はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

実験小説 塔 その27

2019年01月30日 10時47分03秒 | 実験小説 塔
「昂じた、とは、つまり」
「想像のとおりだ」
「つまり、俺は、いま、あんたに向けているような心を、やはり持っていて、それで、苦しんで、忘れるために、石を使ったというのだな」
「そうだと思う。あなたは石に願いをかけたとき、口に出さなかったから、わからないのだけれど……大丈夫か、子龍、顔色がわるい」
「わるくもなる。なんと情けない」
「情けなくなどないよ。ともかくいろいろあって、立場が危うくなったときもあったのだから、自分を責めてはいけない。わたしがあなただったら、同じことをしたかもしれないのだ」
「あんたが俺だったら、ということは、つまり、あんたは俺と一緒というわけではないのだな」
「それは」
「答えてくれ。最初の質問だ。俺はあんたのなんだったのだ?」
「親友であり、兄弟のようなものであった、志を同じくするもの。おなじ主君に仕える者だ」
「それだけ? ほんとうにそれだけか」
「ことばにするのは、とてもむずかしいのだよ。それ以上ではあったけれど、でも、心のなかだけのことだった」
「あんたは、ということだろう。なるほど、納得がいった。おかしいとは思ったのだ。すべてを忘れたいなどと、たとえふざけたにしても、ふつうはそこまで考えないだろう。
過去に、よほどの失敗をしたか、恥を受けたことがあり、それを忘れるためにそんなことを願ったのではないかと考えていたのだが、そうではなかったのだな」
「すまない。子龍、ほんとうにひどい顔色だぞ。気休めにしかならぬかもしれんが、気分が多少まぎれる煎じ薬がある。飲んでみるか」
「気遣いは無用だ。かえってつらい。しかしぶざまなものだな。せっかく忘れたはずなのに、しかし結局、おなじところへ心が戻っているのだから。もしも本当に苦しみから逃れたいのなら……いや、これは愚痴だな。さらにぶざまなところをみせたくない。
なるほど、あんたが俺を故郷に帰したがったのも、やっと理由がわかった。あんたは、俺がまた元に戻ることを、ほぼ確信していたわけだな」
「確信していたわけではないよ。あなたがどれだけ苦しんでいたか、知っていたから、元に戻ってしまうまえに、ちがう道を見つけられるなら、それが一番だろうと思ったのだ。そして、もし道があるとしたら、それは故郷からやり直すべきではないかと」
「つまり、俺はいまもって、あんたに迷惑しかかけない人間なわけだ。それはそうだろうな。俺のほうこそ謝らねばなるまい」
「謝ったりしないでくれないか。悲しくなるじゃないか」
「そうか、そうだな。ところで」
「ところでと言いつつ、わたしの手を取るのは何故だろう。こういうところは、やはり、以前の子龍にはなかったな。人間、過去の鬱積が心からなくなると、こうも屈託なくなるものなのだろうか。
でもって、なんだって人の顔を、そうのぞきこむのだろうか」
「そうとわかれば、むしろ迷いも晴れたというものだ。俺は以前は、だいぶ鬱屈していたようだが、それはあまり健康的な心のありようではない」
「うん、かなり不健康だとも。なんだってそう、手をにぎにぎと握るのかな。でもって、やたらと目を見つめるのをやめないか」
「俺はまちがっていた」
「どこをどのように? おかしいな、子龍、なにか誤解があるように感じるのだが」
「いや、誤解はない。あんたの話を聞いて、俺の心はむしろ晴れた。これからは、前向きになろうと思う。そうだろう」
「賛同を求められても、はいとは言えぬぞ。だいたい、前向きとはいえ、どちらの方面に関して前を向いているのだ。
って、ちょっと。おい、ほんとうに、洒落にならぬぞ、やめよう、な?」
「なぜ」
「なぜって、決まっているだろう。自然の摂理に反することだからだ。理路整然と動き、けっして誤まらない。それが趙子龍だろう」
「路線変更をすることに決めた」
「真顔でなにを言っているのやら。勝手に決めるな。そうだ、いまから飲みに行こう。まだそれほど夜も更けておらぬし」
「そう言って、俺の目をよそに向けさせようとするのも卑怯ではないか。俺があんたの代わりに女を買ったとしても、その女が気の毒だとは思わぬか」
「理論で返された……そうだな。浅墓な提案であった。許せ」
「そういうわけで」
「どういうわけだ! 見た目は同じなのに、中身がまるで別人だぞ! 早急にもとに戻ることを要望する! そうだ、石を……って、あれ? ちょっと。おや? 

うわあ、本気で止めよう! ものすさまじい勢いで鳥肌が立った。じんましんも出た気がする! 

冷静になって考えろ。でもって、よいか、おのれがわたしに、なにをなさんとしているのか、客観的に想像してみるがいい。とんでもなくおぞましい像があたまに浮かばぬか」
「そうおぞましくないように思うが」
「………変だ。感覚が狂っておるぞ。というより、かなり厳しい状況だ。絶対絶命だ。いっそ大声をあげるか? しかしそうなれば、長年築いた友情もこれで終わりだ。とはいえ、このまま友情を越えたどこかにいく予定は、わたしにはない!」

「オ邪魔」

「おお、救い主!」
「ぬかった、扉を閉めていなかったか……!」
「よく来てくれた! いま、仏門に下ってもよいなと本気で思ったぞ!」

「半端ナ信心ハ、ムシロ毒ヨ。兄チャンノ、イビキガウルサクテ、眠レナイノヨ。弟ハ鈍感ダカラ、グウグウ寝テイルケド、ワタシハ繊細ナノデ我慢デキナイ。チョット部屋ヲ借リルネ。ア、ワタシノコトハ気ニセズ、続キヲドウゾ」
「どうぞ、ってな……」

「遠慮シナクテイイヨ。ワタシハ、理解ノアルオ坊サン。ぎゃらりーハ気ニセズ、ハイ、再開」
「そういわれて再開できるものか。気が逸れた。すこし頭を冷してくる」
「ナンダ、ツマンナイ」
「出歯亀かい。子龍、ちゃんと眠るのだぞ」
「…………」






