※
一方、調練場において、趙雲は、その日、何十回目かのため息をついた。
あまりの数の多さに、最初は不審な目を向けていた部将たちも、趙雲の鬱鬱たる気分が移ってきたのか、だんだん不安な面差しになり、どこかうつむき加減である。
そんななか、空気に流されることなく、いつもどおりの、むしろ邪悪さすら感じられる無邪気さを発揮しているのが、陳到であった。
「将軍、如何なされたのです。そのように落ち込まれると、ほかの者まで沈んでしまいます」
ああ、と生返事をして顔を上げる趙雲であるが、あいもかわらぬ陳到の、好奇心に満ち満ちた顔を見ると、ウンザリしたように顔を戻し、またため息をついた。
趙雲は、宮城に用があり、朝からいなかった。
そのまま屋敷に帰るだろうと見ていた部将たちは、夕刻も近くなって、趙雲がふらりと現われたことに、まず驚き、そして、妙に張り切って、声を張り上げ、兵卒たちに号令をかけるのを見て、無理して元気を振り絞っているような有様に、さらに首をかしげた。
日課をこなしたあと、さて、帰宅するか、という段になったものの、やはり趙雲は、様子がおかしい。
兵卒たちから離れると、暗い顔をして、なにかをしようとするのだが、内面でさまざまな葛藤が起こっているらしく、途中で仕草を止めては、我に返り、自分がなにをすべきかを考え、それに取り掛かろうとすると、また物思いに耽って、ため息をつき、落ち込む、といったことを、繰り返しているのだ。
良くも悪くも趙雲というのは、兵卒はもちろんのこと、部将たちの前でも、感情をあからさまに見せない男である。
その平板な態度が冷たく取られてしまうこともあるが、趙雲の部隊は似たもの同士が集っており、密接なつながりはないものの、しがらみに縛られることもない。それが良い方向に働き、趙雲の部隊は、風通しの良い、役目を務めやすい部隊でもあった。
それが、どうしたことか、大将が、いつになく激しく落ち込んでいる。
宮城から帰ってきたあと、というだけに、部将たちは最悪のことを思い浮かべた。
つまり、将軍職を解かれた、あるいは降格されたのではないか、と。
だから、本来ならばみな帰宅するところを、趙雲が重たい口を開いてくれるのを待って、たいした仕事もないのに、ほぼ全員が、兵舎をうろうろ、そわそわしている状態であった。
そんな中、陳到が代表して趙雲に声をかけたので、部将たちはほっとしつつ、そしらぬ顔をして、それぞれの役目をつとめながら、耳だけは聡くして、趙雲の言葉に集中している。
「今日は主公とお会いになったのですか」
「主公はお元気であった」
「それはようございました。で、なぜに趙将軍は、それほど落ち込まれているのです」
「落ち込む…そうだな。叔至、俺はどうかしているな」
「ほかにも、どなたかにお会いになったのですか」
「うむ。たまたま軍師に」
その言葉を聞くや、それまで真剣に耳を傾けていた部将たちは、なあんだ、といわんばかりに、ぞろぞろと帰宅の準備をはじめた。
それを尻目に、趙雲は、またもため息をつき、額を抑えるような仕草をして、言った。
「軍師に会ったのだ。で、立ち話をしていたのだが、あれの話に、ひっかかることがあって、つい声を荒げて、意味もなく叱りつけてしまった」
「はあ」
陳到がちらりと周囲を見ると、たくさん残っていた部将たちは、みな帰宅して、いなくなっており、がらんとした兵舎には、趙雲と陳到だけが残されている。夕闇迫る成都の空で、烏がカァ、と鳴いた。
部将たちにとって、孔明に関する趙雲の話というのは、いつもの話であり、いちいち気にすることもない話だと思われているのだ。
