三浦俊彦@goo@anthropicworld

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霊体仮説とゾンビ仮説(修正版)

2006-03-13 02:44:33 | メモ
F**、**Fについては、拙論
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/sizen-sentaku.pdf
の6節,7節を参照してください。

●〈ゾンビ仮説〉が心の哲学を不安に陥れるのに、
  〈霊体仮説〉はそうでもないのはなぜだろうか?


…………………………………………………………………………
 F**は、私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳として具体化したかどうかが調べられ、「脳として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
 **Fは反対に、私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識として具体化したかどうかが調べられ、「意識として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。

霊体仮説……「私並みの意識が、脳状態に匹敵する物理系のないところにも生じうる」
ゾンビ仮説……「私並みの脳状態が、意識を伴わずして生じうる」

A「私は具体化している」
B「私は脳である」
C「私は意識である」

 とする。A、B、Cは概念的命題であり、特別な前提がなければ互いに独立。
 さて、いま、A&B&Cが観察データとして得られた。二つの観察例F**、**Fという観察例として解釈する。
 前者では、「私」を「たまたま脳に宿った意識」と解し、「では他の意識も脳に宿るのか?」と問う。後者では、私を「たまたま意識を持った脳」と解し、「では他の脳も意識を宿すか?」と問う。

 F**  私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳として具体化したかどうかが調べられ、「脳として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
 **F  私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識として具体化したかどうかが調べられ、「意識として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。

 ■ F**のもとで
 対立仮説は、
 K「脳と意識は独立である」
 L「脳は意識の必要条件である」
 共通する補助前提として
  P(A)=a  P(B)≒0  P(C)=1
         P(B)≒0は脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実による。

 P(A&B&C|K)≒0  P(A&B&C|L)=a  ……①
 ここから、P(L|A&B&C)/P(K|A&B&C)
=P(L)/P(K)× P(A&B&C|L)/(A&B&C|K)
 ①をあてはめると
 P(L|A&B&C)/P(K|A&B&C)≫P(L)/P(K)
          ただし、a≫0の場合。

 よって、事前確率と事後確率の変化を見ると、データA&B&Cにより、KよりもLのほうが格段に信頼度を増した、となる。

 ~Lは、脳なき意識の存在を主張する「霊体仮説」である。これが上の議論で反証されたことになる。
 真空に意識が灯ることもある、といった極端な霊体の存在を主張するのが霊体仮説の一種であるのはもちろんのこと、健康な覚醒した脳のレベルの物理的機能が働いていないところにも意識が出現しうる、とするのが霊体仮説である。後者の弱い意味での霊体仮説すら、真である確率がきわめて低い。そのことが、「私は脳を持つ」という観察データにより確証できたことになる。

 ■ **Fのもとで
  対立仮説は、
 K「脳と意識は独立である」
 J「意識は脳の必要条件である」
  共通する補助前提として
  P(A)=a  P(B)=1  P(C)=b
         P(C)=bについては、意識の存在密度は観測できないため、未知。

 P(A&B&C|K)=ab  P(A&B&C|J)=a  ……②
 ここから、P(J|A&B&C)/P(K|A&B&C)
=P(J)/P(K)× P(A&B&C|J)/(A&B&C|K)
 ②をあてはめると
 P(J|A&B&C)/P(K|A&B&C)=1/b×P(J)/P(K)
 ところで、改めて考えてみると観測選択効果により、P(C|A)=1
 つまり、P(A&C)=P(A)=a
 AとCが独立なら、P(A&C)=P(A)P(C)=ab=a
  b=1

 よって、事前確率から事後確率への変化はない。データA&B&Cにより、KとJの信頼度の比は変わらない。

 ~Jは、意識なき脳の存在を主張する「ゾンビ仮説」である。これが上の仮説検定で生き残ったことになる。
 脳が物理的機能を果たしていない場合に意識がないことは当然として(これはLで主張されている)、脳が私とそっくりの物理的機能を果たしている脳を持つ人に意識がないことがありうるとするのがゾンビ仮説である。「私は意識を持つ」ことを「観察」したからといって、ゾンビ仮説は、唯物論や他の二元論に比べて、反証されない。せいぜいこのことが、「私は意識を持つ」という観察データ(実はアプリオリな事実)により言えることである。


