局に没収され、当時公開されたのは、再編集短縮バージョンだけ。架空の人物を登場させた前半と終盤をカットして、真珠湾の戦闘場面を中心にした34分の短編作品としてである。戦争中ということを考えると当然かもしれない。日本人に対する敵愾心を煽ることなく移民の歴史を比較的客観的に報じていること(日系アメリカ人と日本人移民の区別が曖昧になっていたことに注意)、海軍の防備がおろそかだったかのような印象を与えること、終盤は「これ以上戦争はごめんだ」という反戦ムードで語られ国民の継戦意志に水を差しかねないこと、などがフィルム没収・再編集の理由だろう。本日紹介した全長版は、「生誕百年ジョン・フォードの世界」として1995年に日本で上映されたのが世界初の正式公開。50年以上も封印されていた映画ということになる。
 軍に没収処分を受けたにもかかわらず、編集後の短編は44年アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞した。前年にやはりジョン・フォードの『ミッドウェイ海戦』(記録映画としては初のカラー映画。ジョン・フォードは撮影中に負傷)が同賞を受賞したのに続いての連続受賞である。
 日本人移民・日系人のその後の運命を知りたい人は、→ウィキペディアでもけっこうなので←一通り調べておいてください。

 なお、ラストシーンで「なぜ日本の国旗が出てこなかったのか」と書いている人がいましたが、あれは映画制作当時に「連合国」の陣営で戦っている国々の団結を表わしたシーンなので、当然、日本は除外されています。同様に他の枢軸国――ドイツ、イタリア、ルーマニア、フィンランド、ハンガリー、ブルガリアの国旗も出てきません。「自由フランス」が銃剣だけで国旗が出てこなかったのは、ヴィシー・フランス政府はドイツと協力する枢軸国に分類されたから。スペイン、スウェーデン、スイスなどの中立国の国旗も出てきません。

 43年当時のアメリカの「真珠湾」観と、六十年以上を経てアメリカが同じ事件をどう見ているかを比較するため、次回はテレビドキュメンタリー「ロード・トゥ・トーキョー」Road to Tokyo (2006年)の真珠湾攻撃の部分を観ることにしましょう。

2007/6/25

2000-03-04 22:04:28 | 映示作品データ
■スティーブ・ライヒ Steve Reich  1936~

 『エイト・ラインズ』Eight Lines (1983) ……『八重奏曲』Octet (1979) のアレンジ
 ジョナサン・ノット指揮 Jonathan Nott
 アンサンブル・アンテルコンタンポラン Ensemble Intercontemporain
 2000年 パリ シャトレ座でのライブ映像

 初期の『カム・アウト』Come Out (1966) 『ピアノ・フェイズ』Piano Phase (1967) 『バイオリン・フェイズ』Violin Phase (1967) などでは「反復とズレ」によるミニマルミュージックを実践していたが、70年代後半には「ズレ」は影を潜め、フェイズ(反復の単位)の形態をさらに大きな周期で変えていったり、アンサンブルの中で前景となる楽器を微妙に交代させたりする方法に移行している。アフリカのリズムに学んだため、ジャズとクラシックを融合させたような雰囲気も感じられる。
 ユダヤ系の出自にも関わる政治的メッセージを込めたオペラも書いているが(その一例が前回に観た『スリー・テイルズ』)、メッセージを表わすのに最適と思われる「メロディ」を排除して、あくまで平坦な、「引き延ばされた瞬間」のイメージで象徴的伝達がなされるところが特徴である。

■ジョン・ケージ  John Cage 1912~1992

インゴ・メッツマッハー指揮  Ingo Metzmacher
アンサンブル・モデルン  Ensemble Modern

 『プリペアド・ピアノと室内管弦楽のための協奏曲』(1951)
Concerto for Prepared Piano and Chamber Orchestra
 ピアノの弦にいろいろな物を挟んで金属的な音を出すプリペアド・ピアノは、ピアノが打楽器であることを改めて思い出させてくれる。

