「楊という男がいるだろう、枝江の楊の、分家筋の男なのだが」
「いるな。あの人の良い男だろう。咳止め薬を煎じるのがうまい男だ」
「揚武将軍の口利きで入った、安(あん)という男がいるのだが、これがなかなか奇矯な男といおうか、楊の仕事ぶりが気にくわないらしく、やたらとつっかかって、揉め事ばかり起こしている」
「なぜ」
「楊の仕事の遅さが気に食わないらしい。やはり、あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが」
「遅いというのは、それで周囲の仕事が滞るというほどなのか」
「そうなのだろう」
「だろう、とはどういうことだ。おまえが監督しているのではないのか。なぜそのような配置にしている。年だからと判っているのならば、配置替えをするなどの策を講じればよかろう。なぜにそのまま放置している。まさか、主公にそのことを相談に来たのか」
「揚武将軍が絡むからな」
「揚武将軍はどうでもよい。安とやらがどのような男かは知らぬが、物のわからぬ男だ。で、そいつをいかに閑職に追いやる相談だろうな」
「左将軍府の人事に絡むことだ。すまないが、話すことはできない」
「ならば、なぜそのような話を俺にする。年だからといって楊を罷免するか、あるいは安を閑職に追いやるか、おまえがどう考えているかは、俺にわからん。ただ、正直なところを言わせて貰えば、おまえは俺が思った以上に切り換えが早すぎる。いまのおまえには、付いて行くのが困難だ」
それから趙雲は、顔色と同時に、言葉をも失った孔明に、一気に言葉をまくし立てた。孔明は、記憶力のよいところをみせて、趙雲の吐き出した言葉のひとつひとつを検討してみたが、それは、ほとんど文脈の読み取れぬ、言葉の羅列にしか過ぎない。
と、すれば、やはり、それ以前の会話の中に、あれほど怒った原因があるのだろう。
怒気もあらわに踵を返した趙雲のうしろ姿を、ただぼう然と見送るしかなかったわけであるが、いまさらながら、なぜに呼び止めなかったのかと悔やまれる。
あのとき、追いかけて、どういうことなのかと尋ねれば、いま、これほど深く悩みはしなかっただろう。
時間がたてば経つほど、酸のように強い言葉に、本音が紛れてしまう。後から追いかけるのがむずかしい。
実のところ、孔明は追いかけて、なおも拒絶されることを恐れて、足を竦ませたのである。
この自分が、と己をわらってみるが、やはり、現状があるのは、らしくもなく、その場で動くことができずに、問題の解決を先送りしてしまったのがいけなかったからだ。
以前ならば、すぐさま追いかけて、どういうことなのだと尋ねただろうに、なにを遠慮したのだろう。
ひどい寝汗をかいており、その不快さで目が覚めた孔明は、自分が、昨夜、更衣もせずに寝入ってしまっていたことに気づいた。机に突っ伏すような形で眠っていたために、背中から首筋にかけて強ばっている。
家人に命じて、湯を用意させ、身体の汗を流した。
孔明の顔が腫れていたこともあり、家人たちは、具合が悪いのかと心配したようだが、孔明が暗い思いつめた目をしているのを見て、だれも何も言わない。
みな、孔明の気性をよく知っており、孔明が殻に閉じこもっているときは、どんな言葉をかけても無駄だということが、わかっていたのである。
汗をかいたことで、眠ったはずなのに、疲労が取れていない。
濡れた髪からこぼれる水滴を拭き取りながら、孔明は、これが執着というものなのだろうかと考えていた。
叔父に対する敬愛と思慕は、執着ともちがうものであるし、徐庶にたいする友情も、強かったのにはちがいないが、これほど激しいものではなかった。
こんなふうに、誰かを失うことを恐れ、夜もまともに眠れず、ようやく寝入ったかとおもえば、そっくりそのままの場面を丁寧に再現してみせて、しかも冷静に分析までしている夢を見る。目が覚めたとき、悪夢を見たのではなく、現実なのだということを思い出して、落胆したほどである。
いままで、人が、異性なり、財産なり、地位なりに執着する、そもそもの執着の感覚が理解できなかった。どこかで、執着のあまりに失敗を重ねる人を見て、軽蔑すらおぼえていた。
なんのことはない。この気持ちを知らねば、苦しみは理解できない。
これは女々しい感情なのだろうか。そも、女々しい、という言葉自体が、なにやらおかしい。女のほうが、よほど割りきりが良い。