「どうかしているな。心を飲み込めばよいものを、黙っておれなくなって、意味のない言葉を投げつけるだけ投げつけて、そのまま帰ってきてしまったのだ」
そこまで言うと、なにを思い出したのか、趙雲はうつむき加減に自嘲気味の笑みを浮かべ、そして言った。
「今度ばかりは、もう駄目かも知れぬ」
「駄目、とおっしゃると」
「言葉どおりだ。呆気ないものだな」
そのとき、陳到の脳裏にあったのは、趙雲が孔明にかまける時間が減れば、いよいよ結婚を考えるのでは、という期待であった。
さっそく、前々から目をつけていた寡婦、あるいは妙齢の娘たちの親兄弟に話を持っていこう。
うまくすれば、来年にも、第一子が生まれ、月下氷人をつとめた自分が、その字をつける役目を、担うことができるかもしれない。
趙雲を縁付け、そして生まれた子の親代わりになる、というのが、陳到のささやかな野望であった。
「しかし、軍師は、将軍の能力を買っておられるわけでございますし、これで駄目、ということにはなりますまい」
「能力、か。そうだな」
またも趙雲は意味ありげな笑みを浮かべ、またまた、ため息をついた。
陳到は、これほどに弱弱しい趙雲を見たのは、初めてであった。
もし、趙雲に恨みを持つ説客がいまあらわれたとしたら、趙雲はあっさり降伏しただろう。
「くわしくは判りませぬが、軍師には軍師の考えがあり、将軍とはちがう、ということなのでは。叔至めの意見を言わせていただきますと、趙将軍は、軍師に、あまりに近くありすぎます。お二人とも、いささか距離をとられて、互いの生活という物を作らねば、人としての本分から、離れてしまいますぞ」
この場合の、陳到の本分というのは、結婚して、子を為して、血を繋ぐ、ということである。
いつもであれば、趙雲は陳到の小言にも、あまり耳を傾けず、右から左へ、という様子なのだが、その日はめずらしく、きちんと返答がかえってきた。
「そういうことなのかもしれぬ」
これは、夢への第一歩だな、と手ごたえをおぼえつつ、一番星がまたたく頃まで、陳到はこんこんと、趙雲に結婚の素晴らしさ、子を持つしあわせを説き、趙雲は、そうかもな、そうなのかな、と聞き続けていた。
※
今日はもう遅いので、朝一番に、趙雲の妻にぴったりと狙っていた候補者の家へ行き、ちゃっちゃと話を進めるべきであろう。
あの頑固に結婚の話を蹴り続けていた男が、すこしその気になっているのだ。
律義者だから、話が半分も決まってしまえば、気が乗らなくなっていても、仕方ないとあきらめて、妻を迎えることだろう。
さあ、忙しくなってきた、と陳到が上機嫌で屋敷に帰ってみれば、ちょうどだれかが、人の家の門を、くぐろうとするところであった。
だれかと見れば、陳到が目の仇にしている、左将軍府の悪鬼・胡偉度であった。
しまった。どこかの酒家で時間を潰してこよう、と陳到は馬首をめぐらせるが、偉度は、気配ですぐに陳到を見つけてしまった。
「陳将軍、お話がございます」
「あとにしてくれ。わたしは忙しい」
「嘘をおっしゃい、暇なくせに。大切なお話なのです。趙将軍と軍師のことで」
やはりな、と陳到は心の中でつぶやき、偉度を無視して、馬を歩かせる。
胡偉度は、なにやら邪な想念でもって、陳到のささやかな夢を挫こうとしている、いやーな青年なのである。
偉度は、陳到が話を聞かないつもりなのを見てとると、門に一歩、足を踏み入れ、言った。
「ならば、陳将軍ではなく、奥方にお話をさせていただきます」
ぴたり、と陳到は足を止め、偉度を振り返る。
「なんだと?」
「奥方にお話をさせていただくと申し上げました。どうぞ、どこへなりとお行きになってください。さようなら」