…………………………………………………………………………
(この部分に関する質疑応答は、掲示板
 http://8044.teacup.com/miurat/bbs
 の、3月 6日(月)00時45分58秒以降をご覧ください。)

霊体仮説とゾンビ仮説

2006-03-08 16:33:22 | メモ
F**、**Fについては、拙論
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/sizen-sentaku.pdf
の6節,7節を参照してください。


〈ゾンビ仮説〉が心の哲学を不安に陥れるのに、
  〈霊体仮説〉はそうでもないのはなぜだろうか?


…………………………………………………………………………
 F**は、私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳でもあるかどうかが調べられ、「脳だった」というデータが得られた(B&C)、という場合。
 **Fは反対に、私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識でもあるかどうかが調べられ、「意識だった」というデータが得られた(B&C)、という場合。

● F**のもとで
  対立仮説は、
 K「脳と意識は独立である」
 L「脳は意識の必要条件である」
  共通する補助前提として P(B)≒0  P(C)=1

 P(B&C|K)≒0  P(B&C|L)=1  ……①
 ここから、P(L|B&C)/P(K|B&C)
=P(B&C|L)P(L)/P(B&C)÷P(B&C|K)P(K)/P(B&C)
=P(L)/P(K)× P(B&C|L)/(B&C|K)
 ①をあてはめると
 P(L|B&C)/P(K|B&C)≫P(L)/P(K)
 よって、事前確率と事後確率の変化を見ると、データB&Cにより、KよりもLのほうが格段に信頼度を増した、となる。

 ~Lは、脳なき意識の存在を主張する「霊体仮説」である。これが上の議論で反証されたことになる。
 真空に意識が灯ることもある、といった極端な霊体の存在を主張するのが霊体仮説の一種であるのはもちろんのこと、健康な覚醒した脳のレベルの物理的機能が働いていないところにも意識が出現しうる、とするのが霊体仮説である。後者の弱い意味での霊体仮説すら、真である確率がきわめて低い。そのことが、「私は脳を持つ」という観察データにより確証できたことになる。


● **Fのもとで
  対立仮説は、
 K「脳と意識は独立である」
 J「脳は意識の必要条件である」
  共通する補助前提として P(C)=a  P(B)=1

 P(B&C|K)=a  P(B&C|J)=1  ……②
 ここから、P(J|B&C)/P(K|B&C)
=P(B&C|J)P(J)/P(B&C)÷P(B&C|K)P(K)/P(B&C)
=P(J)/P(K)× P(B&C|J)/(B&C|K)
 ②をあてはめると
 P(J|B&C)/P(K|B&C)=1/a×P(J)/P(K)
 ところで、改めて考えてみると観測選択効果により、P(C)=a=1
 よって、事前確率から事後確率への変化はない。データB&Cにより、KとJの信頼度の比は変わらない。

 ~Jは、意識なき脳の存在を主張する「ゾンビ仮説」である。これが上の仮説検定で生き残ったことになる。
 脳が物理的機能を果たしていない場合に意識がないことは当然として(これはLで主張されている)、脳が私とそっくりの物理的機能を果たしている脳を持つ人に意識がないことがありうるとするのがゾンビ仮説である。「私は意識を持つ」ことを「観察」したからといって、ゾンビ仮説は、完全な二元論に比べて、反証されない。せいぜいこのことが、「私は意識を持つ」という観察データ(実はアプリオリな事実)により言えることである。

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(この部分に関する質疑応答は、掲示板
 http://8044.teacup.com/miurat/bbs の、
 3月 6日(月)00時45分58秒以降をご覧ください。)

草稿(「仮題・自然選択説を生んだ自然選択」)