わたしは、なにをしている? あれほど怒った、というのであれば、こちらが気に障ることをしたのだ。
いま抱いているのは、罪悪感だろうか。
いや、不安だろう。
磐石だと信じていた足元が、いつのまにかひび割れて、脆くなっていたのに、気づかないでいたのだろうか。
だとしたら、いつからひび割れが始まっていたのだろう。
それすら気づけず、だから、いまもって、どう傷つけたのかがわからないでいる。
そうだ、傷つけたのだな、と孔明は深く嘆息した。
そうかといって、原因もわからないまま、頭を下げるのはおかしい。
いま頭を下げてしまえば、おそらくあの男のことだ。恐縮し、許してくれるだろうが、本音は隠してしまうだろう。
そうして、日々に紛れて、なかったことになってしまっているうちに、どんどん距離が離れていくのだ。
こんな途方に暮れた気持ちは、生まれて初めて覚えるものではないか。
いままで、こんなに、どうしたらよいかわからないことなど、一度もなかった。
いや、そうではない。どうしたらよいか、わからないことは、よくあったではないか。それを解決してこられたのは、いつも助け舟が出されていたからだ。
逆にこう言うべきなのだ。
いままで、こんなに孤独を覚えたことなど、一度もなかった。
※
「朝風呂とは、いいご身分ですな」
髪を乾かしながら、自邸ということで、身づくろいもいい加減に部屋に戻ってきた孔明は、自室でもって、衣に香を焚き染めている偉度の姿に仰天した。
「おまえこそ、早いではないか」
「夜明け前にこちらに参りました。昨夜は、あまりよく眠れなかったでしょう」
と、振り返った偉度は、衣一枚を軽く纏っただけで、洗い髪のままの孔明の姿に、言葉を詰まらせ、あわてて目を逸らした。
気まずく思いつつも、孔明も、衝立の陰に隠れ、とりあえず、簡単に髪を整える。
「驚いた。油断しすぎですぞ」
「おまえこそ、朝早くから、なぜわたしの部屋にいる」
「軍師の様子が気になりまして。ご安心くださいませ。いまさら、軍師のそのようなお姿を見ましても、偉度はなんとも思いませぬ」
「朝から恐ろしいことを言うな。おまえなんぞ、誘惑するか」
「そう願いたいところでございますな。誘惑するなら、ほかの方になさい」
「誰のことも、誘惑なんぞせぬ。ところで、何をしている」
「何って、香を焚き染めております。よい薫りでしょう。これは、趙将軍のお好きな香でして、この衣も、趙将軍のお好きな色でございます」
「ふうん?」
衝立越しに、孔明は髪を手早く整えつつ、顔だけを出して偉度を見る。
「偉度、なぜ知っている」
「なにをでございますか」
「誤魔化すな。それと、その衣は、今日は着ない。そういう気分ではないからだ。それと、此度の件について、おまえの口出しは無用ぞ。伝えたからな。守れよ」
「ご機嫌斜めでございますな。夢見が悪かったのでしょう。どんな夢を見たのです」
「おまえは、わたしに近すぎるな」
孔明が苛立ちを隠さずに言うと、着ないと言っているにも関わらず、帯と衣を一式そろえたものを、衝立越しに偉度が投げてくる。着ない、とは言い切ったものの、ほかに着ていくものを考えている余裕が、いまの孔明にはなかった。
仕方ない、とぶつぶつ言いながらそれでも衣に袖を通していると、偉度の、妙に明るい声が聞こえてきた。
「近いとおっしゃる。それならば、偉度を消しておしまいになるか」
「莫迦を申すな。おまえを消す理由がどこにもない」
そう答えると、衝立越しに、偉度が笑いながら、やはりそうでしょうね、と言っているのが聞こえた。わけのわからぬやつだ、と孔明は思いつつ、帯を締める。
「偉度よ、なぜおまえが、子龍の好きな衣の色を知っている」
「聞いたわけではありません。顔を見ればわかります」
「どんな顔だ」
「それは、いつもあなた自身が、目の前で見ておられるでしょう」
やれやれ、こうなると、偉度の言葉は迷宮のようにうねって、孔明は煙に巻かれたように、ひとりぼっちにされてしまう。
これさえなければ、偉度はよい青年に成長したと、胸を張って、みなに紹介できるのであるが、と孔明は嘆息する。
そんな孔明の心も知らず、偉度は孔明の身支度が整うと、子犬のようにまとわりついて、あれやこれやと世話をやき、左将軍府に向かう御者も、みずから買って出た。
これはこれなりに、気を使ってくれているのだ。人に細やかな気遣いをできるようになったのだ。たいしたものだと誉めてやらねばならぬ。
