「昂じた、とは、つまり」
「想像のとおりだ」
「つまり、俺は、いま、あんたに向けているような心を、やはり持っていて、それで、苦しんで、忘れるために、石を使ったというのだな」
「そうだと思う。あなたは石に願いをかけたとき、口に出さなかったから、わからないのだけれど……大丈夫か、子龍、顔色がわるい」
「わるくもなる。なんと情けない」
「情けなくなどないよ。ともかくいろいろあって、立場が危うくなったときもあったのだから、自分を責めてはいけない。わたしがあなただったら、同じことをしたかもしれないのだ」
「あんたが俺だったら、ということは、つまり、あんたは俺と一緒というわけではないのだな」
「それは」
「答えてくれ。最初の質問だ。俺はあんたのなんだったのだ?」
「親友であり、兄弟のようなものであった、志を同じくするもの。おなじ主君に仕える者だ」
「それだけ? ほんとうにそれだけか」
「ことばにするのは、とてもむずかしいのだよ。それ以上ではあったけれど、でも、心のなかだけのことだった」
「あんたは、ということだろう。なるほど、納得がいった。おかしいとは思ったのだ。すべてを忘れたいなどと、たとえふざけたにしても、ふつうはそこまで考えないだろう。
過去に、よほどの失敗をしたか、恥を受けたことがあり、それを忘れるためにそんなことを願ったのではないかと考えていたのだが、そうではなかったのだな」
「すまない。子龍、ほんとうにひどい顔色だぞ。気休めにしかならぬかもしれんが、気分が多少まぎれる煎じ薬がある。飲んでみるか」
「気遣いは無用だ。かえってつらい。しかしぶざまなものだな。せっかく忘れたはずなのに、しかし結局、おなじところへ心が戻っているのだから。もしも本当に苦しみから逃れたいのなら……いや、これは愚痴だな。さらにぶざまなところをみせたくない。
なるほど、あんたが俺を故郷に帰したがったのも、やっと理由がわかった。あんたは、俺がまた元に戻ることを、ほぼ確信していたわけだな」
「確信していたわけではないよ。あなたがどれだけ苦しんでいたか、知っていたから、元に戻ってしまうまえに、ちがう道を見つけられるなら、それが一番だろうと思ったのだ。そして、もし道があるとしたら、それは故郷からやり直すべきではないかと」
「つまり、俺はいまもって、あんたに迷惑しかかけない人間なわけだ。それはそうだろうな。俺のほうこそ謝らねばなるまい」
「謝ったりしないでくれないか。悲しくなるじゃないか」
「そうか、そうだな。ところで」
「ところでと言いつつ、わたしの手を取るのは何故だろう。こういうところは、やはり、以前の子龍にはなかったな。人間、過去の鬱積が心からなくなると、こうも屈託なくなるものなのだろうか。
でもって、なんだって人の顔を、そうのぞきこむのだろうか」
「そうとわかれば、むしろ迷いも晴れたというものだ。俺は以前は、だいぶ鬱屈していたようだが、それはあまり健康的な心のありようではない」
「うん、かなり不健康だとも。なんだってそう、手をにぎにぎと握るのかな。でもって、やたらと目を見つめるのをやめないか」
「俺はまちがっていた」
「どこをどのように? おかしいな、子龍、なにか誤解があるように感じるのだが」
「いや、誤解はない。あんたの話を聞いて、俺の心はむしろ晴れた。これからは、前向きになろうと思う。そうだろう」
「賛同を求められても、はいとは言えぬぞ。だいたい、前向きとはいえ、どちらの方面に関して前を向いているのだ。
って、ちょっと。おい、ほんとうに、洒落にならぬぞ、やめよう、な?」
「なぜ」
「なぜって、決まっているだろう。自然の摂理に反することだからだ。理路整然と動き、けっして誤まらない。それが趙子龍だろう」
「路線変更をすることに決めた」
「真顔でなにを言っているのやら。勝手に決めるな。そうだ、いまから飲みに行こう。まだそれほど夜も更けておらぬし」
「そう言って、俺の目をよそに向けさせようとするのも卑怯ではないか。俺があんたの代わりに女を買ったとしても、その女が気の毒だとは思わぬか」
「理論で返された……そうだな。浅墓な提案であった。許せ」
「そういうわけで」
「どういうわけだ! 見た目は同じなのに、中身がまるで別人だぞ! 早急にもとに戻ることを要望する! そうだ、石を……って、あれ? ちょっと。おや?
