江陵《こうりょう》への隊列からはなれた孔明は、わずかな手勢とともに、めちゃくちゃに馬を走らせた。
これほどに馬を急がせるのは、叔父の諸葛玄らとともに豫章《よしょう》が落城したさい、賞金稼ぎどもから逃げたとき以来だった。
あのときは、かわせた。
今度はどうか。
孔明が恐れているのは、曹操からの追撃者がやってくることではない。
いくら曹操でも、まだ自分という人間を深く知っているとは思っていない。
孔明が恐れているのは、ただひたすら劉備が討ち取られてしまうこと、その一点のみであった。
なんとしても急いで劉琦の元へいき、船とともに戻らねばならない。
馬は孔明の緊張がうつったのか、けんめいに地を駆けていく。
がくがく揺れるし、尻は痛くなるし、小虫が正面から何匹も飛び込んでくるし、目は乾くしで、ろくなことはない。
だがそれも、劉備たちのことを思えば、なんともない苦労であった。
孔明に付き従っている者たちも、不平を言わずにひたすら馬を走らせる。
かれらとて、家族を劉備の元に残しているのだ。
孔明が船を連れて帰らなかった場合、劉備たち一行がどうなるかは、それこそ想像するまでもない話だった。
漢水《かんすい》が見えてきて、一行はやっと馬の脚をゆるめた。
街道からすこし逸れたところにある船着き場で、劉琦のいる|江夏《こうか》へ向かう算段をする。
見るからに汗だくで急いでいるようすの孔明らに対し、船頭は法外な船賃を要求してきた。
ふだんは冷静な孔明も、これには頭にきて、
「劉豫洲の危機に足元を見おってっ、事態が収まった暁にはどうなるか、わかっておろうな!」
と一喝してしまった。
その勢いと、孔明の凄惨な姿……髷《もとどり》や帽子はよれよれ、着物は着崩れ、息は荒く、汗もだくだく……と、従者たちが斬りかかってきそうなのに怖じて、船頭は通常の船賃にもどしてくれた。
船上のひととなって、ようやく一息つく。
陳到が託してくれたはやぶさの明星の様子を見ると、馬に酔ったのか、おとなしかった。
乾燥した鼠がないので、小魚を用意してやる。
すると、明星はしぶしぶというふうに魚をつつきはじめた。
その様子を見ながら、孔明は江夏の方角を見た。
峻険な岩壁とかすむ山々がつらなる漢水をひたすら流れに逆らって進む。
秋風はいっそう冷たく一行を震わせる。
遠くから猿の鳴き声が悲し気に聞こえてくるのが、なんとも不吉な予感を抱かせた。
漢水にはおおくの船が行き交っていた。
ちかくの漁夫の小舟から、戦乱を避けて揚州へ向かわんとする一族の船まで。
わたしは揚州から荊州に逃げたものだが、と孔明は感慨深く思う。
十年ちかく平和を享受してきた荊州だったが、これからは戦場になるのだ。
おおくの知り合いの顔が脳裏に浮かんでは消えていく。
かれらの運命はこれからどうなっていくのだろう。
曹操が野望を抱かねば、もうすこし平穏な暮らしを保てたというのに。
孔明にとっては、曹操はとことん『平和の破壊者』であった。
※
孔明たちを乗せた船は、やがて江夏の近くまでやってきた。
船着き場に多くの船が停泊している。
中には立派な楼船《ろうせん》が何艘もあった。
孔明は内心、舌打ちをした。
関羽と孫乾《そんけん》は劉琦の説得に失敗したと見ざるを得ない。
道中、関羽と孫乾らとすれ違うことを祈っていたが、それもかなわなかった。
何が起こっているのだろうと、江夏の城のほうを見る。
劉琦は江夏太守として、この城市のなかにいるはずだ。
劉琦はざんねんなことに、病に侵されている。
夏の騒動で参ってしまって寝込んでいるのだとしても、部下をうごかして劉備のために船を出すくらいのことはできるはずだ。
関羽ですら打破できない、やっかいな状況に陥っているのだとしたら。
さきの江夏太守の黄祖が孫権と対戦した時の痕跡が、街にはところどころあった。
江夏には、いち早く、戦乱をおそれてやってきた荊州の民でごった返している。
劉備に付き従っている民の他に、これほど避難民がいたのかと孔明はおどろいた。
かれらは江夏城市へ向かっているが、追い返される者はいない様子である。
しかし、孔明は足を止めた。
江夏城の正門のとなりに、野営をしている一団がある。
見覚えのある将兵が何名もいた。
旗指物《はたさしもの》はないが、すぐにわかった。
関羽と孫乾の一団だ。
めったなことではカッとしない孔明だが、関羽たちの様子を見て、さすがに腹を立てた。
それというのも、関羽の将兵のひとりが、のんびり伸びなどをして、退屈そうにしていたからである。
疲労困憊の劉備一行とくらべ、関羽たちののん気さに、腹が立つのは当然だった。
孔明は、速足で野営の陣に向かった。
その剣幕を見て、従者たちが心配そうな顔をしてついてくる。
挨拶も抜きに、孔明は関羽がたてたとおぼしき幕舎をくぐり、中に入った。
「ややっ」
と、これは関羽である。
関羽は幕舎の中央で、腕を組み、難しい顔をして座っていたが、孔明を見るなり、腰を浮かした。
そのそばでは孫乾が、これまた難しい顔で、幕舎のなかを行ったり来たりしているのが見えた。
つづく