なぜだか目が妙に笑っているのが気にかかるが、と思いつつ、孔明は、偉度に御者をまかせた。
寝不足なのもあり、しばらく、居心地のよい馬車の中で、偉度が焚き染めた香の薫りを楽しみながら、うとうとしていた。
ふと馬車が止まり、左将軍府についたのかと目を開けば、何のことはない。いつの間にやら、左将軍府とはほどとおい、閑静な市街地にいた。孔明は身を乗り出して、御者台の偉度に声をかける。
「なぜこんなところにいるのだ。早く左将軍府へゆけ」
「申し訳ございませぬ、道を間違えてしまったようで」
「おまえが? ずいぶんな間違えようだが」
そこは、士大夫の屋敷のならぶ、いわば高級住宅地であった。
そこかしこの屋敷から、朝の気配を思わせる匂い、人々の動きが伝わってくる。下町の猥雑な賑わいとは、趣が異なる。
御使いをたのまれたらしい急ぎ足の坊主が、馬車の前を駆けて行き、孔明と目が合うと、ぺこりと頭を下げて去っていった。
ぴいと甲高い音色に顔を上げれば、厚い雲の合間に見える空の下、雲雀が飛んでいくのが見えた。よい朝である。
「偉度、道がわからぬのであれば、わたしが御車をつとめるが」
「いえ、とんでもございませぬ。それが、どうも馬車の調子がわるいようなのです」
そう言って、偉度は身軽にひらりと御者台から飛び降りて、車輪を確かめる。
ずっと立ち止まっている馬車に、それぞれの省庁へ出かける官吏が、立派な馬車のしつらえに、いったい何者かという視線を投げて寄越し、中にいる孔明を見るや、あわてて礼を取る。
あるいは、わざわざ馬車から降りて、挨拶をしてくる者までいた。
彼らから逃げるわけでもないが、孔明は、馬車の中に深く身を沈ませ、偉度が車輪の修理を終えるのを待った。
眠っていないことが、ここで祟ってきたのか、こめかみのあたりがじんじんと痛む。
今日は、これで仕事になるだろうか。日々の仕事の忙しさにまぎれて忘れてしまうが、人と比べれば、脆い体質であることにはちがいない。
座に持たれこむようにして、深いため息をつく孔明であるが、その傍らで、壊れてもいない車輪を、懸命にいじったフリをしている、偉度の姿には気づかないでいた。
つづく……
「いるな。あの人の良い男だろう。咳止め薬を煎じるのがうまい男だ」
「揚武将軍の口利きで入った、安(あん)という男がいるのだが、これがなかなか奇矯な男といおうか、楊の仕事ぶりが気にくわないらしく、やたらとつっかかって、揉め事ばかり起こしている」
「なぜ」
「楊の仕事の遅さが気に食わないらしい。やはり、あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが」
「遅いというのは、それで周囲の仕事が滞るというほどなのか」
「そうなのだろう」
「だろう、とはどういうことだ。おまえが監督しているのではないのか。なぜそのような配置にしている。年だからと判っているのならば、配置替えをするなどの策を講じればよかろう。なぜにそのまま放置している。まさか、主公にそのことを相談に来たのか」
「揚武将軍が絡むからな」
「揚武将軍はどうでもよい。安とやらがどのような男かは知らぬが、物のわからぬ男だ。で、そいつをいかに閑職に追いやる相談だろうな」
「左将軍府の人事に絡むことだ。すまないが、話すことはできない」
「ならば、なぜそのような話を俺にする。年だからといって楊を罷免するか、あるいは安を閑職に追いやるか、おまえがどう考えているかは、俺にわからん。ただ、正直なところを言わせて貰えば、おまえは俺が思った以上に切り換えが早すぎる。いまのおまえには、付いて行くのが困難だ」
それから趙雲は、顔色と同時に、言葉をも失った孔明に、一気に言葉をまくし立てた。孔明は、記憶力のよいところをみせて、趙雲の吐き出した言葉のひとつひとつを検討してみたが、それは、ほとんど文脈の読み取れぬ、言葉の羅列にしか過ぎない。
と、すれば、やはり、それ以前の会話の中に、あれほど怒った原因があるのだろう。
怒気もあらわに踵を返した趙雲のうしろ姿を、ただぼう然と見送るしかなかったわけであるが、いまさらながら、なぜに呼び止めなかったのかと悔やまれる。
あのとき、追いかけて、どういうことなのかと尋ねれば、いま、これほど深く悩みはしなかっただろう。