と、偉度はしれっとして、陳家の門をくぐっていく。
すると、表の物音でわかったのか、家の中の者が、出迎えのために玄関に集っている気配がある。足音の軽さから見て、陳到の愛娘の四人であることは、すぐにわかった。父親が帰ってきたと思っているのか。
陳到はあわてて馬を下りると、玄関に手をかけようとする偉度を押し止めた。
玄関がちらりと開いて、娘たちが顔を覗かせるので、あわててその前にたち、偉度が見えないようにする。
「見ちゃいけません! 病気になってしまう! おまえたち、家に入ってなさい!」
「人を悪気の塊のように…こんばんは、姑娘がた」
陳到の娘たちは、みな、面食いである。そして、なぜだか父親と仲の悪い偉度を気に入っている。
偉度はそれを知り尽くしているので、陳到の娘たちに、あまりよそでは見せない微笑みを浮かべてみせる。そうして、娘たちがきゃあきゃあ言いながら奥に消えていくのを、イライラして見送る陳到を見るのが、偉度の楽しみなのだ。
「あいもかわらず性悪者よ。屋敷には通さぬぞ。で、話とは?」
「門前払いよりマシな程度な扱いですが、まあよろしいでしょう。ずばり申し上げます。趙将軍と軍師が、なにやら喧嘩をなさった様子。この仲直りの手伝いをお願いしたいのです」
「なぜ、わたしがそのような仲立ちをせねばならぬ」
偉度は、ふうっと気障ったらしく(と、陳到には感じられた)ため息をつくと、垂れてきた前髪をかき上げて、言う。
「判っておられぬようですな。どうせ、これを機に、趙将軍に嫁を、などと、くだらぬことを考えていたのでしょう」
「なにがくだらぬ」
「よろしいか。趙将軍が軍師と仲たがいされたら、まともにあおりを食らうのは、貴方がたではありませぬか。趙将軍が、位の低さにもかかわらず、主公やほかの将軍方からも厚遇されているのは、軍師との結びつきがあればこそ。軍師と袂を別たれた趙将軍は、そのほかの猪将軍と同じ存在になり下がり、いまの特別なお立場ではなくなる」
「なにをいう。趙将軍ほどの武勇と知略をお持ちの方が、失脚なんぞするものか」
「そう、趙将軍の能力は高い。それゆえ、軍師の下から離れたとしても、そのまま失脚なさることはないでしょう。
ただし、このまま順調にいけば、我らが軍師将軍は、揚武将軍を継ぐか、あるいはさらに上位の地位につく。そうなった場合、あまりに事情を知りすぎている、己に反する者を、いくら軍師とはいえ、重用するでしょうかね」
「む」
「あんたもわたしも、昔は同じ穴のムジナだったじゃありませんか。知りすぎた者がどうなるか、そんなことは考えなくったって結論を出せるでしょう。軍師のことだから、罪をかぶせて失脚させるような、阿漕な真似はしやしないでしょうが、まあ、失脚寸前のところでなんとか首がつながる状態になるでしょうね。
そうなったら、あんたがただって、同じ立場に立たされる。趙将軍は、ああいう気性の方だから、それでも文句は言わないかもしれない。でも、あんたはどうです、それでもよいと?」
陳到は、むむむ、とうなりつつ、挑発するように、妙に艶めかしい笑みを浮かべている偉度を見据えた。
悔しいが、偉度の言うとおりである。
「嫁は二の次か」
「そうそう。いまはささやかな幸福よりも、大義のために、あの二人の仲直りをさせることが先決。大義が為されれば、あなたの夢もあとから追いかけてきましょうぞ。あなたの話に耳を傾けるくらいだ。趙将軍の様子は、どうやら最悪のようですな」
「一言多い。しかし、たしかに落ち込んでおられるのには、ちがいない」
「ふむ…すこし知恵を絞るか。よろしいですね。協力をお願いいたしましたよ」
「悔しいが仕方なかろう。しかしおまえ、よい策でもあるのか」