うわあ、本気で止めよう! ものすさまじい勢いで鳥肌が立った。じんましんも出た気がする!
冷静になって考えろ。でもって、よいか、おのれがわたしに、なにをなさんとしているのか、客観的に想像してみるがいい。とんでもなくおぞましい像があたまに浮かばぬか」
「そうおぞましくないように思うが」
「………変だ。感覚が狂っておるぞ。というより、かなり厳しい状況だ。絶対絶命だ。いっそ大声をあげるか? しかしそうなれば、長年築いた友情もこれで終わりだ。とはいえ、このまま友情を越えたどこかにいく予定は、わたしにはない!」
「オ邪魔」
「おお、救い主!」
「ぬかった、扉を閉めていなかったか……!」
「よく来てくれた! いま、仏門に下ってもよいなと本気で思ったぞ!」
「半端ナ信心ハ、ムシロ毒ヨ。兄チャンノ、イビキガウルサクテ、眠レナイノヨ。弟ハ鈍感ダカラ、グウグウ寝テイルケド、ワタシハ繊細ナノデ我慢デキナイ。チョット部屋ヲ借リルネ。ア、ワタシノコトハ気ニセズ、続キヲドウゾ」
「どうぞ、ってな……」
「遠慮シナクテイイヨ。ワタシハ、理解ノアルオ坊サン。ぎゃらりーハ気ニセズ、ハイ、再開」
「そういわれて再開できるものか。気が逸れた。すこし頭を冷してくる」
「ナンダ、ツマンナイ」
「出歯亀かい。子龍、ちゃんと眠るのだぞ」
「…………」
※
「行ってしまった。怒ったかな。しかし、あれもまちがいなく、子龍の一面なのだろうな。いささか落胆してしまう。どうあれ、もっと理性的な男だと思っていたのに。
それにしても、あれはかなり慣れているな。人の口にのぼる以上に、若い頃はもっと遊んでいたにちがいない。
いま気づいた。帯なんぞ、ほとんど解けかけているではないか、なんという手の速さだ。ああ、恐ろしい。
なんであれ、部屋に来てくれて助かった、礼を言う。ええと……」
「ニキ。ワタシノ名ハ、ニキ」
「ありがとう、ニキ」
「気ニスルコトナイ。ワレワレノ世界デモ、コウシタ問題ハ、ママアルノヨ」
「そうなのか!」
「マアネ。女ノ子ニ手をフレチャダメナラ、男ナライイカト、男ニ走ルぱたーん。
デモ、アンタタチノハ、モウスコシチガウノカナ。大秦国デハ、男同士ノ絆トイウノハ、ムシロ美化サレテイル。
チョット昔ノハナシニナルケレド、すぱるたトイウ国ガアッタ。イマハ大秦国ノ一部にナッテイルケレド。ソコデハ軍ガ、軍人同士デソウイウ絆ヲ結ブコトヲ推奨シタ。
ナゼカトイウト、同ジ戦場ニ恋人ガイルコトデ、イイトコロヲ見セヨウト頑張ルカラ。オカゲデ、すぱるたハ、トッテモ強イ国ダッタ。コレ本当。
ホカニモ、男同士ノ絆ヲ称揚シタ芸術作品ナンカモ、大秦国ニハ、イッパイアルヨ。アンタタチ、チョットソッチニ近イカモ」
「本当か。恐るべし、大秦国。やっぱり行くのはやめておく」
「ヤメルノ、賢明。アンタキット、モテマクル」
「女みたいだからか? 子龍はそうではないと以前に言っていたけれど、いまはどうもわからぬな。落ち込んでしまうよ。好きでこんな姿に生まれてきたわけではないのに」
「見タ目ハ、タシカニ女カシランッテカンジダケド、アンタ、中身ハ、ゼンゼン女ッポクナイ。女ミタイナ男ダカラモテルンジャナクテ、ヤッパリ男ダカラコソ、モテルワケ」
「なにやら複雑であるが、なぐさめてくれているのだな、ありがとう」
「マア、イイッテコトヨ。ゴンタクン、チョット気ノ毒ダネ。アリャ手近ナトコロデ手ヲ打トウッテイウンジャナサソウダケレド、デモ、力ヅクハ、ヨロシクナイ」
「なんだ、鼾がうるさいから避難してきたというのは口実で、やはり助けにきてくれたのだな」
「一応、人助ケハ、僧侶ノ仕事ダシ」
