熱海に来た。熱海という街を語ることは難しい。首都圏に住む人の大半は、一度や二度は熱海に行ったことがあるだろう。当然それぞれの胸に、それぞれの熱海がある。その分、最大公約数を算出し難い街なのである。僕は伊豆で育ったので、当然ながら熱海には何度も行ったことがある。伊豆を離れてからも訪れている。僕にとって熱海は、地元圏内の町であると同時に、観光地でもある。そして東北に移住した現在では、遠く離れた地にもなった。これから書く熱海は、あくまで僕にとっての熱海である。それが貴方にとっての熱海と少しでも共通点があれば嬉しいし、異質であったとしても何らかの示唆が含まれていればと思う。
さて、今回いつもと違う点は鉄道で熱海入りしたことだ。まず驚いたのは、熱海駅の改札付近の混雑状況だ。これはもう都会並みではないか。調べたところ、熱海駅の一日あたりの利用者数は2万5千人だった。ちなみにJR秋田駅は、約1万7千人である。改札を出た駅前の混雑具合も相当なものだ。イベントでもない限り東北では、これ以上の人数が集まる都市は仙台くらいしかないと思う。だが、しかし・・・。僕の目的はそこではない。駅前の混雑地帯を抜け、古くからの繁華街に向かう。片手にGRⅢを握りしめながら、アップダウンの多い曲がりくねった道を進む。繁華街の中心に近づくと、駅前とは様相が激変する。もはや混雑地帯ではなく、あからさまに昭和を体現した地方都市の姿がそこにある。GRⅢは、この街で使うためにあるようなカメラだ。テンポよく撮り歩くうちに、気分が乗ってきた(笑)。楽しい。熱海がこんなに楽しい街とは知らなかった。
熱海は栄枯衰退を潜り抜けてきた街だ。東洋のモンテカルロと呼ばれ、新婚旅行のメッカとなったこともある。団体旅行客が押し寄せ、街中が好景気に沸いた時期もある。バブル崩壊と共に温泉街は廃れ、旅館の廃業が相次ぐ暗黒期も経験した。黄金期を知る人からすれば、町は廃れたというが、現在は首都圏から気軽に往来できる観光地として多くの人が訪れる。160㎞を超える剛速球を投げていた投手が、肘の故障を経てから復帰した。先発投手として以前のような速球は投げられないが、技巧派の中継ぎ投手としてチームに欠かせない存在になった。そんな感じだと思っている。でもただの中継ぎ投手ではない。エースだった頃の夢の残滓が沢山残った街でもある。さあ、次回は伊豆三都物語最終回。熱海の夜は、どんな姿を見せるだろうか?
GRⅢ
真鶴や湯河原にはまだイメージどおりの街かどが残っていますね
いつもながら見続けてしまう画像が素晴らしいです。
私の母が熱海出身で、夏休みは熱海銀座商店街近くの母の知り合いの家に行くのがすごく楽しみでした。そこのおばさんが面白い方で、小学生の私を夜の町、といっても射的とかピンボールとかある今でいうゲーセンですけど、浴衣姿の少々お酒の入ったおじさんがお金を出してくれてゲームさせてくれたり・・・おっと、パパ活か?(笑)
写真に写っていた大一楼、多分連れていってもらったお店だと思います。
熱海はやっぱり路地ですよね(笑)
昭和の裏通がそこにあり、昼間で喫茶店などがちゃんとオープンしております。
ぜひお勧めします。
繁華街は海沿いまで行くとまた姿を変えるので、陸の孤島のような一角だけが、そのまま残っています。
可能であれば湯河原とかオ小田原にも行きたかったです。どちらも伊豆の人間からしたら、同じ静岡県の浜松なんかよりも遥かに親しみ易い町です。
何故か分かりませんが、嬉しいです。
ちなみに次回作の写真に、スマートボールと射的の店が掲載されますよ。
まだ残っておりました。更にはムフフなものも・・・・。
東京駅 東海道線は新婚の旅立ちを見送る仲間たちが
万歳などしていたものです
会社の旅行も熱海泊まり 夜は浴衣で繰り出したものです
海岸線には大きなホテルが立ち並び まさに100万ドルの夜景 続く道路は熱海銀座 ○○劇場など客引きにつられて入ったり(笑)
大手の会社は山側 伊豆山方面に保養所が沢山あり
仕事関係でも良く宿泊したものです
その後の退廃はすさまじく 海岸のホテルは廃墟でしたね
今 若い方たちが再び訪れ 活気を呈しているのが
救いです
当時の熱海、それは凄かったのでしょうね。
今では観光のあり方が変わってしまったので、首都圏近郊の温泉地が廃れたのは仕方ないかなと思います。
廃れたこと自体よりも、盛り返した現状が、地場資本ではなく、大手デベロッパー等の外部資本で運営されていることが気になります。
でも、熱海銀座周辺だけは、昭和が残っていましたよ。