「まあ、ないこともない。準備が整いましたら、お知らせいたします。それまでは、妙に浮ついて、嫁探しなどなさいませぬよう」
釘を刺された陳到は、うー、と餌を貰い損ねた犬のようにうなっていたが、偉度は頓着せず、さっと踵を返して、自邸へと戻っていった。
※
「わかってないね」
ふん、と鼻を鳴らしながら、偉度はひとり、夜を歩く。
孔明の性格からして、たとえ趙雲に嫌われるようなことになったとしても、決して見捨てるような真似はしない。孔明は、己を守ってくれた者に、厚い情を持ち続ける。裏切られても、それは変わらないだろう。
まあ、趙雲が孔明を嫌う、という前提からして、おかしな話だ。
趙雲が孔明を嫌うことなどあるはずがないのだ。それはまさに、自分自身の半分を殺してしまうのと同じくらい、重い行為になるのだから。
事実、いま喧嘩をしていても、趙雲は落ち込んでいるという。
孔明と袂を分かとうとするほどの怒りではなかった、という証左である。
やれやれ、互いに離れてしまえば、それこそ窒息しかねないくらいに苦しい思いをするとわかっているのに、どうして喧嘩なんぞするのだろう。
陳到の親父さんは、出来る男ではあるが、武芸の才に見合わず、あきれるほどに凡人なのだ。二人の間にあるものが、単なる主従以上の深く強いものであることを、理解していない。
あの二人に関しては、第三者が介入できる隙間はないのだ。
陳到の夢を、偉度は知っているし、こちらのことを嫌う理由もわからないでもないが、しかし、嫌われようと憎まれようと、譲れない一点というものは存在する。
さてはて、趙雲と孔明であるが、前向きに考えれば、これはよい機会かも知れない。
雨降って地固まる。よき策を練らねばな。
妖しげな笑みを浮かべつつ、偉度は夜闇の中に消えていった。
つづく……
一方、調練場において、趙雲は、その日、何十回目かのため息をついた。
あまりの数の多さに、最初は不審な目を向けていた部将たちも、趙雲の鬱鬱たる気分が移ってきたのか、だんだん不安な面差しになり、どこかうつむき加減である。
そんななか、空気に流されることなく、いつもどおりの、むしろ邪悪さすら感じられる無邪気さを発揮しているのが、陳到であった。
「将軍、如何なされたのです。そのように落ち込まれると、ほかの者まで沈んでしまいます」
ああ、と生返事をして顔を上げる趙雲であるが、あいもかわらぬ陳到の、好奇心に満ち満ちた顔を見ると、ウンザリしたように顔を戻し、またため息をついた。
趙雲は、宮城に用があり、朝からいなかった。
そのまま屋敷に帰るだろうと見ていた部将たちは、夕刻も近くなって、趙雲がふらりと現われたことに、まず驚き、そして、妙に張り切って、声を張り上げ、兵卒たちに号令をかけるのを見て、無理して元気を振り絞っているような有様に、さらに首をかしげた。
日課をこなしたあと、さて、帰宅するか、という段になったものの、やはり趙雲は、様子がおかしい。
兵卒たちから離れると、暗い顔をして、なにかをしようとするのだが、内面でさまざまな葛藤が起こっているらしく、途中で仕草を止めては、我に返り、自分がなにをすべきかを考え、それに取り掛かろうとすると、また物思いに耽って、ため息をつき、落ち込む、といったことを、繰り返しているのだ。
良くも悪くも趙雲というのは、兵卒はもちろんのこと、部将たちの前でも、感情をあからさまに見せない男である。
その平板な態度が冷たく取られてしまうこともあるが、趙雲の部隊は似たもの同士が集っており、密接なつながりはないものの、しがらみに縛られることもない。それが良い方向に働き、趙雲の部隊は、風通しの良い、役目を務めやすい部隊でもあった。