時間がたてば経つほど、酸のように強い言葉に、本音が紛れてしまう。後から追いかけるのがむずかしい。
実のところ、孔明は追いかけて、なおも拒絶されることを恐れて、足を竦ませたのである。
この自分が、と己をわらってみるが、やはり、現状があるのは、らしくもなく、その場で動くことができずに、問題の解決を先送りしてしまったのがいけなかったからだ。
以前ならば、すぐさま追いかけて、どういうことなのだと尋ねただろうに、なにを遠慮したのだろう。
ひどい寝汗をかいており、その不快さで目が覚めた孔明は、自分が、昨夜、更衣もせずに寝入ってしまっていたことに気づいた。机に突っ伏すような形で眠っていたために、背中から首筋にかけて強ばっている。
家人に命じて、湯を用意させ、身体の汗を流した。
孔明の顔が腫れていたこともあり、家人たちは、具合が悪いのかと心配したようだが、孔明が暗い思いつめた目をしているのを見て、だれも何も言わない。
みな、孔明の気性をよく知っており、孔明が殻に閉じこもっているときは、どんな言葉をかけても無駄だということが、わかっていたのである。
汗をかいたことで、眠ったはずなのに、疲労が取れていない。
濡れた髪からこぼれる水滴を拭き取りながら、孔明は、これが執着というものなのだろうかと考えていた。
叔父に対する敬愛と思慕は、執着ともちがうものであるし、徐庶にたいする友情も、強かったのにはちがいないが、これほど激しいものではなかった。
こんなふうに、誰かを失うことを恐れ、夜もまともに眠れず、ようやく寝入ったかとおもえば、そっくりそのままの場面を丁寧に再現してみせて、しかも冷静に分析までしている夢を見る。目が覚めたとき、悪夢を見たのではなく、現実なのだということを思い出して、落胆したほどである。
いままで、人が、異性なり、財産なり、地位なりに執着する、そもそもの執着の感覚が理解できなかった。どこかで、執着のあまりに失敗を重ねる人を見て、軽蔑すらおぼえていた。
なんのことはない。この気持ちを知らねば、苦しみは理解できない。
これは女々しい感情なのだろうか。そも、女々しい、という言葉自体が、なにやらおかしい。女のほうが、よほど割りきりが良い。
わたしは、なにをしている? あれほど怒った、というのであれば、こちらが気に障ることをしたのだ。
いま抱いているのは、罪悪感だろうか。
いや、不安だろう。
磐石だと信じていた足元が、いつのまにかひび割れて、脆くなっていたのに、気づかないでいたのだろうか。
だとしたら、いつからひび割れが始まっていたのだろう。
それすら気づけず、だから、いまもって、どう傷つけたのかがわからないでいる。
そうだ、傷つけたのだな、と孔明は深く嘆息した。
そうかといって、原因もわからないまま、頭を下げるのはおかしい。
いま頭を下げてしまえば、おそらくあの男のことだ。恐縮し、許してくれるだろうが、本音は隠してしまうだろう。
そうして、日々に紛れて、なかったことになってしまっているうちに、どんどん距離が離れていくのだ。
こんな途方に暮れた気持ちは、生まれて初めて覚えるものではないか。
いままで、こんなに、どうしたらよいかわからないことなど、一度もなかった。
いや、そうではない。どうしたらよいか、わからないことは、よくあったではないか。それを解決してこられたのは、いつも助け舟が出されていたからだ。
逆にこう言うべきなのだ。
いままで、こんなに孤独を覚えたことなど、一度もなかった。
※
「朝風呂とは、いいご身分ですな」
髪を乾かしながら、自邸ということで、身づくろいもいい加減に部屋に戻ってきた孔明は、自室でもって、衣に香を焚き染めている偉度の姿に仰天した。
「おまえこそ、早いではないか」
「夜明け前にこちらに参りました。昨夜は、あまりよく眠れなかったでしょう」
と、振り返った偉度は、衣一枚を軽く纏っただけで、洗い髪のままの孔明の姿に、言葉を詰まらせ、あわてて目を逸らした。
気まずく思いつつも、孔明も、衝立の陰に隠れ、とりあえず、簡単に髪を整える。
「驚いた。油断しすぎですぞ」
「おまえこそ、朝早くから、なぜわたしの部屋にいる」
「軍師の様子が気になりまして。ご安心くださいませ。いまさら、軍師のそのようなお姿を見ましても、偉度はなんとも思いませぬ」
「朝から恐ろしいことを言うな。おまえなんぞ、誘惑するか」
「そう願いたいところでございますな。誘惑するなら、ほかの方になさい」