「あらためて礼を言わねばな。わたしにとって、趙子龍という男は、だれより失いたくない人物なのだ。もっと言ってしまえば、おそらく誰よりもわたしが、かれを案じているだろうけれど、かといって、かれが望むとおりにしてしまうと、逆にかれを失う日がくるような気がして、恐ろしいのだ。そう言って、わかるだろうか」
「フーン。ナントナク、ワカル。ナントナク、ダケドネ。アンタノ言イタイノハツマリ、愛欲ハ、競争デモアル。ドウシタッテ、同ジ強サデオ互イヲ思イアウコトハデキナイ。ドコカデ差ガ生ジルモノ。
ソノ差ガスレチガイヲ生ミ、ヤガテ疲レテ、壊レテシマイ、結果トシテ、失ウコトニナルノガ怖イ、ッテコトデショ?」
「そうだな。わたしが求めているのは、どこまでも一緒に歩いてくれる人なのだ。贅沢なのかもしれないけれど、わたしが女であり、命をつなぐ役目を担える者ではない以上、われわれのあいだには、われわれしかない。ひとたび道を外れてしまったら、もう元に戻れないだろう。
わたしが行く道は険しいから、やはり道連れがほしいのだよ。でも、かれが求めているのは、そうではないのだな。
いままで、黙って我慢してくれていたのか。それが記憶をなくすことで、はっきりと表にあらわれたのかもしれない。
してみるに、わたしがかれを常山真定に追いやろうとしたのも、そうなることが怖かったといえないだろうか。ああ、わたしはなんと嫌なやつだろう」
つづく……
「想像のとおりだ」
「つまり、俺は、いま、あんたに向けているような心を、やはり持っていて、それで、苦しんで、忘れるために、石を使ったというのだな」
「そうだと思う。あなたは石に願いをかけたとき、口に出さなかったから、わからないのだけれど……大丈夫か、子龍、顔色がわるい」
「わるくもなる。なんと情けない」
「情けなくなどないよ。ともかくいろいろあって、立場が危うくなったときもあったのだから、自分を責めてはいけない。わたしがあなただったら、同じことをしたかもしれないのだ」
「あんたが俺だったら、ということは、つまり、あんたは俺と一緒というわけではないのだな」
「それは」
「答えてくれ。最初の質問だ。俺はあんたのなんだったのだ?」
「親友であり、兄弟のようなものであった、志を同じくするもの。おなじ主君に仕える者だ」
「それだけ? ほんとうにそれだけか」
「ことばにするのは、とてもむずかしいのだよ。それ以上ではあったけれど、でも、心のなかだけのことだった」
「あんたは、ということだろう。なるほど、納得がいった。おかしいとは思ったのだ。すべてを忘れたいなどと、たとえふざけたにしても、ふつうはそこまで考えないだろう。
過去に、よほどの失敗をしたか、恥を受けたことがあり、それを忘れるためにそんなことを願ったのではないかと考えていたのだが、そうではなかったのだな」
「すまない。子龍、ほんとうにひどい顔色だぞ。気休めにしかならぬかもしれんが、気分が多少まぎれる煎じ薬がある。飲んでみるか」
「気遣いは無用だ。かえってつらい。しかしぶざまなものだな。せっかく忘れたはずなのに、しかし結局、おなじところへ心が戻っているのだから。もしも本当に苦しみから逃れたいのなら……いや、これは愚痴だな。さらにぶざまなところをみせたくない。
なるほど、あんたが俺を故郷に帰したがったのも、やっと理由がわかった。あんたは、俺がまた元に戻ることを、ほぼ確信していたわけだな」
「確信していたわけではないよ。あなたがどれだけ苦しんでいたか、知っていたから、元に戻ってしまうまえに、ちがう道を見つけられるなら、それが一番だろうと思ったのだ。そして、もし道があるとしたら、それは故郷からやり直すべきではないかと」