2005-12-15 03:13:11 | メモ
 次の六つの推論は正しいだろうか。正しいものと誤っているものを判別してください。物理学者と天文学者は五問以上、生物学者は全問正解してください。哲学者は全問正解のうえ、誤りの推論すべてに共通する誤謬を指摘してください。

 ■A 地球誕生後5億年ほどして、太陽系生成直後の地獄のような流星雨が収まり、生命の生存余地ができるやいなや、地球上に生命が誕生した。これは、生命というものは条件が整いしだい容易に誕生するものであることの証しである。よって、地球型惑星では生命が誕生する確率が高く、宇宙全体には生命が満ちているに違いない。
 ■B 生命誕生後40億年ほどして、生命進化を回顧できるほどの知的文明が生じた。知性の進化までには、太陽の寿命に匹敵する時間がかかったことになる。これは、知性というものは容易に生じえないことを示している。したがって、生命そのものがありふれているかどうかにかかわらず、知性は宇宙全体で稀であるに違いない。
 ■C 地球上の全ての生命のDNAの共通性から、生命はただ一度誕生したらしいことがわかる。他方、知性へ向かう進化は、いろいろな系統に独立に生じている。したがって、生命誕生がかりに易しい出来事ではなく稀にしか起こらないとしても、地球外のどこであれいったん生命が誕生すれば、ほぼ間違いなく知的生命へと進化しているに違いない。
 ■D 地球は、生命進化に適した惑星という点で、太陽系内で唯一である。しかし、宇宙全体で例外ということはありえない。なぜなら、次のように仮定すると矛盾が生ずるからである。生命進化に適した環境が与えられた条件下での生命誕生の確率、または生命誕生が与えられた条件下での知性誕生確率、少なくともいずれかが小さくて、生命進化に適した環境が少数しかないと仮定しよう。すると、知性の進化が一度も起こらない可能性が高い。ところが、生命が現に地球で誕生し、知性にまで進化した。これは、仮定が間違っていることを意味する。よって、地球以外にも、生命進化に適した惑星は多数存在する。
 ■E 地球には、生命そして知性が誕生した。コペルニクス原理によれば、ここは特別な場所ではないはず。よって、地球だけに生命そして知性が生まれたとは考えにくく、宇宙の他の場所でも知的生命は生じていると考えるべきである。
 ■F 地球では、生命そして知性は、細胞とか脳とかいった複雑な組織に依存している。コペルニクス原理によれば、ここは特別な場所ではないはず。よって、生命そして知性が複雑な物質にもとづいているのは地球においてだけとは考えにくく、宇宙の他の場所でも同様に生命・知性は物質の複雑系組織によってのみ生まれると考えるべきである。

忠誠のパラドクス

2005-12-11 01:19:39 | メモ
★論理式の演習問題(続・忠誠のパラドクス)

 前問の答えの末尾(『論理パラドクス』問032)「普遍化可能な読み」の方を論理記号で表わすと、次のようになる。
∀x(O(∃y(R(x,y))))
∀xは、∀xがかかる( )内の表現をすべてのx(ここでは暗黙に「すべての人間」)が満たすということであり、Oは、Oがかかる( )内が義務であることを示し、∃yとは∃yがかかる( )内の表現を満たすyがあるということであり、R(x,y)はxはyに対して忠実である、ということを示す。つまり上の論理式は、丁寧に読むと、「すべての人に次のことが当てはまる、すなわち、誰かに忠実であることが義務である」。
① では、「普遍化不可能な読み」はどのような論理式で表わされるか。書いてみよう。

答え: ∀x(O(∀y(R(x,y))))

②次の論理式は、「普遍化可能な読み」の∀xと∃yの位置を入れ替えたものだが、どういうことを表わしているか。日本語で述べよ。

     ∃y(O(∀x(R(x,y))))

