※
さて、またも時間を遡る。
趙雲は広漢に到着するなり、次の行動について迷った。
まるで火の玉のようになって、ここまで我武者羅に馬を駆ってきたわけであるが、さて、相手の規模もわからなければ、正確な位置もわからない。
第一、孔明を略取せしめた時点で、目的は果たせたのだとしたら、とっくにかれらは蜀から引き上げていることもかんがえられる。
最悪の場合、孔明はすでに死んでしまっている可能性もあるのだが…
いいや。
趙雲は、それを強く打ち消した。
それは有り得ない。
もしあれの身に凶事が降りかかれば、おのれの身に、なんらかの兆しが起こるであろうと、なんの根拠もなかったが、趙雲は信じていた。
新野で出会ってより、ずっと身近で守っていた者、だれより心を寄せた者である。
ふつりと糸が切れてしまうように、手繰った先が虚無になっているなどと、ありえない。
生きている。
かならず生きている。
そう念じ、あせるおのれを叱りつつ、さらに先に進む趙雲の背後では、酒が入ったために気が強くなっている費文偉が、あれこれと偉度に話かけていた。
うるさがられても話をやめないでいるうちに、文偉は、自分と偉度の年が、さほどちがわない、ということを発見した。
「ならば、これもなにかの縁。どうだ、義兄弟にならぬか」
「ヤダ」
義兄弟の申し出は、わずか数秒で破談した。
なぜだ、と決まり悪くぶちぶち言っている文偉をよそに、偉度は前方にいる趙雲に声をかける。
「趙将軍、費将軍にお会いなされますか。もし話をつけられるのであれば、兵をお借りしたほうがよろしいかと」
うむ、と偉度の提案を吟味しつつ、趙雲は首だけをふりかえらせる。
趙雲は、偉度の目の中に、おのれと同じ危惧を読み取った。
「終風村への道は、あとは一本道。そうだな、文偉」
はい、と文偉が答えるのを確認し、趙雲は決断した。
「よし、文偉、頼まれて欲しいのであるが、従兄殿に会いに行き、兵卒を借りてきて欲しい。事情は話して構わぬ。ただし、李巌にはそれと悟られぬようにするのだ」
「李将軍には内密に、ということでございますか。なぜです」
「李将軍は、もともと軍師に、あまりよい感情を抱いておられぬ」
「李将軍の、中央復帰を願うつけとどけを、軍師はすべて突っ返しておりましたからな」
と、趙雲の言葉を、偉度が補足した。
「此度のことに、だれがどれほどに関わっているのかが読めぬ。村ごと人が入れ替わっていたことを、李巌がほんとうに知らずにいたのかが疑問だ」
「それをおっしゃるならば、遠慮はいりませぬ。わが従兄とて同様でございましょう」
「その見極めは、おまえに任せる。俺と偉度は先に終風村に向かう。おまえは、兵卒たちと一緒に、村へ来るのだ。よいな」
文偉は、不服そうにしていたが、趙雲が再三、行け、と命ずると、やがて何度も何度も振り返りながら、費観の陣のあるところへと、馬を走らせていった。
※
そのうしろ姿がやがて木々に遮られて完全に見えなくなると、偉度は言った。
「これで文偉は無事なところへ逃れられる。かんがえましたな、趙将軍。文偉はなかなか聡い。われらの意図に気づいて、嫌だとダダをこねるのではと、ひやりといたしましたが」
「だから、義兄弟の申し出も断ったのか?」
馬上の偉度は、趙雲の問いに、ふいと顔をそむけた。
「ちがいます。余計な荷物は背負い込みたくない。だれかの義兄弟になるのは、二度とご免です」
「そうか。すまなかった」
「謝ることはありません。気を遣われるのも好きではない。さあ、村へと参りましょう」
偉度に促される形で、趙雲はふたたび馬を駆って、前方へと進んだ。
何の変哲もない山郷である。
そこかしこに、人の手の入っている気配はある。
だが、それはあくまで形跡のみで、人間そのものはどこにもいない。
そして、この空気。
終風村に近づくにつれ、大気中にぴりぴりとした空気が漲っている。
だれかの悲鳴が、声をなくして、永遠に大気に閉じ込められているような、落ち着かない気配だ。
「近いな」
趙雲がつぶやくと、偉度も顔に緊張を走らせ、無言のままうなずいた。
※
村の入り口に向かう道は、ゆるやかな坂道となっている。
斜面の上に村はあり、近づくと、木々の隙間から楼閣が見えた。
楼閣は三階建ての、山中のものにしては立派なしつらえで、村の財力を示している。
おそらく見張りも兼ねているのだろう。