これほどに馬を急がせるのは、叔父の諸葛玄らとともに豫章《よしょう》が落城したさい、賞金稼ぎどもから逃げたとき以来だった。
あのときは、かわせた。
今度はどうか。
孔明が恐れているのは、曹操からの追撃者がやってくることではない。
いくら曹操でも、まだ自分という人間を深く知っているとは思っていない。
孔明が恐れているのは、ただひたすら劉備が討ち取られてしまうこと、その一点のみであった。
なんとしても急いで劉琦の元へいき、船とともに戻らねばならない。
馬は孔明の緊張がうつったのか、けんめいに地を駆けていく。
がくがく揺れるし、尻は痛くなるし、小虫が正面から何匹も飛び込んでくるし、目は乾くしで、ろくなことはない。
だがそれも、劉備たちのことを思えば、なんともない苦労であった。
孔明に付き従っている者たちも、不平を言わずにひたすら馬を走らせる。
かれらとて、家族を劉備の元に残しているのだ。
孔明が船を連れて帰らなかった場合、劉備たち一行がどうなるかは、それこそ想像するまでもない話だった。
漢水《かんすい》が見えてきて、一行はやっと馬の脚をゆるめた。
街道からすこし逸れたところにある船着き場で、劉琦のいる|江夏《こうか》へ向かう算段をする。
見るからに汗だくで急いでいるようすの孔明らに対し、船頭は法外な船賃を要求してきた。
ふだんは冷静な孔明も、これには頭にきて、
「劉豫洲の危機に足元を見おってっ、事態が収まった暁にはどうなるか、わかっておろうな!」
と一喝してしまった。
その勢いと、孔明の凄惨な姿……髷《もとどり》や帽子はよれよれ、着物は着崩れ、息は荒く、汗もだくだく……と、従者たちが斬りかかってきそうなのに怖じて、船頭は通常の船賃にもどしてくれた。
船上のひととなって、ようやく一息つく。
陳到が託してくれたはやぶさの明星の様子を見ると、馬に酔ったのか、おとなしかった。
乾燥した鼠がないので、小魚を用意してやる。
すると、明星はしぶしぶというふうに魚をつつきはじめた。
その様子を見ながら、孔明は江夏の方角を見た。
峻険な岩壁とかすむ山々がつらなる漢水をひたすら流れに逆らって進む。
秋風はいっそう冷たく一行を震わせる。
遠くから猿の鳴き声が悲し気に聞こえてくるのが、なんとも不吉な予感を抱かせた。
漢水にはおおくの船が行き交っていた。
ちかくの漁夫の小舟から、戦乱を避けて揚州へ向かわんとする一族の船まで。
わたしは揚州から荊州に逃げたものだが、と孔明は感慨深く思う。
十年ちかく平和を享受してきた荊州だったが、これからは戦場になるのだ。
おおくの知り合いの顔が脳裏に浮かんでは消えていく。
かれらの運命はこれからどうなっていくのだろう。
曹操が野望を抱かねば、もうすこし平穏な暮らしを保てたというのに。
孔明にとっては、曹操はとことん『平和の破壊者』であった。
※
孔明たちを乗せた船は、やがて江夏の近くまでやってきた。
船着き場に多くの船が停泊している。
中には立派な楼船《ろうせん》が何艘もあった。
孔明は内心、舌打ちをした。
関羽と孫乾《そんけん》は劉琦の説得に失敗したと見ざるを得ない。
道中、関羽と孫乾らとすれ違うことを祈っていたが、それもかなわなかった。
何が起こっているのだろうと、江夏の城のほうを見る。
劉琦は江夏太守として、この城市のなかにいるはずだ。
劉琦はざんねんなことに、病に侵されている。
夏の騒動で参ってしまって寝込んでいるのだとしても、部下をうごかして劉備のために船を出すくらいのことはできるはずだ。
関羽ですら打破できない、やっかいな状況に陥っているのだとしたら。
さきの江夏太守の黄祖が孫権と対戦した時の痕跡が、街にはところどころあった。
江夏には、いち早く、戦乱をおそれてやってきた荊州の民でごった返している。
劉備に付き従っている民の他に、これほど避難民がいたのかと孔明はおどろいた。
かれらは江夏城市へ向かっているが、追い返される者はいない様子である。
しかし、孔明は足を止めた。
江夏城の正門のとなりに、野営をしている一団がある。
見覚えのある将兵が何名もいた。
旗指物《はたさしもの》はないが、すぐにわかった。
関羽と孫乾の一団だ。
めったなことではカッとしない孔明だが、関羽たちの様子を見て、さすがに腹を立てた。
それというのも、関羽の将兵のひとりが、のんびり伸びなどをして、退屈そうにしていたからである。
疲労困憊の劉備一行とくらべ、関羽たちののん気さに、腹が立つのは当然だった。
孔明は、速足で野営の陣に向かった。
その剣幕を見て、従者たちが心配そうな顔をしてついてくる。
挨拶も抜きに、孔明は関羽がたてたとおぼしき幕舎をくぐり、中に入った。
「ややっ」
と、これは関羽である。
関羽は幕舎の中央で、腕を組み、難しい顔をして座っていたが、孔明を見るなり、腰を浮かした。
そのそばでは孫乾が、これまた難しい顔で、幕舎のなかを行ったり来たりしているのが見えた。
つづく
※ いよいよ四章目まできました、お付き合いくださっているすべてのみなさまに感謝です!(^^)!
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