「行ってしまった。怒ったかな。しかし、あれもまちがいなく、子龍の一面なのだろうな。いささか落胆してしまう。どうあれ、もっと理性的な男だと思っていたのに。
それにしても、あれはかなり慣れているな。人の口にのぼる以上に、若い頃はもっと遊んでいたにちがいない。
いま気づいた。帯なんぞ、ほとんど解けかけているではないか、なんという手の速さだ。ああ、恐ろしい。
なんであれ、部屋に来てくれて助かった、礼を言う。ええと……」
「ニキ。ワタシノ名ハ、ニキ」
「ありがとう、ニキ」
「気ニスルコトナイ。ワレワレノ世界デモ、コウシタ問題ハ、ママアルノヨ」
「そうなのか!」
「マアネ。女ノ子ニ手をフレチャダメナラ、男ナライイカト、男ニ走ルぱたーん。
デモ、アンタタチノハ、モウスコシチガウノカナ。大秦国デハ、男同士ノ絆トイウノハ、ムシロ美化サレテイル。
チョット昔ノハナシニナルケレド、すぱるたトイウ国ガアッタ。イマハ大秦国ノ一部にナッテイルケレド。ソコデハ軍ガ、軍人同士デソウイウ絆ヲ結ブコトヲ推奨シタ。
ナゼカトイウト、同ジ戦場ニ恋人ガイルコトデ、イイトコロヲ見セヨウト頑張ルカラ。オカゲデ、すぱるたハ、トッテモ強イ国ダッタ。コレ本当。
ホカニモ、男同士ノ絆ヲ称揚シタ芸術作品ナンカモ、大秦国ニハ、イッパイアルヨ。アンタタチ、チョットソッチニ近イカモ」
「本当か。恐るべし、大秦国。やっぱり行くのはやめておく」
「ヤメルノ、賢明。アンタキット、モテマクル」
「女みたいだからか? 子龍はそうではないと以前に言っていたけれど、いまはどうもわからぬな。落ち込んでしまうよ。好きでこんな姿に生まれてきたわけではないのに」
「見タ目ハ、タシカニ女カシランッテカンジダケド、アンタ、中身ハ、ゼンゼン女ッポクナイ。女ミタイナ男ダカラモテルンジャナクテ、ヤッパリ男ダカラコソ、モテルワケ」
「なにやら複雑であるが、なぐさめてくれているのだな、ありがとう」
「マア、イイッテコトヨ。ゴンタクン、チョット気ノ毒ダネ。アリャ手近ナトコロデ手ヲ打トウッテイウンジャナサソウダケレド、デモ、力ヅクハ、ヨロシクナイ」
「なんだ、鼾がうるさいから避難してきたというのは口実で、やはり助けにきてくれたのだな」
「一応、人助ケハ、僧侶ノ仕事ダシ」
「あらためて礼を言わねばな。わたしにとって、趙子龍という男は、だれより失いたくない人物なのだ。もっと言ってしまえば、おそらく誰よりもわたしが、かれを案じているだろうけれど、かといって、かれが望むとおりにしてしまうと、逆にかれを失う日がくるような気がして、恐ろしいのだ。そう言って、わかるだろうか」
「フーン。ナントナク、ワカル。ナントナク、ダケドネ。アンタノ言イタイノハツマリ、愛欲ハ、競争デモアル。ドウシタッテ、同ジ強サデオ互イヲ思イアウコトハデキナイ。ドコカデ差ガ生ジルモノ。
ソノ差ガスレチガイヲ生ミ、ヤガテ疲レテ、壊レテシマイ、結果トシテ、失ウコトニナルノガ怖イ、ッテコトデショ?」
「そうだな。わたしが求めているのは、どこまでも一緒に歩いてくれる人なのだ。贅沢なのかもしれないけれど、わたしが女であり、命をつなぐ役目を担える者ではない以上、われわれのあいだには、われわれしかない。ひとたび道を外れてしまったら、もう元に戻れないだろう。
わたしが行く道は険しいから、やはり道連れがほしいのだよ。でも、かれが求めているのは、そうではないのだな。
いままで、黙って我慢してくれていたのか。それが記憶をなくすことで、はっきりと表にあらわれたのかもしれない。
してみるに、わたしがかれを常山真定に追いやろうとしたのも、そうなることが怖かったといえないだろうか。ああ、わたしはなんと嫌なやつだろう」

つづく……

実験小説 塔 その26

2019年01月26日 10時17分24秒 | 実験小説 塔


「しかし聞くが、おまえたちは、なにゆえ『かんたーら』に行きたいのだ」
「ソリャ、がんだーらハ、ワレラ仏教徒ノ中心地ダカラヨ。アンタタチモ行ケバ納得、見テビックリ。文化成熟度、メチャクチャ高イ。徳ヲツンダオ坊サン、ウジャウジャ。師匠ニスルニハ、ヨリドリミドリ。
ワレワレハソコデ、サラナル修行ヲツンデ、モットイッパイオ布施ヲモラエルヨウニスルヨ」
「行動力はたいしたものだが、動機がかぎりなく不純だな。そも、おまえたちは、なにゆえ僧侶になったのだ」
「ソリャ、当代一番ノ流行ダモノ。イマ、坊主ガ熱イ」
「父上ノ遺言デモアルシ」
「女ノ子ニモテモテ」
「……しかし僧侶というものは、妻帯は許されていないはずでは」
「ソンナノ、問題ナイヨ。結婚シタクナッタラ、還俗スリャイイジャン? ソレマデハ、くーるナ僧侶として、庶民ドモにアリガタガラレナガラ、働クコトモセズ、オ布施ヲモラッテノンビリ暮ラス。コンナイイ身分、ホカニナイヨ?」
「あきれたものだな。理想はないのか、理想」
「ワタシヨケレバ、スベテヨシ。コレ、理想。問題ナシ」
「なんだか真面目に暮らしている俺たちが、まるで馬鹿のように思えてくる。孔明、こいつら、適当なところで放り出してよいか」
「気持ちはわかるが、涼州を抜けなければ、安心はできぬ」
「ソノトオリヨ、ノッポサン。ワレワレヲ放リ出シタリシタラ、オ役人ニ、蜀ノ人間ガ入リ込ンデマスッテ、タレコミスルヨ」
「ノッポさん? それはわたしの名か」
「ダッテ、本名ヲ口ニシタラマズインデショ? ソッチノ目ツキノ悪イ用心棒ハ、ソウネェ、『ゴンタクン』ッテドウダロ」
「『ノッポサン』ニ『ゴンタクン』、ウン、ソレ、イイ名前」
「決マリ。ソウイウコトデ、ノッポサント、ゴンタクン」
「待て、勝手に決めるな。『ゴン太くん』は却下だ。なぜだかわからぬが、俺の中のなにかが、激しく嫌だと叫んでいる」
「洒落タ言イ回シヲスルモノネ、『ゴンタクン』ノクセニ生意気ダゾ」
「確定するな! ほかに名前を決めてくれ」
「ダメ、『ノッポサン』ノ相棒トイッタラ、『ゴンタクン』ト相場ガ決マッテイル。ゴンタクンニ、拒否権ハナイノダ」
「おまえたちは、本当にどこの出身なのだよ……」
「知ラザァ、言ッテ聞カセヤショウ。ワレラハ、安息国ノ生マレデハアルガ、モトモト、国ヲモタナイ遊牧民。
トハイエ、昔ハ国ガアッタヨウヨ。小サナ国ダッタヨウダケレドネ、ナンダカシラナイケレド、最後ノ王サマノトキニ、漢ヘノ朝貢ヲ断ッテ、戦争ヲハジメタンダッテ。
最初ハ勝ッテイタソウダケレドネ、ナンダカ突然ニ不幸ガツヅイテ、結局、負ケチャッタヨ。伝説ジャ、ナンデモ願イヲカナエル石ヲ手ニシタタメニ、王サマノ心ガ狂ッテシマッタソウダケドネ。
漢トノ戦争ニ負ケテ、ボロボロニナッタトコロヲ、漢ト裏デ結ンダ、他ノ遊牧民ニサラニ攻メラレテ、王国ハオシマイ。
以来、生キ残ッタワレワレハ、国ヲ二度ト作ラズ、放浪ヲツヅケテイルノヨ。
トハイエ、遊牧民ニモイロイロ差ガアッテ、基盤ヲモタナイワレワレハ、ドコヘ行ッテモ厄介者アツカイ。要領ノイイ仲間ハ、トックニ西ノホウニ逃ゲテ、国ヲ作ッタサ。ソレガ、大月氏ノ国。
時流ニスッカリ取リ残サレタワレワレノ生活ハマズシイ。ダカラ、仕方ナク、ワレワレノ父上ハ商人ニ身ヲヤツシタ。王家ノ血ヲ受ケ継ギナガラ、ヒドイ話ダト思ワン?」
「おい」
「ああ、単なる偶然の出会いではなかったか。この者たちが、最初に石を手にした人間の子孫だったのだ」