呉の細作である芝蘭の話からすれば、村はまるごと住人と入れ替わり、呉の細作、そして魏の細作が共同して住んでいたという。
ふもとの木に馬を繋ぎ、足音を忍ばせ、そおっと村に近づいていくと、ふと、楼閣に、人影が見えた。
この村に近づいてから、はじめての人影である。
目を凝らす趙雲であるが、それが何者かはわからない。
だが、よく見ると、楼閣の二階には、兵卒たちが往来しているのがわかった。
それは、日光を反射する鎧や武器の輝きでそれと知れた。
「魏か、呉か、どちらだ?」
「こう遠くてはわかりませぬ。近づきますか」
「いや…偉度、あちらでも、なにか光っておるぞ」
趙雲が示す先には、鬱蒼とした森がある。
しかし、その一箇所で、木漏れ日を反射して、きらきらしたものが光っているのである。
楼閣の兵士たちに見つからないように注意しながら、趙雲は前方に進み、光るものを確認した。
それは、まだ温かさを残している、兵卒の遺体であった。
ただの兵卒ではない様子が、黒い鎧、玄人をおもわせる手入れの行き届いた武器や鎧のしつらえから見て取れる。
体が硬くなっていないところから見て、まだ死んでから間もない。
「戦いがあったのだな。趙将軍、どうやら、魏と呉の戦争を、蜀の地で行った様子ですよ」
偉度が言う方角を見ると、わずかに離れた先に、大きな山犬が息絶えて横たわっていた。
「呉の細作の娘、芝蘭があやつっていた山犬でございましょう。こちらもまだ温かい…どうやら、魏と呉は連合していない様子ですな。これはよい兆しでございますぞ」
「なぜ」
「魏も呉も、いまだこの地を離れていない、ということは、かれらがいまもって、本来の目的を果たせていない、ということでございましょう。もし軍師を殺めるつもりならば、この地にいつまでも留まる理由はないし、逆に略取せしめるのが目的にしても、長逗留は命取り。なのに、いまだにここに留まっている、ということは、軍師は無事、ということです」
「逃げたのであろうか」
「あるいは、逃がされたのか。呉が軍師を捕らえる理由はないので、おそらく助けが入ったとしたら、呉かもしれませぬ。此度の劉括に帝位を譲るという話、魏や蜀にはよい話かもしれませぬが、呉にとっては一大事。一度は引き上げたものの、魏の動きを知り、取って返してきたのやもしれませぬぞ」
「なればよいが。さて、とすると、軍師はどこだ?」
「あれでは?」
と、偉度が、となりにいる趙雲の腕をつよく引っ張り、倒木の陰に隠れるように指示をする。
そおっと木陰からのぞくと、地面に伏した黒い鎧の兵卒と似た格好をした兵卒たちが、両脇に抱えるようにして背の低い若者を引きずっていくところであった。
そのうしろ姿は孔明とは似ても似つかない。
安堵するものの、さて、あの若者はなにものか。
「尾けましょう。ここにいたら、馬があるので、すぐに見つかる。それよりも、連中が油断をしているあいだに、村に入り込んだほうがいい」
「油断をしていると、なぜわかる」
すると、偉度はふふん、と鼻を鳴らした。
「油断も隙もない細作がどこで気を抜くかといったら、ひと仕事終えたとき、それに限ります。ともかく、やつらは仕事を終わらせたようです。いまならば、侵入はたやすい」
「だとよいが」
偉度の言葉を信じつつ、趙雲は足音を立てないように注意しながら、小柄な青年を両脇で引きずる男たちのあとに従った。
やがて、かれらは村の前までやってくると、堂々と正門を叩き、中に入っていく。
茂みに隠れて様子を見る二人であるが、さすがに正門を突破するのはむずかしいようだ。
村はぐるりと高い塀に囲まれており、櫓と楼閣に配置された兵士たちが、それぞれ侵入者を見張っている。
近場の木から飛び降りる、あるいは櫓の兵を倒して侵入、という策は取れなさそうだ。
「だめか」
ぼやく偉度に、趙雲は言った。
「たやすいと言っていなかったか」
「こうなれば、仕方がない。一度、馬へもどりますよ。用意していたものが役に立つ」
「なんだ、それは」
だが偉度は答えず、やはり疾風のように森を駆け下りると、だれにも見つかっていないことを確認し、馬に積んでいた荷物を外した。
そして、それを趙雲にも分けた。
荷物を受け取った趙雲は、わけがわからず、眉をしかめる。
「これは?」
「見たままのもの」
言いつつ、偉度は臆面もなく、みずから纏う衣を手早く脱ぎはじめている。
「なにをするつもりだ?」
