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襄陽城《じょうようじょう》に入るには新野《しんや》と樊城《はんじょう》を経過せねばならない。
もはや廃墟と化した新野城を横目に、無人の樊城を過ぎ、ようやく曹操軍は襄陽城へ入った。
それまでの道中は、張郃《ちょうこう》にとっては苦々しいものだった。
曹操は劉備と諸葛亮とやらの手際をほめていたが、こてんぱんにやられたほうとしては、笑ってなどいられない。
とくに張郃は、悔しさがまったく晴れず、朝はだれよりも早く起きては、ひとり槍の鍛錬に励むようになっていた。
だれに命じられたわけでもない。
ただ、無性に、そうしなければと思ってしまうのだ。
燃え盛る新野城で見た、趙子龍のぞっとするような凄惨な笑み。
あいつを二度と笑わせない。
今度はほえ面をかかせてやる!
そんな張郃に付き合う副将の劉青《りゅうせい》は毎朝眠そうで、
「ほどほどにしませぬと、いざというとき疲れてしまいますぞ」
と、ほかの者ならぶん殴られそうなことを言う。
劉白《りゅうはく》は真面目なところを見せて、張郃の鍛錬の相手をせっせと務めていた。
かれらの様子を知った曹洪などは、
「過度にやる気をみせておいて、丞相から多く恩賞を引き出そうという魂胆なのだろう」
と、ケチな難癖をつけてきた。
張郃はそれをまったく無視した。
曹洪は趙子龍とじかに戦っていない。
趙子龍……あの男こそが劉備の首をとるための障壁だ。
張郃はそう信じ、襄陽城に入るその朝も、けんめいに槍の鍛錬に励んだのだった。
そして、昼過ぎに曹操軍は襄陽城に入った。
蔡瑁《さいぼう》らは曹操に平身低頭といったふうで、だれひとり曹操軍を妨害する者はいなかった。
『気骨《きこつ》のない奴らだ』
張郃は内心でつよく蔡瑁らを軽蔑した。
領土を守るために一戦も交えず、よく荊州の民に顔向けができるものだ。
張郃から見る蔡瑁は、たしかに品のよさそうな大将然とした男だったが、行動からするに、見掛け倒しなのであろう。
蔡瑁の担《かつ》ぐ劉琮は、等身大の人形のような雰囲気の美少年で、落ち着いているというよりは、魂が抜けてしまっているかのようだ。
蔡瑁をはじめ、張允《ちょういん》、宋忠らは、曹操軍を怖じて、目を合わせようとすらしない。
腰抜けどもめ、劉備たちのほうがまだ歯ごたえのある連中だった、と張郃は憤然とする。
これほど見ていてイライラする連中は久しぶりだった。
一方で、曹操は悠然とかまえていた。
すぐに劉備らを追撃することはせず、まっさきに襄陽の民の慰撫《いぶ》につとめた。
襄陽の民は羊の子のようにおとなしくしている。
これからを思い、怯え震えていた民は、曹操軍の規律正しさと、略奪をしないことに、安堵している様子だ。
曹操はおおいに寛大さを見せて、劉備に近かった者ですら、咎《とが》めることをしなかった。
さらに翌日、曹操はおのれの名望を高める行動に出た。
荊州の代表と言っていい人々……宋忠や王粲《おうさん》などの文化人から、蔡瑁、張允といった重臣たちまでを、それぞれ帝の名のもと、高位に推薦したのだ。
これにはみな感動し、静まり返っていた襄陽の街も少しずつ活気を取り戻していった。
一部の武人たちは反発し、地方で抵抗していた。
だが、それらは張遼と張郃の活躍により、つぎつぎと屠られていった。
なおも抵抗を続けていた者たちもいたが、大将の文聘《ぶんぺい》が降伏したことから指揮が崩壊。
雪崩を打つように曹操軍に首《こうべ》をたれてきた。
曹操が徐州の再現をのぞんでいないのだと、だれにもわかってきた。
すると現金なもので、曹操軍に協力する者がどんどん増えていった。
そして、平和で穏やかだった劉表時代のことは、遠い過去のようにあつかわれた。
もちろん、過去をなつかしみ、曹操軍を憎む者もいたかもしれない。
しかしその勢いの前には、もはや抵抗することも、愚痴をいうことすらもかなわない。
心ある者たちはこころのなかで、劉備についていった人々の運命を想い、ため息をつくしかできなくなった。
曹操が劉備を追撃することを決め、軽騎兵を中心に軍を編成したのは、襄陽を落ち着かせてから、しばらく経ってのことだった。
文聘を道案内にして、江陵《こうりょう》を目指す劉備たちを追うのである。
軽騎兵には、新野で煮え湯を飲まされた者たちを含め、精鋭がそろっている。
もちろん、そのなかに張郃も含まれていた。
つづく
襄陽城《じょうようじょう》に入るには新野《しんや》と樊城《はんじょう》を経過せねばならない。
もはや廃墟と化した新野城を横目に、無人の樊城を過ぎ、ようやく曹操軍は襄陽城へ入った。
それまでの道中は、張郃《ちょうこう》にとっては苦々しいものだった。
曹操は劉備と諸葛亮とやらの手際をほめていたが、こてんぱんにやられたほうとしては、笑ってなどいられない。
とくに張郃は、悔しさがまったく晴れず、朝はだれよりも早く起きては、ひとり槍の鍛錬に励むようになっていた。
だれに命じられたわけでもない。
ただ、無性に、そうしなければと思ってしまうのだ。
燃え盛る新野城で見た、趙子龍のぞっとするような凄惨な笑み。
あいつを二度と笑わせない。
今度はほえ面をかかせてやる!