「漢と戦争をし、敗残した国というのなら、匈奴だろうか」
「いいや、かれらは、われら中華のことを、すべてひとまとめに漢と言っているのだよ。われらの祖先と戦争をし、敗残した国で、その生き残りの一部が大月氏というのならば、かれらの祖先は月氏だ。
わたしが夢で見た塔は、月氏の王国だったのか。ふむ、となると、あの隠し村は、そう極端に西にある、というわけではないのだな。これはよい情報を得た。
しかしおもしろい一致だ。月氏というのは、わが国にはじめて浮屠教をつたえた民族でもある」
「月氏ならば知っているぞ。趙国に何度も攻め入ってきた蛮族だ。しかし、最終的には退けられ、おなじ蛮族である匈奴に、王を討たれて死んだはず。
ああ、そうか、だから『漢と結んでいたほかの遊牧民に攻められた』というわけか。俺の家は、たしか趙国の旧臣の子孫だから、俺の先祖も月氏と戦っただろうな」
「へえ、そうなのか。晴れがましい知識は残っているというのは便利だな。嫌味ではなく、感心したよ。つくづく蛮族と縁があるのだな、子龍」
「うん? どういうことだ」
「公孫瓚のもとで、あなたは白馬義従という集団に属していた。そしてもっぱら戦っていたのは、北にいる白(鮮卑)だった。白(鮮卑)という民族は、月氏にほろぼされた東胡の子孫たちだ。あなたは、そういった者たちと戦っていたのだよ」
「覚えておらぬ」
「それは残念だな。白といえば、戦上手の檀石槐に率いられ、掠奪と殺戮をくりかえし、手が付けられなかった。桓帝、霊帝がそれぞれに兵を起こしたものの、国内で乱が起こっていたこともあり、兵は弱く、ことごとく退けられてしまったのだ。
そうしたところへ、公孫瓚の白馬義従は見事な戦ぶりをみせた。だからこそ、公孫瓚は、天下の雄として、一代で名を築けたのであるが。
まあ、公平にいえば、檀石槐の死後、後継問題などで、白のまとまりが悪くなっていたというのはあるが、それまで辛酸を舐めさせられてきた漢族からすれば、立派な武勲だ」
「そこまで細かく説明されても、どういうふうに公孫瓚のもとで過ごしていたか、思い出せんな」
「それでいいのだよ」
「ゴンタクンッテバ、ヤルジャン」
「それが仏に仕える者の言葉だろうか…」
「誉メタノニ、呆レラレタ。納得イカナイ」
「そうしょげるな。ひとつ聞きたいのだが、もし、もしだぞ。おまえたちの先祖が、石を本当に手にしていたとする。その宝が、目のまえにあらわれたら、おまえたちはどうする」
「「「………………」」」
「おや、どうしたのだろう、三人そろって黙り込んでしまった」
「モシ、ソンナ宝ガアッタラ」
「あったら?」
「ソノ宝ノ存在ヲ知ル者モロトモ、コノ世カラ消ス。ソレガワレワレノ家ニツタエラレテイルコト」
「なんだと?」
「ワレワレ王家ノ末裔ノ宿願ハ、オ家再興デハナク、国ヲ滅ボス原因トナッタ石ヲ見ツケルコトヨ。ダカラ父上モ商人ニナッタ。ワレワレモ意志ヲ継イデ、各地ヲ放浪シナガラ、修行シツツ石ヲサガシテイル。
ノッポサン、悪イ漢族ジャナイヨウダカラ、打チ明ケルケドネ、ワレワレガがんだーらヘ向カウノハ、宝ガがんだーらニアルカモシレナイカラ。
デモ、ドウシテソンナコト聞クノ?」





「僧侶たちはどうした」
「寝入ったようだ。まったく、僧侶というのは、肉食は禁じられているのだが、そのかわりといわんばかりに、野菜をあんなに大量に食べては意味がないではないか。宿屋の主が、あの三人を化け者を見る目で見ていたぞ」
「おかげで、わたしたちが目立たなくてよい」
「あんたは見た目より肝が据わってるな。さて、作戦会議をせねばなるまい。なんだ、その地図。どこからもらってきた」
「うん、さっき市場に行って、隊商から譲ってもらったものだ。これを見て移動したそうだから、まず間違いはないと思うよ。
いま、われらがいる武威は、ここ。そして、僧侶たちがいう『かんたーら』は,
ここ」
「ほとんど地図の端ではないか」
「何十日どころか、何年もかかるな。砂漠の道に慣れていない者が向かうには、遠すぎると、隊商の者にいわれた」
「やはり、あいつらとは途中で別れるべきだな。俺たちが『かんたーら』に向かわねばならぬ理由はないのだし」
「おや、言い切るのだな。塔が『かんたーら』にある可能性とてあるわけだぞ」
「そうだろうか。いろいろと思い出していたのだが、月氏が趙国と戦っていたころ、本拠地にしていたのは、この涼州を含めた、漢に近い場所だ。
月氏の領土がどれだけのものであったかはわからぬが、塔が月氏のものだとすると、『かんたーら』ほど遠くにあるとは思えない」
「ふむ、となると、すこしは見通しがたつな。わたしが夢で見た塔は、そう西ではない。おそらくは敦煌までは行かなくてよいと」
「おそらく」
「かれらが夢で見た国の王家の末裔であるなら、隠し村の所在を知らないだろうか」
「知っていても、どうやって聞き出すのだ。あの口調では、あいつらは、石による災厄への恨みを強くもっている。あんたが石をすべて持っていると知ったなら、下手をすると襲ってくるかもしれないぞ」
「そうだろうか。僧としては滅茶苦茶だが、さほどわるい連中ではないようなのに」
「気持ちはわかるが、ここでの情けは不要だ。冷たいかもしれんが、僧侶とはいえ、漢によい感情を抱いていない蛮族なのだ。いまはうまくやっていても、ひとつのきっかけでがらりと変わる」
「おや、それは経験からの言葉なのかな。白馬義従には、白(鮮卑)と対立する蛮族の若者も多くいたと聞いたが」
「もしかしたら、そうなのかもしれん。思い出せないんだ。すまないな」
「謝ることはないだろう」
「いや、記憶があったなら、もっとあんたの助けになっただろうと思うと、歯がゆい」
「記憶がなくても、子龍は子龍だな。あなたがいてくれるだけで十分に心強いのだから、謝ったりしなくていいのに」
「そうか」
「うん。あの僧侶たちとは、なるべく何事もなかったように、別れたいものだな。情が移ったというわけではないが、わたしも旧い家の人間として生まれたから、家訓の重みはよくわかる。
……なんだ、わたしの顔になにがついている」
「いや。そういえば、俺は、自分のことばかり知りたがって、あんたの経歴の細かい部分をよく聞いていなかったなと」
「知ったところで、面白くないぞ」
「昔は知っていたのだろう。なら、これからも知っておきたいではないか」
「わたしは琅邪の出身で諸葛家の次男坊として生まれた。はい、それでおしまいだ。くわしい話は、成都に帰って、弟にでも聞いてくれ。わたしのことはともかく、あなたのことは、弟は評価していたから」
「あの僧侶たちとちがって、兄弟仲がよくないのだな」
「いろいろあってね。と、先に言っておくが、その『いろいろ』は、前のあなたにも教えていないからな」
「要するに言いたくないのだろう。ならばかまわぬが」
「が? なんだってそんなため息をつくのだ」
「あんたにとっての俺は、やはり石を使う前の俺なのだな。とすると、いま、目のまえにいる俺は、あんたにとってなんだ?」
「妙なことを言い出すものだ。どちらも趙子龍、あなただよ。
疲れているのではないか。目の下にひどいくまが出来ているよ。あの坊主どもときたら、まるで容赦がないからな。わたしが金を出すから、驢馬なり馬なり雇うべきだ。
さて、明日も早いだろうし、そろそろ眠ろうか」
「そうだな。しかし」
「なんだ」
「ごたごたしていたから、なんだかうやむやになったが、はっきりさせておきたい」
「なにをだ……と、言いつつも、なんとなく予想がついてしまう、おのれの勘の良さがうらめしい。
子龍、明日にしないか、明日。疲れているだろう」
「いいや、なんとも、もやもやしていて気が晴れぬゆえ、頭が冴えて仕方ない。ずばり尋ねる。あんたは、本当に俺のなんだ? 俺の覚えているかぎりの範囲では、こんなふうに一挙手一投足のすべてが、いちいち気になってならぬ人間なんぞ、存在しなかった。ところがあんたは、俺の五感のすべてを拘束するわけだ」
「なんたる直言。もしかしたら喜ぶべきかもしれないが、いまはむしろ怖い。それは悪かった。うん、すまん。反省するから、また明日。眠くてもうなにも聞こえない。さあて、おやすみ」
「待て。このまま寝たら」
「寝たら、なんだろう」
「羌族の集落でのつづきに入るぞ」
「ぱっちり目が覚めた。話し合おう」
「よし。では、俺がここまで正直に打ち明けたのだ。あんたのほうも、俺の質問に真摯に答えるべきだと思うが、どうだ」
「子龍、うやむやにしようという意図はないけれど、あなたの苦しみの一因は、やはりほかならぬあなたの性格にあるな。武将のわりに、論理的にすぎるのだよ」
「俺は働きのよい武将だったか」
「それはまちがいない」
「そのわりに、あまり高位についていないな。位が高ければ、こうして本拠地を離れて、のん気に旅なんぞできまい」
「なんと言ったらよいのだろう。ほかの武将というものは、太鼓を鳴らして、それいけ、やれいけと兵卒をけしかけ、手ごわそうな敵をみつけたら、だれよりも先に駆けていって、その首級をとろうとする」
「うむ」
「ところがあなたという人は、兵卒をけしかけるにしてもなんにしても、まず全体がどういう流れになっているか、そしてどうしたら兵卒をうまくまとめて全体の流れに沿うかを考え、それからようやく、自分の為すべき事を決めるのだ。
だから、ほかの武将よりも目立たないが、しかしあなたは常に生き残る。しかも無傷でだ。
華々しい手柄話から遠いために、あなたの存在はつい忘れられがちであるが、しかし兵卒からすれば、こんなにありがたい武人はいない。そのいうとおりにしていれば、生きて還れる可能性が高いのだからな。
ある意味、あなたは徹底した武人なのだ。欲に惑わされず、高い位を求めない。そして、その行為があまりに自然であるために、人の評価からもれてしまいがちなのだ。
だから、あなたは、わたしからすれば、もうすこし評価が上でもよいと思う。と同時に、こうも思う。世に名を売りたい者は、やはり派手な者と組みたがる。いや、利用したがると端的に言ったほうがよいだろう。
だから、あなたは政治的にも表に出る機会がない」
「それが、以前の俺か」
「悪いことではない。むしろ貴重だ。わたしは、いずれは武人というものは、突出した手柄を立てて綺羅星のように目立つ存在であることよりも、あなたのように、作戦を熟知し、そのうえで臨機応変にうごき、味方を多く生きて帰すことができる者こそが最高と評されるようになるだろう。
けれど、そのことを予期している者は少ないのだよ」
「つまり」
「そのことを理解しているものは、残念ながらすくない。おそらく成都では、わたしだけであろう。つまり、あなたは、わたしのそばでないと、正しく使われることのない人材だ。あなたもそれをわかっていた。
だから、わたしたちは常に共にあった。いや、あまりに世に理解されなかろうという思いが強すぎたのかもしれない。わたしは世間知らずで、あなたのほうも、経験こそ多いが、それが血肉になっているとは言い難かった。
わたしたちは、互いしか見ていなかったのだ。あなたがわたしを唯一のよすがとしたからこそ、それが昂じて、苦しんだ。それが答えだ」