「つまり、俺はいまもって、あんたに迷惑しかかけない人間なわけだ。それはそうだろうな。俺のほうこそ謝らねばなるまい」
「謝ったりしないでくれないか。悲しくなるじゃないか」
「そうか、そうだな。ところで」
「ところでと言いつつ、わたしの手を取るのは何故だろう。こういうところは、やはり、以前の子龍にはなかったな。人間、過去の鬱積が心からなくなると、こうも屈託なくなるものなのだろうか。
でもって、なんだって人の顔を、そうのぞきこむのだろうか」
「そうとわかれば、むしろ迷いも晴れたというものだ。俺は以前は、だいぶ鬱屈していたようだが、それはあまり健康的な心のありようではない」
「うん、かなり不健康だとも。なんだってそう、手をにぎにぎと握るのかな。でもって、やたらと目を見つめるのをやめないか」
「俺はまちがっていた」
「どこをどのように? おかしいな、子龍、なにか誤解があるように感じるのだが」
「いや、誤解はない。あんたの話を聞いて、俺の心はむしろ晴れた。これからは、前向きになろうと思う。そうだろう」
「賛同を求められても、はいとは言えぬぞ。だいたい、前向きとはいえ、どちらの方面に関して前を向いているのだ。
って、ちょっと。おい、ほんとうに、洒落にならぬぞ、やめよう、な?」
「なぜ」
「なぜって、決まっているだろう。自然の摂理に反することだからだ。理路整然と動き、けっして誤まらない。それが趙子龍だろう」
「路線変更をすることに決めた」
「真顔でなにを言っているのやら。勝手に決めるな。そうだ、いまから飲みに行こう。まだそれほど夜も更けておらぬし」
「そう言って、俺の目をよそに向けさせようとするのも卑怯ではないか。俺があんたの代わりに女を買ったとしても、その女が気の毒だとは思わぬか」
「理論で返された……そうだな。浅墓な提案であった。許せ」
「そういうわけで」
「どういうわけだ! 見た目は同じなのに、中身がまるで別人だぞ! 早急にもとに戻ることを要望する! そうだ、石を……って、あれ? ちょっと。おや?
うわあ、本気で止めよう! ものすさまじい勢いで鳥肌が立った。じんましんも出た気がする!
冷静になって考えろ。でもって、よいか、おのれがわたしに、なにをなさんとしているのか、客観的に想像してみるがいい。とんでもなくおぞましい像があたまに浮かばぬか」
「そうおぞましくないように思うが」
「………変だ。感覚が狂っておるぞ。というより、かなり厳しい状況だ。絶対絶命だ。いっそ大声をあげるか? しかしそうなれば、長年築いた友情もこれで終わりだ。とはいえ、このまま友情を越えたどこかにいく予定は、わたしにはない!」
「オ邪魔」
「おお、救い主!」
「ぬかった、扉を閉めていなかったか……!」
「よく来てくれた! いま、仏門に下ってもよいなと本気で思ったぞ!」
「半端ナ信心ハ、ムシロ毒ヨ。兄チャンノ、イビキガウルサクテ、眠レナイノヨ。弟ハ鈍感ダカラ、グウグウ寝テイルケド、ワタシハ繊細ナノデ我慢デキナイ。チョット部屋ヲ借リルネ。ア、ワタシノコトハ気ニセズ、続キヲドウゾ」
「どうぞ、ってな……」
「遠慮シナクテイイヨ。ワタシハ、理解ノアルオ坊サン。ぎゃらりーハ気ニセズ、ハイ、再開」
「そういわれて再開できるものか。気が逸れた。すこし頭を冷してくる」
「ナンダ、ツマンナイ」
「出歯亀かい。子龍、ちゃんと眠るのだぞ」
「…………」
※
「行ってしまった。怒ったかな。しかし、あれもまちがいなく、子龍の一面なのだろうな。いささか落胆してしまう。どうあれ、もっと理性的な男だと思っていたのに。