答え: あらゆる人が忠実であるということが義務的であるような(崇高な)人がいる

③次の論理式は、②のxとyの位置を入れ替えたものだが、どういうことを表わしているか。日本語で述べよ。

     ∃x(O(∀y(R(x,y))))

答え: あらゆる人に忠実である義務を負っているような人がいる
これは、②の答えとは違って、ありえない状況だろう。前問「忠誠のパラドクス」で確認したように、このことが成り立ったら、Rはもはや「忠実である」を意味する述語ではなくなってしまう。

④次の論理式は、②のOと∀xの位置を入れ替えたものだが、どういうことを表わしているか。日本語で述べよ。

∃y(∀x(O(R(x,y))))

答え: あらゆる人が忠実である義務を負っているような(崇高な)人がいる

⑤ では、②と④とは意味がどう違うのか。具体的に述べよ。

② ∃y(O(∀x(R(x,y))))
④ ∃y(∀x(O(R(x,y))))

答え:②は、「あらゆる人がyに忠実である」ことが義務とされているような、そういうyがいる、ということである。
いっぽう④は、「yに忠実である」ことがいかなる人にとっても義務であるような、そういうyがいる、ということである。
禅問答みたいでこんがらがってしまうかもしれないが、この二つは明らかに意味が違う。②は、これから何人生まれてこようとも、「誰もがみなyに忠実である」ことが常に成り立たねばならぬ、と言っている。ところが④は、いま存在する人について、yに忠実であらねばならない、と言っているのであって、これから生まれてくる人については何も言っていない。
 ∀xは「すべての人は」ということなのだから、これから生まれてくる人も含んでいるのではないか、だから④の∀xもこれから生まれてくる人まですべて含んでいるのではないか、と反論されるかもしれない。その場合には、「生まれてこなかったが、生まれてきたかもしれなかった人」たちを考えてもらいたい。②は、そういう人たちを全部含めて、誰が生まれてこようが、「誰もがみなyに忠実である」ことが義務であるような仕組みになっているのだ、と述べている。④は、たまたま生まれてきた人に関して、yに忠実であらねばならない、と述べている。④では、「yに忠実である」ことが義務であるのは、偶然かもしれない。②では、Oのかかる範囲が広くて∀xも含んでいるので、とにかく「全てのものについて……」という義務が成り立つのが必然である旨を述べている。

⑥それでは、次の論理式はどう読むだろう。②④とは意味がどう違うのか。

O(∃y(∀x(R(x,y))))

答え:これは②よりもさらにOのかかる範囲が広く、全体にかかっている。②では、みんなに忠実にされるべき特定の人がたまたまいるということが述べられているが、ここでは、みんなに忠実にされる人が「いなければならない」ということを述べている。②の場合は、その人がたまたま生まれてこなかったとしたら、全員が忠実にすべき人というのはいなかったかもしれないのだが、この場合は、必ず全員が忠実にする人がいるべきだ(もし現実のあの人が生まれてこなかったとしたら別の人がその地位についていただろう)と述べている。
⑦  ⑥の文は、全員が忠実にすべき人がいなければならない、ということを言ってはいない。たまたまみんなが忠実にする人が必ずいればいい。全員が忠実にすべき人がいなければならない、という意味のことを論理式で表わすにはどうすればよいか。

 答え:②の文の頭にOを付ければよい。
  O∃y(O(∀x(R(x,y))))

 他にも、
∃y(O(∀x(O(R(x,y)))))
O(∃y(∀x(O(R(x,y)))))
O(∃y(O(∀xO(R(x,y)))))

といった論理式を構成することができ、それぞれ意味が異なっている。説明は煩雑になるので省くが、それぞれの意味の違いを日本語で(英語でもフランス語でも中国語でも)表現するのは大変である。論理記号であれば、意味の違いをズハリと正確簡潔に表わすことができる。さらには、日常言語では混同しやすいいろんなニュアンスの否定文も、否定記号「~」をさまざまな部位にくっつけることで明瞭に書き分けることができ、論理的な相互関係を理解することができる。