つづく……

我が家でもインフルが大流行! みなさま、ご自愛くださいねー!

実験小説 塔 その25

2019年01月23日 08時04分03秒 | 実験小説 塔


「迂闊にもわれらが成都から来た人間であることを漏らしたのは、かれらが指摘するとおり、無知と傲慢があったからではないのかな。
つまり、われらの会話すら、かれらには理解できないであろう、という」
「真面目なやつだな。それがどうして洗濯物を盗むという暴挙に出たのかわからぬが、ともかく、危機は危機だ。どうする」
「どうするもこうするも、かれらがわれらを成都の人間だと知った以上は、沈黙を買うために、かれらの要望どおりにするしかあるまい。
もちろん、かれらの目的地まで正直に付いていくことはないのさ。われらとて西に向かう。むしろ、かれらは、われらのためのよき道案内になってくれるのではないか」
「ナニ、ヒソヒソヤッテルノ。ナンカ怪シイ」
「気にするな。ちょっとした打ち合わせだ。わたしたちも西に行くわけであるし、おまえたちに同行するのもよいかと思う」
「アッソ。ソウイウコトナラ、イイケド」
「まず先に確認しておきたいのであるが、おまえたちは、西のどこへ向かおうとしているのだ」
「行ッタコトハナイトコロナンダケレド、ドウシテモ行キタイトコロガアル。コノママ東ニ進ンデ漢族ニ教エヲ説イテモ、ドーセ、先人ノヨウニ、チョット新シイモノガ好キナ金持チニ、チヤホヤサレルダケニナルダロウ、ッテ気ガスルンダヨネー。
ナンテイウカ、ワレワレガ来タノハ、時期尚早ダッタ、ッテ感ジ?」
「ワレワレ常ニ時代ノ先駆者。早スギテ、ダレモツイテコラレナイ。悲劇ヨネー」
「なんだか幸せな連中だな。しかし、行ったことはないが、どうしても行きたいところとは、どこだ」
「ソコニ行ケバ ドンナ夢モ カナウトイウヨ」
「誰モミナ 行キタガルガ 遥カニトオイ」
「その国の名は?」
「がんだーら」
「何処カニアル ユートピア」
「ゆ、ゆうと、は? なんだ? ※ユートピアはトマス・モアの著書から生まれた言葉です」
「ドウシタラ 行ケルノダロウ 教エテホシイ」
「知らぬ」
「♪がんだーら がんだーら♪」
「唄いだした…」
「唄いたくなるほどに行きたい土地なのか。いささか興味があるが、だいたいどのあたりかもわからぬのか」
「They say it was in India」
「すまん、われらにわかる言葉で話してくれ」
「大月氏ノ国アタリカナ」
「は? あんたわかるか? どのあたりだ?」
「安息国の手前だな。行っていけないことはないが、どれだけの日数がかかるのか、想像もつかぬ」
「ワタシヲがんだーらニ連レテッテ」
「どうする」
「悩むまでもない……途中までは同行し、折りを見て、別れることにしよう。玉門関を越えてしばらくしたら、われらも魏の人間の影に怯える必要もなくなるからな」