それが、どうしたことか、大将が、いつになく激しく落ち込んでいる。
宮城から帰ってきたあと、というだけに、部将たちは最悪のことを思い浮かべた。
つまり、将軍職を解かれた、あるいは降格されたのではないか、と。
だから、本来ならばみな帰宅するところを、趙雲が重たい口を開いてくれるのを待って、たいした仕事もないのに、ほぼ全員が、兵舎をうろうろ、そわそわしている状態であった。
そんな中、陳到が代表して趙雲に声をかけたので、部将たちはほっとしつつ、そしらぬ顔をして、それぞれの役目をつとめながら、耳だけは聡くして、趙雲の言葉に集中している。
「今日は主公とお会いになったのですか」
「主公はお元気であった」
「それはようございました。で、なぜに趙将軍は、それほど落ち込まれているのです」
「落ち込む…そうだな。叔至、俺はどうかしているな」
「ほかにも、どなたかにお会いになったのですか」
「うむ。たまたま軍師に」
その言葉を聞くや、それまで真剣に耳を傾けていた部将たちは、なあんだ、といわんばかりに、ぞろぞろと帰宅の準備をはじめた。
それを尻目に、趙雲は、またもため息をつき、額を抑えるような仕草をして、言った。
「軍師に会ったのだ。で、立ち話をしていたのだが、あれの話に、ひっかかることがあって、つい声を荒げて、意味もなく叱りつけてしまった」
「はあ」
陳到がちらりと周囲を見ると、たくさん残っていた部将たちは、みな帰宅して、いなくなっており、がらんとした兵舎には、趙雲と陳到だけが残されている。夕闇迫る成都の空で、烏がカァ、と鳴いた。
部将たちにとって、孔明に関する趙雲の話というのは、いつもの話であり、いちいち気にすることもない話だと思われているのだ。
「どうかしているな。心を飲み込めばよいものを、黙っておれなくなって、意味のない言葉を投げつけるだけ投げつけて、そのまま帰ってきてしまったのだ」
そこまで言うと、なにを思い出したのか、趙雲はうつむき加減に自嘲気味の笑みを浮かべ、そして言った。
「今度ばかりは、もう駄目かも知れぬ」
「駄目、とおっしゃると」
「言葉どおりだ。呆気ないものだな」
そのとき、陳到の脳裏にあったのは、趙雲が孔明にかまける時間が減れば、いよいよ結婚を考えるのでは、という期待であった。
さっそく、前々から目をつけていた寡婦、あるいは妙齢の娘たちの親兄弟に話を持っていこう。
うまくすれば、来年にも、第一子が生まれ、月下氷人をつとめた自分が、その字をつける役目を、担うことができるかもしれない。
趙雲を縁付け、そして生まれた子の親代わりになる、というのが、陳到のささやかな野望であった。
「しかし、軍師は、将軍の能力を買っておられるわけでございますし、これで駄目、ということにはなりますまい」
「能力、か。そうだな」
またも趙雲は意味ありげな笑みを浮かべ、またまた、ため息をついた。
陳到は、これほどに弱弱しい趙雲を見たのは、初めてであった。
もし、趙雲に恨みを持つ説客がいまあらわれたとしたら、趙雲はあっさり降伏しただろう。
「くわしくは判りませぬが、軍師には軍師の考えがあり、将軍とはちがう、ということなのでは。叔至めの意見を言わせていただきますと、趙将軍は、軍師に、あまりに近くありすぎます。お二人とも、いささか距離をとられて、互いの生活という物を作らねば、人としての本分から、離れてしまいますぞ」
この場合の、陳到の本分というのは、結婚して、子を為して、血を繋ぐ、ということである。
いつもであれば、趙雲は陳到の小言にも、あまり耳を傾けず、右から左へ、という様子なのだが、その日はめずらしく、きちんと返答がかえってきた。