「侵入です。ほら、将軍もぼんやりなさらずに、早いところ御召しかえなさいませ」
「…偉度よ、おまえが何をかんがえているかは、おおかたの予想がつくが、それに俺も噛め、というのは過ちだとおもうぞ」
「冷たいことをおっしゃる。将軍は、有望な若い士人ひとりを、敵地にひとりで乗り込ませようとおっしゃるか? 軍師があとで聞かれたら、子龍は薄情者よと嘆かれましょうな」
趙雲は、あくまで慎重な人間であり、勝算のとぼしい賭けには決して乗らない。
だが、この先行き不透明な状況において、打つ手もなくぐずぐずしていることはできなかった。
こうしているあいだにも、孔明がどうなっているのかわからないのである。
それに、こういった行動に経験の多い偉度がかんがえたことなのであるから、案外、よい策かもしれぬ。
自分をごまかし、趙雲は受け取った荷物を解き、着替えをはじめた。
※
数刻後…
終風村の櫓を見張っていた兵卒は、村に近づく二人組を見つけ、鋭く地上へ呼びかけた。
「おい、おまえたちは何者だ!」
笠をかぶった二人組みのうち、一人が笠を上げて、櫓を見上げる。
その白い手が笠の縁を掴み、花の顔(かんばせ)を表にあらわした途端、櫓の兵士は、そのまま地面に落ちてしまうくらいの錯覚をおぼえた。
それほどに、女は美しかった。
垢抜けて、洗練された雰囲気、文句の付けようのないほどに整った容姿。
目から唇から、まるで花のように男を誘う香りがあふれているようではないか。
匂いたつ美女、というのはこういう女のことを言うにちがいない。
「道に迷った、旅芸人でございます。仲間たちとはぐれ、しかも日が暮れてしまいました。お慈悲でございます、どうかお宿を取らせてくださいまし」
殊勝なか細い声も、あわれをさそうものである。
とはいえ、その兵卒は、決して村にはだれもいれてはならないと、きつく言われていた。
情は動かされたものの、素直に諾というわけにはいかない。
「だめだ、すぐに引き返せ!」
「お慈悲でございます。どうか」
そのとき、女の声を後押しするかのように、甲高く山々をぬって、狼の遠吠えが四方に響き渡った。
狼に、「例の二人」を追った者たちが襲われたことは、兵卒も知っていた。
おもわず、手にした槍を強く握りなおす。
「ほら、あのように狼すら出ているのでございますよ」
地上の女はさらに言う。
いかん。
ここで返せといえば、ほかの土地に女が回ったとき、あそこの村はおかしかったと噂になってしまうのではないか。
「しばし待て」
兵卒はそういうと、士卒長のもとへ行き、二人組みの男女の旅芸人が村の戸を叩いていると報告した。
狼の声がさきほどからこだまとなって、山間を走っている。
たしかにこの状態で旅人を追い返せば、無用な噂が麓の里に出回るのは確実であった。
「仕方ない。中に入れろ。ただし、二度と出すことはできぬが」
了解しましたといって、兵卒は櫓へと取って返した。
あらわれた女が、絶佳であることは黙っておいた。
そうでなければ、士卒長は、女を独り占めにしてしまうだろうから。
どうせ殺してしまう女ならば、多少はこちらの役に立ってもらわねばならぬ。
暗い楽しみを見つけ、そのときから兵卒の理性が狂い始めた。
つづく……
(旧サイト「はさみの世界」 初出・2005/07/22)
さて、またも時間を遡る。
趙雲は広漢に到着するなり、次の行動について迷った。
まるで火の玉のようになって、ここまで我武者羅に馬を駆ってきたわけであるが、さて、相手の規模もわからなければ、正確な位置もわからない。
第一、孔明を略取せしめた時点で、目的は果たせたのだとしたら、とっくにかれらは蜀から引き上げていることもかんがえられる。
最悪の場合、孔明はすでに死んでしまっている可能性もあるのだが…
いいや。
趙雲は、それを強く打ち消した。
それは有り得ない。
もしあれの身に凶事が降りかかれば、おのれの身に、なんらかの兆しが起こるであろうと、なんの根拠もなかったが、趙雲は信じていた。
新野で出会ってより、ずっと身近で守っていた者、だれより心を寄せた者である。
ふつりと糸が切れてしまうように、手繰った先が虚無になっているなどと、ありえない。
生きている。
かならず生きている。
そう念じ、あせるおのれを叱りつつ、さらに先に進む趙雲の背後では、酒が入ったために気が強くなっている費文偉が、あれこれと偉度に話かけていた。