「俺は驢馬か? 驢馬なのか? 用心棒といえば聞こえがいいが、要するに人足がほしかったのだろうが、これは」
「子龍、ひとつ持つか」
「あんたがこれを持ったら、すぐにへばる。この荷物に加えて、あんたまで担いでこの悪路を歩く自信はない」
「おや、信用のないことだ。わたしはこれでもなかなか力があ」
「ないね」
「みなまで言わせぬとは」
「すこし触れただけでわかる。あんたの肉は、あきれるほどに薄っぺらい。あの三人の怪しい坊主どももたしかに痩せているが、痩せてはいても、あんたとは内容のちがう痩せ方だ。鍛えているのは咽喉ばかりではないだろう」
「なるほど、走って逃げても追いつかれた可能性がある、と。しかし『かんたーら』とかなんとかいう国は遠すぎる」
「かんたーら? そんな発音だったかな」
「聞き取れなかった。あの僧侶たちの言葉は耳になじみがないゆえ、再現がむつかしい。ゆえに、『かんたーら』でよし」
「『かんたーら(仮)』は気を悪くしないだろうか」
「なぜ『かんたーら(仮)』に気を遣う必要がある。安心するがいい。『かんたーら』は寛大だ。仮の字をとっても、ムッとするまい」
「なぜわかる」
「どんな夢もかなえる太っ腹な国だ。石なんてちまちましたものではなく、国がどんな夢をかなえるというのだから、たいしたものではないか。ま、実在するのであればな」
「なんだ、信じていないのだな」
「当然だ。人というものの欲望には際限がないものだ。たとえどんなに奇跡がくりかえされて、ひとつの王のもと、理想的な国家が出来上がったとしても、そのままの状態を維持することはできまいよ。
まして理想的な国家とやらは、まちがいなく他国よりすぐれているという自負がつよいわけだから、そこが高じれば、やがてはおのれより優れていないとみられる者たちに対し、押し付けがましい理想を掲げて、容赦なく侵略をはじめていくだろう。それが常なのだ。いかに立派な王が始祖でも、代をかさねれば、やがてはおなじところへ行き着く。
安息国よりさらに西にある大秦国というのは、文化もたいへんにすぐれた国だというが、やはりとても好戦的な国だそうだ。だが、『かんたーら』なる名ではなかったはずだよ」
「大秦国か。どのような国なのか、想像もつかぬ。行ってみたいと思うか」
「思うけれど、しかし、わたしはいつまでも風来坊でいることを許されてはおらぬ。ああ、こういうところに人生のむずかしさがあると思わないか。そこに至る道はいま目のまえにあるのに、わたしは先へ進むことが許されないのだよ」
「俺なら行けるな」
「その気になればな」
「どうだ、あんたが行きたくても行けないというのなら、俺が行って来てやろうか。それで、どんなところか、あんたに教えてやるというのはどうだ」
「簡単に言うな。何十年とかかるかもしれないのに。それに成都に帰ると言っておきながら、前言をあっさりと翻すな」
「となると、やはり俺はあんたと一緒に成都に帰ってよいわけか。混乱のどさくさに、とっさに言ったことだと言われたら、どうしようかと思っていた」
「なんだ、わたしを試したのだな」
「チョイトー、アンタタチ、遅レテイルヨ。ぺらぺらトシャベッテナイデ、早ク来イッテノー」



「武帝の威光がこの辺境にもとどいたことを記念して、街の名を『武威』とした。このあたりは、まだ漢族の数も多い。
しかし、埃っぽいところだな。気のせいだろうか、町の雰囲気も、荒んでいるように見える」
「マメ知識イラナイ。知ッテルモン。がいどサンハ、ケッコーデス。がいど料ヲ取ロウッテ魂胆デショ。漢族ハ、ガメツイカラネ」
「ウッカリ、財布モトリダセヤシナイ」
「どうもおまえたちがいままで知り合ってきた漢族は、ろくでもないものが多いようだな。わたしはそのような愚かな真似はせぬから安心するがいい」
「ッテ、ミンナソウイウンダヨネ。騙サレナイヨーダ。アナタニトッテワタシ、タダノ通リスガリ」
「チョット振リムイテミタダケノ異邦人。ダカラ騙シテモ、足ガツカナイトカ思ッテナイ?」
「思ってない。まったく、最初の印象がわるいから、すっかり盗人扱いだな。たしかにわたしが悪かったから、抗弁はせぬよ」
「潔イノハ、イイコトヨ。チョットダケ、誉メテツカワス。アリガタガレ」
「はいはい、ありがたい、ありがたい。で、これからどういう順路をとおって、『かんたーら』とやらに向かうのだ?」
「道ノトオリニ行クノガ一番。張掖、酒泉、敦煌、玉門関、楼蘭」
「そこまでは知っている」
「みーらん、しゃるしゃん、にや、うてん、チョット省略シテ、最終的ニがんだーら」
「耳になじみのない名前ばかりだな。あんたはどこまでわかる?」
「ああ、そうか、かの張騫のまわった道を、逆まわりにたどることになるわけだよ。張騫は玉門関から北ヘ向かい、天山山脈を北に見ながら、大宛、ついで大月氏のところまで行ったのだが、かんたーらまでは足を運ばなかった。そのまま貴山城からくるりとまわって、漢に向けて、こんどは崑崙山脈を南に見ながら帰ってきたのだ。
つまり、われわれは、その逆。崑崙山脈を南にみつつ、西へ向かうというわけだよ」
「ソノトオリ。ヨクデキマシタ。デモ、発音ガヨロシクナイネ。『がんだーら』。ハイ、言ッテミ?」
「かんたーら」
「ヘタクソ」
「放っておけ。ふむ、なんとも妙な道連れができたわけだが、張騫の足跡をたどれると思うと、わくわくしてこないか、子龍」
「そうか? 俺はいまさらながら、西域都護府に送られた兵卒の気持ちを噛みしめているところだ。なんとなく感覚がつかめていなかったが、具体的に地名が出てくると、やはりとんでもなく遠いとわかってきて、気が滅入る」
「あなたは、なんだかんだと、自分の国が好きなのだね。はなれてみて、自分が故郷をどう思っているのか、わかるというのは面白い」
「あんたは心細くないのか」
「べつに。だって、わたしの命はあなたに預けているのだし、わたしにとっての耳目はあなたなのだから、これがひとり旅だというのならまだしも、二人でいるのだから、まったく心細くなどないよ」
「俺は思うのだが、あんたもたいがい、ひとたらしだぞ」

つづく……
なんだか変な話になっていますが、まだまだつづきます。

実験小説 塔 その24

2019年01月19日 10時55分41秒 | 実験小説 塔
「莫迦だろう」
「なんとでも言うがよい。甘んじて受け入れよう」
「ああ、ぜひにそうしてくれ。おまえが衣を奪って…いや、そこまではよい。裸では外に出られないからな。あくまで衣は借りたものだと主張すればよかったのだ。問題はそのあと。なぜに堂々と正門から出るなどという真似をした」
「盗みをしたわけではないからだ。返すつもりだった」
「孔明、あんた、軍師将軍を拝領していると言ったな」
「言ったとも」
「では、賞罰を決めることは」
「ない。が、以前にいた荊州では賞罰も下していた。なにが言いたいのかわかってきたぞ。つまり、わたしのような人間が裁きの場に引き出されてきたら、わたし自身はどう思うかといいたいのだろう」
「正解だ。どう思う」
「…………」
「その顔がすべてを物語っているな」
「さいわいにも、この衣の持ち主は、浮屠教の僧侶であったようだ。連中は殺生を好まぬはず。揉め事が大きくならぬうちに、素直に頭を下げて、必要ならば、衣の金を払うべきだ」
「浮屠教の僧侶だと、よくわかるな」
「見てすぐわかるだろう」
「いや、そうではなくて、浮屠教というものを知っている、ということにおどろいているのだ。これは王侯貴族のあいだで趣味のように流行った宗教だ。五斗米道とも黄巾党ともちがう。
わたしは知識としてしか知らぬのだが、あなたは以前に洛陽の寺に出かけたことがあるのか」
「あるのかもな。記憶がどうも混乱しているのだが、知識だけは自然と口に出てくる」
「ふうん? あなたが公孫瓚のもとを去って、主公にお仕えするまでの空白の数年間の記憶かな。浮屠教は殺生をせぬのか」
「捨身という思想があったはずだ。おのれを殺し、他者を生かす。ええと、どのような話であったかな。
たしか修行中の僧侶が、森に入って、食べ物を恵んでほしいといった。猿や犬などは食べ物を用意できたのだが、うさぎだけは、いつも草を食べている動物であるから、僧侶に渡す食べ物がない。そこで、僧侶に、火を焚いてほしいとたのんで、みずからの身を炎に投じたのだ」
「なんと。うさぎ……いい動物だな。いつも狩ってはふつうに食べていたが、認識をあらためたぞ。しかし、その話、まさか僧侶がその肉をありがたく食べて、元気になりました、という終わり方ではあるまいな。わたしであったなら、そのような肉を食べたりはできぬ」
「もしあんたの目のまえで、うさぎが投身自殺したらどうする」
「うさぎが死ぬ前に火を消すさ。うさぎが火を焚いてくれといいだした時点で、なにやらおかしい成り行きだと気づかねば、智者とはいえまい。その僧侶、よほど腹が減っていたのか、注意力が足りぬぞ」
「つづきが話しづらくなってきたのだが」
「話してみろ」
「では話すが、炎に包まれたうさぎであるが、炎は熱くならなかった。じつは、その僧とは神の化身で、動物たちの信心を試したものであったのだ。神はうさぎの心に感心し、その姿を月に刻みつけた」
「月には不老不死の樹が生えていて、蝦蟇がいるのだ。うさぎではない」
「浮屠教ではうさぎなのだ。つまり、浮屠教というのは、このうさぎのような心のありようを『捨身』といって、理想としている宗教なのだ」
「なるほど。では、いま目のまえにいる三人の僧侶も、いつでも人のために命を捧げる覚悟であるほどの者たちであろうから、必死で謝ればなんとなるだろうと、あなたは言いたいのだな」
「飲み込みが早くてたすかる。いいか、こいつらが盗人が出たと警吏のもとに走ったら、事態はややこしいことになるのは想像つくだろう。早いところ謝ってしまえ」
「たしかにそうだな。しかし、言葉は通じるのだろうか」
「通ジルヨ」