「誰のことも、誘惑なんぞせぬ。ところで、何をしている」
「何って、香を焚き染めております。よい薫りでしょう。これは、趙将軍のお好きな香でして、この衣も、趙将軍のお好きな色でございます」
「ふうん?」
衝立越しに、孔明は髪を手早く整えつつ、顔だけを出して偉度を見る。
「偉度、なぜ知っている」
「なにをでございますか」
「誤魔化すな。それと、その衣は、今日は着ない。そういう気分ではないからだ。それと、此度の件について、おまえの口出しは無用ぞ。伝えたからな。守れよ」
「ご機嫌斜めでございますな。夢見が悪かったのでしょう。どんな夢を見たのです」
「おまえは、わたしに近すぎるな」
孔明が苛立ちを隠さずに言うと、着ないと言っているにも関わらず、帯と衣を一式そろえたものを、衝立越しに偉度が投げてくる。着ない、とは言い切ったものの、ほかに着ていくものを考えている余裕が、いまの孔明にはなかった。
仕方ない、とぶつぶつ言いながらそれでも衣に袖を通していると、偉度の、妙に明るい声が聞こえてきた。
「近いとおっしゃる。それならば、偉度を消しておしまいになるか」
「莫迦を申すな。おまえを消す理由がどこにもない」
そう答えると、衝立越しに、偉度が笑いながら、やはりそうでしょうね、と言っているのが聞こえた。わけのわからぬやつだ、と孔明は思いつつ、帯を締める。
「偉度よ、なぜおまえが、子龍の好きな衣の色を知っている」
「聞いたわけではありません。顔を見ればわかります」
「どんな顔だ」
「それは、いつもあなた自身が、目の前で見ておられるでしょう」
やれやれ、こうなると、偉度の言葉は迷宮のようにうねって、孔明は煙に巻かれたように、ひとりぼっちにされてしまう。
これさえなければ、偉度はよい青年に成長したと、胸を張って、みなに紹介できるのであるが、と孔明は嘆息する。
そんな孔明の心も知らず、偉度は孔明の身支度が整うと、子犬のようにまとわりついて、あれやこれやと世話をやき、左将軍府に向かう御者も、みずから買って出た。
これはこれなりに、気を使ってくれているのだ。人に細やかな気遣いをできるようになったのだ。たいしたものだと誉めてやらねばならぬ。
なぜだか目が妙に笑っているのが気にかかるが、と思いつつ、孔明は、偉度に御者をまかせた。
寝不足なのもあり、しばらく、居心地のよい馬車の中で、偉度が焚き染めた香の薫りを楽しみながら、うとうとしていた。
ふと馬車が止まり、左将軍府についたのかと目を開けば、何のことはない。いつの間にやら、左将軍府とはほどとおい、閑静な市街地にいた。孔明は身を乗り出して、御者台の偉度に声をかける。
「なぜこんなところにいるのだ。早く左将軍府へゆけ」
「申し訳ございませぬ、道を間違えてしまったようで」
「おまえが? ずいぶんな間違えようだが」
そこは、士大夫の屋敷のならぶ、いわば高級住宅地であった。
そこかしこの屋敷から、朝の気配を思わせる匂い、人々の動きが伝わってくる。下町の猥雑な賑わいとは、趣が異なる。
御使いをたのまれたらしい急ぎ足の坊主が、馬車の前を駆けて行き、孔明と目が合うと、ぺこりと頭を下げて去っていった。
ぴいと甲高い音色に顔を上げれば、厚い雲の合間に見える空の下、雲雀が飛んでいくのが見えた。よい朝である。
「偉度、道がわからぬのであれば、わたしが御車をつとめるが」
「いえ、とんでもございませぬ。それが、どうも馬車の調子がわるいようなのです」
そう言って、偉度は身軽にひらりと御者台から飛び降りて、車輪を確かめる。
ずっと立ち止まっている馬車に、それぞれの省庁へ出かける官吏が、立派な馬車のしつらえに、いったい何者かという視線を投げて寄越し、中にいる孔明を見るや、あわてて礼を取る。
あるいは、わざわざ馬車から降りて、挨拶をしてくる者までいた。
彼らから逃げるわけでもないが、孔明は、馬車の中に深く身を沈ませ、偉度が車輪の修理を終えるのを待った。
眠っていないことが、ここで祟ってきたのか、こめかみのあたりがじんじんと痛む。
今日は、これで仕事になるだろうか。日々の仕事の忙しさにまぎれて忘れてしまうが、人と比べれば、脆い体質であることにはちがいない。
座に持たれこむようにして、深いため息をつく孔明であるが、その傍らで、壊れてもいない車輪を、懸命にいじったフリをしている、偉度の姿には気づかないでいた。
つづく……