「そういうことなのかもしれぬ」
これは、夢への第一歩だな、と手ごたえをおぼえつつ、一番星がまたたく頃まで、陳到はこんこんと、趙雲に結婚の素晴らしさ、子を持つしあわせを説き、趙雲は、そうかもな、そうなのかな、と聞き続けていた。
※
今日はもう遅いので、朝一番に、趙雲の妻にぴったりと狙っていた候補者の家へ行き、ちゃっちゃと話を進めるべきであろう。
あの頑固に結婚の話を蹴り続けていた男が、すこしその気になっているのだ。
律義者だから、話が半分も決まってしまえば、気が乗らなくなっていても、仕方ないとあきらめて、妻を迎えることだろう。
さあ、忙しくなってきた、と陳到が上機嫌で屋敷に帰ってみれば、ちょうどだれかが、人の家の門を、くぐろうとするところであった。
だれかと見れば、陳到が目の仇にしている、左将軍府の悪鬼・胡偉度であった。
しまった。どこかの酒家で時間を潰してこよう、と陳到は馬首をめぐらせるが、偉度は、気配ですぐに陳到を見つけてしまった。
「陳将軍、お話がございます」
「あとにしてくれ。わたしは忙しい」
「嘘をおっしゃい、暇なくせに。大切なお話なのです。趙将軍と軍師のことで」
やはりな、と陳到は心の中でつぶやき、偉度を無視して、馬を歩かせる。
胡偉度は、なにやら邪な想念でもって、陳到のささやかな夢を挫こうとしている、いやーな青年なのである。
偉度は、陳到が話を聞かないつもりなのを見てとると、門に一歩、足を踏み入れ、言った。
「ならば、陳将軍ではなく、奥方にお話をさせていただきます」
ぴたり、と陳到は足を止め、偉度を振り返る。
「なんだと?」
「奥方にお話をさせていただくと申し上げました。どうぞ、どこへなりとお行きになってください。さようなら」
と、偉度はしれっとして、陳家の門をくぐっていく。
すると、表の物音でわかったのか、家の中の者が、出迎えのために玄関に集っている気配がある。足音の軽さから見て、陳到の愛娘の四人であることは、すぐにわかった。父親が帰ってきたと思っているのか。
陳到はあわてて馬を下りると、玄関に手をかけようとする偉度を押し止めた。
玄関がちらりと開いて、娘たちが顔を覗かせるので、あわててその前にたち、偉度が見えないようにする。
「見ちゃいけません! 病気になってしまう! おまえたち、家に入ってなさい!」
「人を悪気の塊のように…こんばんは、姑娘がた」
陳到の娘たちは、みな、面食いである。そして、なぜだか父親と仲の悪い偉度を気に入っている。
偉度はそれを知り尽くしているので、陳到の娘たちに、あまりよそでは見せない微笑みを浮かべてみせる。そうして、娘たちがきゃあきゃあ言いながら奥に消えていくのを、イライラして見送る陳到を見るのが、偉度の楽しみなのだ。
「あいもかわらず性悪者よ。屋敷には通さぬぞ。で、話とは?」
「門前払いよりマシな程度な扱いですが、まあよろしいでしょう。ずばり申し上げます。趙将軍と軍師が、なにやら喧嘩をなさった様子。この仲直りの手伝いをお願いしたいのです」
「なぜ、わたしがそのような仲立ちをせねばならぬ」
偉度は、ふうっと気障ったらしく(と、陳到には感じられた)ため息をつくと、垂れてきた前髪をかき上げて、言う。
「判っておられぬようですな。どうせ、これを機に、趙将軍に嫁を、などと、くだらぬことを考えていたのでしょう」
「なにがくだらぬ」
「よろしいか。趙将軍が軍師と仲たがいされたら、まともにあおりを食らうのは、貴方がたではありませぬか。趙将軍が、位の低さにもかかわらず、主公やほかの将軍方からも厚遇されているのは、軍師との結びつきがあればこそ。軍師と袂を別たれた趙将軍は、そのほかの猪将軍と同じ存在になり下がり、いまの特別なお立場ではなくなる」