「アンタタチ、サッキカラ黙ッテ聞イテリャ、勝手ナコトバッカリヌカシヤガッテ、泥棒ハ泥棒デショ。コッチハテキパキ訴エルヨ」
「なんだか片言のような、ぺらぺらのような」
「ソノマエニ、ゴメンナサイデショー? ナンダロ、最近ノ若イ者ハ、躾ガナッテナイヨネ」
「ヤッパ、乱世セイジャナイノ?」
「時代ノセイニスルノハ、責任転嫁ッテモノダヨ。コリャ、個人ノ資質ノ問題。コイツラ、特別ニ図々シイノヨ」
「それはすまなかったな。たしかに人のものに黙って手をつけたのは悪かった。このとおり、潔く頭をさげようぞ。しかし、聞いてはくれぬか。こうなったのも、いろいろと事情があってだな」
「ナンダカ誠意ガ感ジラレナイ。言イ訳ハジメタシ」
「盗人タケダケシイネ」
「なんだか悪い言葉を覚えているようだな。ずいぶんとわれらの言葉に堪能なようだが、どこで覚えたのだ」
「太守ノトコ。ワレワレハ食客トシテモテナサレテイタヨ」
「なんと。もしや、この建物は、太守の屋敷なのか?」
「そのわりには、ずいぶんと人の気配がないが」
「太守ノ屋敷ナワケナイジャン? ココハ我々が間借シテイル、オ金持チノ別荘ダヨ。デモ、住ンデイルノハ、我ラ三兄弟ダケ。寂シイモンヨ」
「アリガタイオ話ヲシテヤッテルンダカラ、モウチョット歓迎シテクレテモ、イイト思ウヨネ」
「ダメ、コノ町ノ漢族、『ノリ』ガ悪スギ。説法聞イテモ、マルデ反応ナシ。マサニ馬ノ耳ニ念仏状態。コッチハガックリ。悪循環ネ」
「浮屠教の布教に来たわけか。隴西に、洛陽のような立派な寺を建てる目的だったのか?」
「ッテイウカ、オ布施ガ集ラナイト、コッチハ死活問題ダシ。ワレワレダッテ、人間ジャン? 食ベナキャ声ニ力ガハイラナイカラ、アリガタイオ話モ、イマイチニナッチャウワケ。ソレッテ意味ナイジャン?」
「なんとなく、この三人が珍重されない理由がわかった気がするな。それに、なんとも得体の知れぬ風体をしていることよ。いったいどこの国の生まれだ」
「安息国ノ男ヲ父ニ持チ、天山ノ麓ニテ暮ラス牛飼イノ娘ヲ母ニ持ツ、ワレラ生粋ノ西ノ人」
「要するに、ごちゃまぜというわけだな」
「ゴチャマゼハ、失礼。コレダカラ漢族ハ、イバリンボ。セメテ、国際交流ノ結実ト」
「『国際』ってなんだ」
「よくわからぬが、われらとちがう世界観を持っているらしいな。では、国際交流とやらの結実たる三人組、漢族を代表して言わせてもらうが、そなたたちのように『ありがたい話をしてやっている』という態度では、だれも耳を貸すまい。とくに、われらは、他民族より図抜けて誇り高いのだからな」
「低姿勢デ行ケッテカ」
「言イ訳ノツギハ、説教トキタモンダ」
「盗人ノクセシテ、高飛車ナ態度ハ、如何ナモノカト」
「う。見かけによらず弁の立つ。そう畳み掛けるようにいわなくても良かろう。すまぬ、こちらの立場をよくわかっていなかったようだ。この衣は、もちろん返すが、しばし貸してくれぬだろうか。
金はあるのだ。いますぐ市場に行って、自分たちの衣を買って、それに着替えたら、ちゃんと洗濯して返す」
「金」
「金ガアルンダ」
「おい、迂闊に金のことをいうな。なんだかこいつら、目の色が変わってきたぞ」
「うむ、失敗したかもな。子龍、どう見ても、こやつら、金持ちの屋敷にいるというわりには、三人揃って栄養失調で痩せすぎだ。われらが全力で逃げたら、追いかけてこられないのではないだろうか」
「うん、あんたのとろい足でも、逃げ切れるかもしれないな」
「とろいは余計。さあて、話がまとまったところで、逃げるとするか」
「ダメ。逃ゲタラ、三人デ大騒ギスルヨ。アンタタチ、警吏カラ逃ゲテイルンジャナイノ?」
「ワレワレ、読経デ、ノドハ鍛エテイルカラ、大声ダセルンダヨ」
「ツマリ、逃ゲラレナイッテコト」
「……さきほどとは、あきらかに目つきが変わってきたな。そなたら、本当に僧侶なのか? なにが目的だ。言ってみるがいい」
「ワレワレヲ西ニ連レテイケ」