それにしても、あれはかなり慣れているな。人の口にのぼる以上に、若い頃はもっと遊んでいたにちがいない。
いま気づいた。帯なんぞ、ほとんど解けかけているではないか、なんという手の速さだ。ああ、恐ろしい。
なんであれ、部屋に来てくれて助かった、礼を言う。ええと……」
「ニキ。ワタシノ名ハ、ニキ」
「ありがとう、ニキ」
「気ニスルコトナイ。ワレワレノ世界デモ、コウシタ問題ハ、ママアルノヨ」
「そうなのか!」
「マアネ。女ノ子ニ手をフレチャダメナラ、男ナライイカト、男ニ走ルぱたーん。
デモ、アンタタチノハ、モウスコシチガウノカナ。大秦国デハ、男同士ノ絆トイウノハ、ムシロ美化サレテイル。
チョット昔ノハナシニナルケレド、すぱるたトイウ国ガアッタ。イマハ大秦国ノ一部にナッテイルケレド。ソコデハ軍ガ、軍人同士デソウイウ絆ヲ結ブコトヲ推奨シタ。
ナゼカトイウト、同ジ戦場ニ恋人ガイルコトデ、イイトコロヲ見セヨウト頑張ルカラ。オカゲデ、すぱるたハ、トッテモ強イ国ダッタ。コレ本当。
ホカニモ、男同士ノ絆ヲ称揚シタ芸術作品ナンカモ、大秦国ニハ、イッパイアルヨ。アンタタチ、チョットソッチニ近イカモ」
「本当か。恐るべし、大秦国。やっぱり行くのはやめておく」
「ヤメルノ、賢明。アンタキット、モテマクル」
「女みたいだからか? 子龍はそうではないと以前に言っていたけれど、いまはどうもわからぬな。落ち込んでしまうよ。好きでこんな姿に生まれてきたわけではないのに」
「見タ目ハ、タシカニ女カシランッテカンジダケド、アンタ、中身ハ、ゼンゼン女ッポクナイ。女ミタイナ男ダカラモテルンジャナクテ、ヤッパリ男ダカラコソ、モテルワケ」
「なにやら複雑であるが、なぐさめてくれているのだな、ありがとう」
「マア、イイッテコトヨ。ゴンタクン、チョット気ノ毒ダネ。アリャ手近ナトコロデ手ヲ打トウッテイウンジャナサソウダケレド、デモ、力ヅクハ、ヨロシクナイ」
「なんだ、鼾がうるさいから避難してきたというのは口実で、やはり助けにきてくれたのだな」
「一応、人助ケハ、僧侶ノ仕事ダシ」
「あらためて礼を言わねばな。わたしにとって、趙子龍という男は、だれより失いたくない人物なのだ。もっと言ってしまえば、おそらく誰よりもわたしが、かれを案じているだろうけれど、かといって、かれが望むとおりにしてしまうと、逆にかれを失う日がくるような気がして、恐ろしいのだ。そう言って、わかるだろうか」
「フーン。ナントナク、ワカル。ナントナク、ダケドネ。アンタノ言イタイノハツマリ、愛欲ハ、競争デモアル。ドウシタッテ、同ジ強サデオ互イヲ思イアウコトハデキナイ。ドコカデ差ガ生ジルモノ。
ソノ差ガスレチガイヲ生ミ、ヤガテ疲レテ、壊レテシマイ、結果トシテ、失ウコトニナルノガ怖イ、ッテコトデショ?」
「そうだな。わたしが求めているのは、どこまでも一緒に歩いてくれる人なのだ。贅沢なのかもしれないけれど、わたしが女であり、命をつなぐ役目を担える者ではない以上、われわれのあいだには、われわれしかない。ひとたび道を外れてしまったら、もう元に戻れないだろう。
わたしが行く道は険しいから、やはり道連れがほしいのだよ。でも、かれが求めているのは、そうではないのだな。
いままで、黙って我慢してくれていたのか。それが記憶をなくすことで、はっきりと表にあらわれたのかもしれない。
してみるに、わたしがかれを常山真定に追いやろうとしたのも、そうなることが怖かったといえないだろうか。ああ、わたしはなんと嫌なやつだろう」
つづく……