「なにをいう。趙将軍ほどの武勇と知略をお持ちの方が、失脚なんぞするものか」
「そう、趙将軍の能力は高い。それゆえ、軍師の下から離れたとしても、そのまま失脚なさることはないでしょう。
ただし、このまま順調にいけば、我らが軍師将軍は、揚武将軍を継ぐか、あるいはさらに上位の地位につく。そうなった場合、あまりに事情を知りすぎている、己に反する者を、いくら軍師とはいえ、重用するでしょうかね」
「む」
「あんたもわたしも、昔は同じ穴のムジナだったじゃありませんか。知りすぎた者がどうなるか、そんなことは考えなくったって結論を出せるでしょう。軍師のことだから、罪をかぶせて失脚させるような、阿漕な真似はしやしないでしょうが、まあ、失脚寸前のところでなんとか首がつながる状態になるでしょうね。
そうなったら、あんたがただって、同じ立場に立たされる。趙将軍は、ああいう気性の方だから、それでも文句は言わないかもしれない。でも、あんたはどうです、それでもよいと?」
陳到は、むむむ、とうなりつつ、挑発するように、妙に艶めかしい笑みを浮かべている偉度を見据えた。
悔しいが、偉度の言うとおりである。
「嫁は二の次か」
「そうそう。いまはささやかな幸福よりも、大義のために、あの二人の仲直りをさせることが先決。大義が為されれば、あなたの夢もあとから追いかけてきましょうぞ。あなたの話に耳を傾けるくらいだ。趙将軍の様子は、どうやら最悪のようですな」
「一言多い。しかし、たしかに落ち込んでおられるのには、ちがいない」
「ふむ…すこし知恵を絞るか。よろしいですね。協力をお願いいたしましたよ」
「悔しいが仕方なかろう。しかしおまえ、よい策でもあるのか」
「まあ、ないこともない。準備が整いましたら、お知らせいたします。それまでは、妙に浮ついて、嫁探しなどなさいませぬよう」
釘を刺された陳到は、うー、と餌を貰い損ねた犬のようにうなっていたが、偉度は頓着せず、さっと踵を返して、自邸へと戻っていった。
※
「わかってないね」
ふん、と鼻を鳴らしながら、偉度はひとり、夜を歩く。
孔明の性格からして、たとえ趙雲に嫌われるようなことになったとしても、決して見捨てるような真似はしない。孔明は、己を守ってくれた者に、厚い情を持ち続ける。裏切られても、それは変わらないだろう。
まあ、趙雲が孔明を嫌う、という前提からして、おかしな話だ。
趙雲が孔明を嫌うことなどあるはずがないのだ。それはまさに、自分自身の半分を殺してしまうのと同じくらい、重い行為になるのだから。
事実、いま喧嘩をしていても、趙雲は落ち込んでいるという。
孔明と袂を分かとうとするほどの怒りではなかった、という証左である。
やれやれ、互いに離れてしまえば、それこそ窒息しかねないくらいに苦しい思いをするとわかっているのに、どうして喧嘩なんぞするのだろう。
陳到の親父さんは、出来る男ではあるが、武芸の才に見合わず、あきれるほどに凡人なのだ。二人の間にあるものが、単なる主従以上の深く強いものであることを、理解していない。
あの二人に関しては、第三者が介入できる隙間はないのだ。
陳到の夢を、偉度は知っているし、こちらのことを嫌う理由もわからないでもないが、しかし、嫌われようと憎まれようと、譲れない一点というものは存在する。
さてはて、趙雲と孔明であるが、前向きに考えれば、これはよい機会かも知れない。
雨降って地固まる。よき策を練らねばな。
妖しげな笑みを浮かべつつ、偉度は夜闇の中に消えていった。
つづく……