「最近は、どいつもこいつも、西へ向かうのが流行っているのかね。というより、もしや、こやつらも石を」
「待て、軽々しく例のもののことを言葉に出すな。どうも油断ならぬ」
「いささか人間不信に陥っていないか、子龍。まあ、気持ちはわかるがね」
「イイジャン、チョット足ヲ伸バシテ西ヘ行ククライ。コノトコロ、イロイロト物騒ダカラ、三人ダケノ旅ハ、チト心モトナイ。用心棒ガホシカッタトコロ」
「と、いいつつ三人の視線は、あなたに集中しているようだ。どうする、子龍、ここで分かれて、あなたは西へ行き、わたしは塔へ向かう、という方法もあるのだが」
「また同じ話を蒸し返す。言っただろう。行きはよくても、帰りはどうする。だいたい、成都を出るときにもらった日数はたった二ヶ月。ひとりでどこにあるかわからぬ塔をさがしあて、そのうえで成都にまっすぐ帰るなどということが、可能だと思うのか」
「行きで道をおぼえておけば、帰りは、来た道をたどるだけだろう。それに、そのころになれば、いい具合に薄汚れているだろうから、盗賊とて、わたしのようなものを狙うために、わざわざあらわれまい」
「甘い。あんたには、いろんな意味で、ひとに期待を抱かせるなにかがある。それはよい物も惹きつけるかもしれないが、同時に悪いものも惹きつけるのだ。その最たるものが、あんたの懐にある、例のものだろう」
「そういわれると、たしかにそうだが」
「というわけで、そこの坊主、衣の金は払う。しかし用心棒はよそで見つけてくれ」
「イマ、トンガリ目ノホウ、成都ッテ言ッタヨ」
「ウン、成都ッテ言ッタ。コノ、『ヒョロ長』ト『トンガリ目』、蜀ノ人間ダヨ。ツマリ、コイツラ敵地ニイルッテワケ。ダカラ警吏ヲイヤガッテルンダ。ワレワレガヨソモンダト思ッテ、油断シテンジャン?」
「ヨソモノダカラコソ、情報ニハ敏感ダッテノニ、ワカッテナイネ。コレダカラ田舎者ハ」
「む。われらは田舎者などではない。成都は確かに険阻な山に囲まれた土地であるから、そこの出ならばそういわれても仕方ないが、わたしは徐州の古都である琅邪の出であるし、子龍は冀州は常山真定の趙家の出で」
「ホラ、ヤッパリ田舎者。ワレワレカラ見タラ、成都ノホウガ、徐州ヤ冀州ヨリ、交易モ盛ンデ、国際的ナ都会ヨ。自分タチノ中心地ガ、ヨソノ国カラ見テモ、進ンダ土地ダナンテノハ、チト思イ上ガリ。シカモ、ココ何十年カノ戦争デ、アンタタチノ国ハ荒レ放題デ、マスマス衰エ気味ジャナイノサ。最近、チョイトバカリ、マシニナッテキタケドネ」
「西ニハ魑魅魍魎カ、匈奴シカイナイトカ思ッテンナラ、正直、ハズカシーヨ。西ッテ一口ニ言ッタッテ、アンタタチガ想像スル以上ニ、メチャクチャ広インダカラネ。人モイッパイイルシ、アンタタチヨリ賢イ人間ダッテ、ワンサカイルヨ」
「漢族ニハ、オ役人ニモ、タマニソウイウ勘違イガイルカラネ」
「半端ナ知識ガアルガユエノ、思考ノ硬直ッテヤツダネ」
「いささかカチンとくるものの、面白い視点だな。勉強になる」
「感心している場合か。こいつら、さりげなく俺たちを脅しているんだぞ」

つづく……

実験小説 塔 その23

2019年01月16日 10時16分37秒 | 実験小説 塔



「どうも集落中の人間の、俺を見る目が痛いのだが、やはり夕べのことが原因だろうか。もしかしたら、集落でいちばんの美女を、ああやって恩人に捧げるのが、ここの風習だったのかもしれぬ」
「羌族にそんな風習はないよ。あれは、おそらくは神威将軍の作戦のひとつだったのではないかと思う」
「なぜ言い切れる」
「わたしのところには、誰も来なかったからさ。女を使ってあなたを足止めし、そのあいだに、わたしの石を奪うつもりだったかもしれないぞ」
「それは気の回しすぎではないか。単に、あんたのほうに行く女が、あんたのその煌びやかにすぎる姿に気後れして、なかなか部屋に行けないでいるうちに、先に俺が転がり込んだだけかもしれない」
「この子龍らしからぬ豊かな想像力と、繊細にすぎる気遣い。やはり本物ではないのだろうか。しかし、つねったら温かかったし」
「なにをぶつぶつ言っている」
「いいや、なんでもない。これ以上、足止めをくらっていたら、ちっとも先に進まない。向こうがなにか言い出すまえに、引き止められてもかまわぬから、さっさとここを出よう」
「馬をもらえるものならば、もらっておきたいな」
「よせ、下手に贈り物を受け取らないほうがいい。それを理由に、また付きまとわれたら迷惑だ。食糧と水だけはありがたくもらっておくとして、さあ、出立しよう」






「意外にあっさりと出ることができたな。あの集落は、あんたの言うところの石の産地ではなかったか」
「そのようだが、しかし忘れてはいけないよ。わたしの石のことを知っているのは、あの集落の人間ではなく、神威将軍のほうだったのだろう。かれらにしてみれば、むしろわたしたちを追い払えてほっとしているかもしれない」
「そういえば、神威将軍はどこへ行ったかな」
「………探すまでもない。目の前にいるよ」





「まったく、やはり腹に一物のある男だったか。あいつの横にいる女武者、夕べ、俺の部屋にしのんできた女だぞ」
「なるほど、色ではだめであったから、強行手段に出た、ということか。
おおい、神威将軍、われらはもう先に進む。貴殿らのお供は必要なのだがな」
「先に進んでどうする。おまえたちはどこへ向かおうとしているのだ」
「聞いたところで、貴殿にはなんの関わりもない」
「いいや、ある。夢が儂に教えてくれたのだ。伝説の石を持つ者が、じきにこの街道を通過するだろうと。夢はあんたの姿も教えてくれた。
あんたは石を持っているはずだ。それも五つも。その石を寄越せ。漢族のものではないはずだ」
「羌族のものでもないぞ」
「すさまじく浮気性な石だな」
「まったくだ。だれかれ誘惑せずにおかないらしい」
「囲まれたな。数は……多いな。百はいる。こちらは武器は俺の剣だけ。どうする」
「どうするもこうするも、突破するしかあるまいが、しかしこれでは策のとりようもないな。すまない」
「なぜ謝る」
「あなたひとりであれば、あるいは脱け出すことが可能かもしれない。それに、あなたは本来ならば、すでに東へ向かっていたかもしれないからだ」
「どちらも『かもしれない』話だろう。べつに俺は気にしてないがね」
「付き合いのいいことだ。変わり者」
「なんとでも。さて、どうするか。自称・神威将軍とやらを最初に叩いて、残りの雑魚を片付ける、あるいはこの輪のなかで、もっとも弱そうな連中を狙って、馬を奪って逃走」
「子龍、正直に打ち明けるが、どちらにしても、わたしはあなたの足を引っ張ってしまいそうなのだが」
「なら、あんたがほかの連中に危害をくわえられないように、ともかく襲ってくる連中の片っ端から叩いていくしかないな」
「ひどいものだ。作戦ではないぞ」
「では、ほかに方法があるか」
「思いつかない。なにせ夕べはろくに寝つけなかったからな」
「俺はあんな騒動のあとでも、熟睡できたようだ」
「そうだろうよ。最後の手段は、石を使うことだが……さて、どうしたものか。それとも奇跡を待つか」
「奇跡なんぞ、当てになるものか」
「なにをごちゃごちゃぬかしておるか! 石を儂に寄越せ。おとなしく石を寄越しさえすれば、おまえたちの命は助けてやろう」
「慈悲深いお言葉、涙が出てくるよ。とはいえ、残念ながら神威将軍、わたしには、おまえのような男が、石の秘密をしるわれらを、無事に帰してくれるとはおもえないのだがね」
「ふん、妙に知恵ばかりがまわる漢族めが、すぐに命を奪われなかっただけでもありがたく思うがいい。
では、こう言い換えてやろう。おまえたちが大人しく石をよこすのであれば、おまえたちを楽に死なせてやろう。どうだ」
「そんなことばで、わあ、うれしいなとでも言うと思ったか。ひとつ聞きたい。おまえは夢を見るまえに、石のことを知っていたのか?」
「子どものころに聞いたおとぎ話だ。西のちいさな王国で、ふしぎな五つの石がみつかった。石はなんでも願いをかなえるが、しかし代償を払わねばならない。
ある王が石を手に、漢へ攻め入ったが、途中で慢心したために神の怒りに触れた。そのために、石は王から離れて、王国は反撃をはじめた漢軍によって滅ぼされた。それと同時に、石は漢に奪われ、以来、行方が知れぬという」
「歴史が正しく伝わっておらぬようだな。たしかにわたしは石を持っている。だが、この石は恐ろしいものだ。たしかに願いをかなえるが、石は使用者にかならず代償を求めるのだ。その代償がどんなものかは、だれにもわからない。
王国が滅んだのは、王が慢心したからではなく、それが石がもとめた代償だったからだ。おまえが石になにを願うつもりかはしらぬが、どちらにしろ、おまえは身を滅ぼすであろうよ。それでも石を求めるか」
「おまえのいまの話が、作り話ではないと言いきれるか」
「言い切れるとも。わたしはこれまで、石を使ったばかりに、悲劇に巻き込まれた者を見てきた。おまえとちがって、夢で、王国が滅びたその悲惨な光景もしっかりと見た。だから言うのだ。
漢族がどうとか、羌族がどうとか、そんな区切りの話ではない。だれの上にも、この石は悲劇をもたらすのだぞ」
「使ってみなければわかるまい」
「……いっそ渡して、実際に悲劇を体感してもらうというのも手かもしれんな」
「莫迦、あいつが『すべての漢を滅ぼせ』などと願ったらどうする」
「やはり、なんとしても石を死守せねばならぬか……ん?」
「なんだ? 地鳴り?」
「地平を見よ、軍だ! 魏の軍が攻めてきたのだ! おい、神威将軍、おまえに向けられた軍だぞ、逃げろ!」
「あれしきの軍勢に背を向けられるか! さあ、早く石をよこすのだ!」