そんな張郃に付き合う副将の劉青《りゅうせい》は毎朝眠そうで、
「ほどほどにしませぬと、いざというとき疲れてしまいますぞ」
と、ほかの者ならぶん殴られそうなことを言う。
劉白《りゅうはく》は真面目なところを見せて、張郃の鍛錬の相手をせっせと務めていた。
かれらの様子を知った曹洪などは、
「過度にやる気をみせておいて、丞相から多く恩賞を引き出そうという魂胆なのだろう」
と、ケチな難癖をつけてきた。
張郃はそれをまったく無視した。
曹洪は趙子龍とじかに戦っていない。
趙子龍……あの男こそが劉備の首をとるための障壁だ。
張郃はそう信じ、襄陽城に入るその朝も、けんめいに槍の鍛錬に励んだのだった。
そして、昼過ぎに曹操軍は襄陽城に入った。
蔡瑁《さいぼう》らは曹操に平身低頭といったふうで、だれひとり曹操軍を妨害する者はいなかった。
『気骨《きこつ》のない奴らだ』
張郃は内心でつよく蔡瑁らを軽蔑した。
領土を守るために一戦も交えず、よく荊州の民に顔向けができるものだ。
張郃から見る蔡瑁は、たしかに品のよさそうな大将然とした男だったが、行動からするに、見掛け倒しなのであろう。
蔡瑁の担《かつ》ぐ劉琮は、等身大の人形のような雰囲気の美少年で、落ち着いているというよりは、魂が抜けてしまっているかのようだ。
蔡瑁をはじめ、張允《ちょういん》、宋忠らは、曹操軍を怖じて、目を合わせようとすらしない。
腰抜けどもめ、劉備たちのほうがまだ歯ごたえのある連中だった、と張郃は憤然とする。
これほど見ていてイライラする連中は久しぶりだった。
一方で、曹操は悠然とかまえていた。
すぐに劉備らを追撃することはせず、まっさきに襄陽の民の慰撫《いぶ》につとめた。
襄陽の民は羊の子のようにおとなしくしている。
これからを思い、怯え震えていた民は、曹操軍の規律正しさと、略奪をしないことに、安堵している様子だ。
曹操はおおいに寛大さを見せて、劉備に近かった者ですら、咎《とが》めることをしなかった。
さらに翌日、曹操はおのれの名望を高める行動に出た。
荊州の代表と言っていい人々……宋忠や王粲《おうさん》などの文化人から、蔡瑁、張允といった重臣たちまでを、それぞれ帝の名のもと、高位に推薦したのだ。
これにはみな感動し、静まり返っていた襄陽の街も少しずつ活気を取り戻していった。
一部の武人たちは反発し、地方で抵抗していた。
だが、それらは張遼と張郃の活躍により、つぎつぎと屠られていった。
なおも抵抗を続けていた者たちもいたが、大将の文聘《ぶんぺい》が降伏したことから指揮が崩壊。
雪崩を打つように曹操軍に首《こうべ》をたれてきた。
曹操が徐州の再現をのぞんでいないのだと、だれにもわかってきた。
すると現金なもので、曹操軍に協力する者がどんどん増えていった。
そして、平和で穏やかだった劉表時代のことは、遠い過去のようにあつかわれた。
もちろん、過去をなつかしみ、曹操軍を憎む者もいたかもしれない。
しかしその勢いの前には、もはや抵抗することも、愚痴をいうことすらもかなわない。
心ある者たちはこころのなかで、劉備についていった人々の運命を想い、ため息をつくしかできなくなった。
曹操が劉備を追撃することを決め、軽騎兵を中心に軍を編成したのは、襄陽を落ち着かせてから、しばらく経ってのことだった。
文聘を道案内にして、江陵《こうりょう》を目指す劉備たちを追うのである。
軽騎兵には、新野で煮え湯を飲まされた者たちを含め、精鋭がそろっている。
もちろん、そのなかに張郃も含まれていた。
つづく
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さて、本日めでたくブログ開設6000日目を迎えました(^^♪
記念作品は、ちょっと準備がありますので、午後からの更新とさせていただきます。
どうぞおたのしみにー!
ではでは、またのちほどお会いしましょう(*^▽^*)