 『ピアノと管弦楽のためのコンサート』(1957-58)
Concert for piano and orchestra
 すべての演奏者がソロとして、時計の針を演じる指揮者にのみ合わせてそれぞれが自由に演奏する。楽譜にはタイミングだけが指定。こうしたあからさまな実験芸術だけでなく、古典芸術も含めて芸術作品とはすべて偶然の産物なのだという事実が改めて思い起こされるだろう。

 アメリカというとハリウッド映画からコカコーラ、ハンバーガーに至るまで、大衆的通俗文化のるつぼのようなイメージを抱かれがちだが、世界最先端の実験的芸術の発信地でもあり続けている。ケージのような「わかりづらい」前衛音楽、ライヒのような「わかりやすい」前衛音楽を聴いていると、アメリカ文化の〈柔軟性と偏執性〉という対立性質の融合ぶりに今さらながら感服させられる。

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なお、レポート提出の要領については、↓のコメントをクリックしてご覧ください。

2007/6/18

2000-03-04 01:39:29 | 映示作品データ
スリー・テイルズ 1998-2002
Three Tales

音楽 スティーブ・ライヒ Steve Reich
映像 ベリル・コロット Beryl Korot
(↑この二人は夫婦)

第1部 Hindenburg  1937年5月6日、ドイツの硬式飛行船・ヒンデンブルク号が大西洋横断後、アメリカニュージャージー州レイクハーストで着陸時に突如爆発、炎上した事件をテーマに。実写フィルムとラジオ放送などで構成。1998年作。
第2部 Bikini 1946年から52年にかけてマーシャル諸島のビキニ環礁で行なわれた一連の原爆実験をテーマに。記録フィルムと交信記録を再構成。2001年作。
第3部 Dolly 1996年に生まれた(発表は1997年)クローン羊ドリーと、生命科学・ロボット工学をテーマに。進化生物学者、コンピュータ科学者、ロボット研究者ら多くの科学者へのインタビューで構成。2002年作。

 音楽に映像を合わせたのか、映像に音楽を合わせたのか、微妙なシンクロぶりが見もの。ビデオ・アートだが、ジャンルとしては「オペラ」に属する。普通の声(ニュース音声やインタビューなど)が断片化され、メロディ化しているありさまは、まさにオペラだと納得されるだろう。ジャンルを「オペラ」と書いた正解者は、1人だけでした。10人程度の人が「ミュージカル」と答えていたが、ミュージカルの場合はドラマ部分と歌の部分が分かれており、全体がもっと写実的かつ演劇的になる。この作品の場合は、全体が編集され尽くして音と映像が融合しきっているので、ミュージカルよりもずっと「様式的」になり、演劇よりは舞踏に近く、やはり「オペラ」としか言いようのない形態をとることになった。
 ただし、あらかじめ台本が書かれているのではなく、偶然与えられた音声のパターンを利用するように映像と音が配置されているので、「逆オペラ」とでも呼ぶべき新ジャンルをなしている。パフォーマーが楽譜に合わせるのではなく、楽譜と映像デザインのほうがパフォーマー(発言者)に合わせる仕組みである。
 さて、テクノロジーがテーマになっていることはわかりすぎるほどだが、この作品のメッセージは何だろう、観客に何を考えさせようとしているのだろう。
 少なくともこれはありがちなテクノロジー批判の作品ではない。それは、このビデオアートそのものがさまざまな映像処理・音響処理においてテクノロジーを利用しまくっていることでもわかる。「神の領域を侵す」と言って思考停止のまま新テクノロジーを拒否する人々はいつの時代にもいるが、そうした姿勢をこそ戒めているようでもある。とにかく考えることが重要であると。そのためには直接の語りかけ・プロパガンダよりも、音楽と映像デザインによる「象徴的な」表現が適しているのである。
 「ドリー」に出てきたロボット「キスメット」と開発者の女性がラストシーンで会話をしているが、オランウータンやチンパンジーとの手話の光景にそっくりである。「人間は、動物はマシーン」というフレーズが何度も反復された。「マシーン」という語が決して貶めるための悪口ではないことに注意したい。『スリー・テイルズ』ほど環境保護系のお説教から遠い作品はないのだから。