「まさに前門の虎、後門の狼といったところだな」
「気のせいか、あんたの言動は、いつもどこか余裕があるような」
「まったく気のせいだ。さあて、どちらに逃げてもあとがない。となると、最後の手段を使うしかなくなるわけだが」
「使ったら反動がくるぞ」
「分かっている。しかし、ここで使わずに、なにも為せぬまま死ぬよりはよかろう。いっそ、思い切りだいそれた願いをかけてみたいものだが」
「願いが大きければ大きいほど、反動も強くなるのだろう。自棄になるな。最後のぎりぎりの瞬間まで、石を使うんじゃない」
「冷静な意見をありがとう。けれど、すでにぎりぎりの状態なのではないかね。神威将軍が襲ってきたぞ!」
「俺から片時も離れるなよ。手の届く範囲にいろ。もしこれが俺に対する反動だったとしても、あんたは石を持っている限りは守られている。気を強く持っていろ。よいな!」
「よいなと言われて、はいと素直にうなずけると思うか。おのれを盾にして、死ぬつもりではなかろうな」
「俺はもうやり直しもむずかしい中年だ。それなのに、積み重ねてきた過去がすべて消えてしまっている。このような空虚な人間が、ほんとうに果たして生きているといえるのだろうか。
どうして俺が記憶をうしなったのか、いったい石になんと願いをかけたのか、それはわからんが、結局のところ、あとにはなにも残らないというのならば、死んでいるも同じだろう。
だが、あんたは生きる場所があり、果たすべき使命がある。俺を盾にして、生き残れ。気に病むことはない。俺は結局、過去から逃れようとした臆病者なのだ」
「なにを言い出す。やり直しなど、これからいくらでも利くぞ! 死んではならない。死んでしまっては、やり直しもなにもないからな! 生きる場所がないというのならば、それはわたしが謝る。
あなたのためだと思って、無理に東へ向かわせようとした、そのことがかえって苦しかったというのであれば、撤回しよう。一緒に成都に帰ろうではないか。
だから、自暴自棄にならないでくれ。そんなふうに自分を責めているところを見せられるのが、わたしとしては、いちばんつらい」
「本当にそうか」
「うん? ああ、本当にそうだ」
「成都に帰ってよいのか」
「もちろんだ。わたしに二言はない」
「よし、ならばともに成都に帰ろう。俄然、心持ちがちがってくるな」
「………もしかして、いまのわたしの言葉を引き出すために、わざと嘆いて見せたのか?」
「細かいことは気にするな。俺に、俺が使っていない石を預けてくれ」
「貴様ら、なにをごちゃごちゃ相談しておる、儂に石を寄越せ!」
「やつに奪われる前に、早く!」
「どいつもこいつも石、石、石と!」
「魏軍の銅鑼が鳴らされた。くそ、こちらが少数と見くびって、突撃をかけてくるつもりだな。孔明、早く俺に石を渡せ!」
「儂に石を寄越せ! われらの土地を、われらの手に!」
「そうして武に武で当たって、後先考えずに暴れて、結果はなにも生み出せないでいるのがおまえだろう! 
神威将軍とやら、そなたがその借り物の名を名乗り、そしておのれの行状を改めないかぎり、石の反動を待つまでもなく、そなたには破滅がやってくる! 
と、言っている端から、人の袖をさぐっているのは誰だ!」
「俺だ。よし、もうひとつ願いを託すぞ。俺たちを、いますぐ隴西へ連れて行ってくれ!」





「莫迦だろう」
「なんとでも言え。甘んじて受け入れる」
「二度目に石を使ったことも莫迦の骨頂であるが、『隴西へ連れて行け』などとざっくりした願いをするから、こんなことになる」
「俺が思うに、これが反動だと思うが」
「口を利くたびに汚臭で体中が腐ってしまいそうだから、本来は喋りたくないのだが、しかし、腹が立って、口を開かずにはおられない! 
これ、わたしは、おまえたちの仲間でもなければ食べ物でもない。寄るな、なつくな、近づくなというに!」
「豚にも、あんたが物珍しく映るんじゃないか。たいした人気ぶりだ」
「豚に歓迎されてもうれしくない……どうして『隴西でももっとも安全で清潔な場所に連れて行け』と願わなかったのだ!」
「あの状態で、そんな余裕があると思うか? 四方を羌族の遊撃部隊に囲まれ、さらに地平にはずらりと魏の軍勢。あのとき、石が俺の願いを聞いていなかったら、どうなっていたと思う?」
「さて。想像もつかないね」
「あんたの背後で、羌族の兵が刃を突き立てようとしていたのだ。防ぐにしても、あのままでは、とうてい間に合わなかっただろう。
怪我はなかろうな。怒りで背中に刃がつきたてられていても気づかないなんてことはないな?」
「どれだけ鈍感だ、わたしは。あまりの汚臭に頭痛がはじまったこと以外は、すこぶる元気だとも。そういうあなたのほうはどうだ」
「鼻がねじ曲がりそうなこと以外では、問題はない」
「さっさと出よう。ここが隴西だということは、なんとなく見当がつくが、さて、隴西のどこかな。魏軍の兵舎のど真ん中だったら、笑うに笑えぬぞ。しかし史書には残るであろう。
『劉左将軍の若き天才軍師・諸葛孔明は、なぜだかあるとき、唐突に敵地たる隴西の兵舎の、よりにもよって厠にあらわれて、豚とゆかいに遊んでいるところを兵卒に見つかり、捕らえられて死んだ。哀れなるかな、諸葛亮。しかしみっともない』
とまあ、こんなふうに」
「あんた、元気だな」
「危機に際して心が躍る」
「そうかい、残念がれ。兵舎ではなさそうだ。華麗な最期はあとにとっておけ」
「二十年後くらいにな。ここはどこだろう。なかなか大きな屋敷のようだが。む、なんと気の利いたことに井戸があって、しかもそのとなりには、清潔な衣が干してある。まさに天の配剤。ありがたく受け取ろう」
「盗みをするつもりか」
「いいや、天からおごそかに差し伸べられた手を、うやうやしく取るだけだ。盗むのではない」
「物は言いようだな……」

つづく……

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