うるさがられても話をやめないでいるうちに、文偉は、自分と偉度の年が、さほどちがわない、ということを発見した。
「ならば、これもなにかの縁。どうだ、義兄弟にならぬか」
「ヤダ」
義兄弟の申し出は、わずか数秒で破談した。
なぜだ、と決まり悪くぶちぶち言っている文偉をよそに、偉度は前方にいる趙雲に声をかける。
「趙将軍、費将軍にお会いなされますか。もし話をつけられるのであれば、兵をお借りしたほうがよろしいかと」
うむ、と偉度の提案を吟味しつつ、趙雲は首だけをふりかえらせる。
趙雲は、偉度の目の中に、おのれと同じ危惧を読み取った。
「終風村への道は、あとは一本道。そうだな、文偉」
はい、と文偉が答えるのを確認し、趙雲は決断した。
「よし、文偉、頼まれて欲しいのであるが、従兄殿に会いに行き、兵卒を借りてきて欲しい。事情は話して構わぬ。ただし、李巌にはそれと悟られぬようにするのだ」
「李将軍には内密に、ということでございますか。なぜです」
「李将軍は、もともと軍師に、あまりよい感情を抱いておられぬ」
「李将軍の、中央復帰を願うつけとどけを、軍師はすべて突っ返しておりましたからな」
と、趙雲の言葉を、偉度が補足した。
「此度のことに、だれがどれほどに関わっているのかが読めぬ。村ごと人が入れ替わっていたことを、李巌がほんとうに知らずにいたのかが疑問だ」
「それをおっしゃるならば、遠慮はいりませぬ。わが従兄とて同様でございましょう」
「その見極めは、おまえに任せる。俺と偉度は先に終風村に向かう。おまえは、兵卒たちと一緒に、村へ来るのだ。よいな」
文偉は、不服そうにしていたが、趙雲が再三、行け、と命ずると、やがて何度も何度も振り返りながら、費観の陣のあるところへと、馬を走らせていった。
※
そのうしろ姿がやがて木々に遮られて完全に見えなくなると、偉度は言った。
「これで文偉は無事なところへ逃れられる。かんがえましたな、趙将軍。文偉はなかなか聡い。われらの意図に気づいて、嫌だとダダをこねるのではと、ひやりといたしましたが」
「だから、義兄弟の申し出も断ったのか?」
馬上の偉度は、趙雲の問いに、ふいと顔をそむけた。
「ちがいます。余計な荷物は背負い込みたくない。だれかの義兄弟になるのは、二度とご免です」
「そうか。すまなかった」
「謝ることはありません。気を遣われるのも好きではない。さあ、村へと参りましょう」
偉度に促される形で、趙雲はふたたび馬を駆って、前方へと進んだ。
何の変哲もない山郷である。
そこかしこに、人の手の入っている気配はある。
だが、それはあくまで形跡のみで、人間そのものはどこにもいない。
そして、この空気。
終風村に近づくにつれ、大気中にぴりぴりとした空気が漲っている。
だれかの悲鳴が、声をなくして、永遠に大気に閉じ込められているような、落ち着かない気配だ。
「近いな」
趙雲がつぶやくと、偉度も顔に緊張を走らせ、無言のままうなずいた。
※
村の入り口に向かう道は、ゆるやかな坂道となっている。
斜面の上に村はあり、近づくと、木々の隙間から楼閣が見えた。
楼閣は三階建ての、山中のものにしては立派なしつらえで、村の財力を示している。
おそらく見張りも兼ねているのだろう。
呉の細作である芝蘭の話からすれば、村はまるごと住人と入れ替わり、呉の細作、そして魏の細作が共同して住んでいたという。
ふもとの木に馬を繋ぎ、足音を忍ばせ、そおっと村に近づいていくと、ふと、楼閣に、人影が見えた。
この村に近づいてから、はじめての人影である。
目を凝らす趙雲であるが、それが何者かはわからない。
だが、よく見ると、楼閣の二階には、兵卒たちが往来しているのがわかった。
それは、日光を反射する鎧や武器の輝きでそれと知れた。
「魏か、呉か、どちらだ?」
「こう遠くてはわかりませぬ。近づきますか」
「いや…偉度、あちらでも、なにか光っておるぞ」
趙雲が示す先には、鬱蒼とした森がある。
しかし、その一箇所で、木漏れ日を反射して、きらきらしたものが光っているのである。
楼閣の兵士たちに見つからないように注意しながら、趙雲は前方に進み、光るものを確認した。
それは、まだ温かさを残している、兵卒の遺体であった。
ただの兵卒ではない様子が、黒い鎧、玄人をおもわせる手入れの行き届いた武器や鎧のしつらえから見て取れる。
体が硬くなっていないところから見て、まだ死んでから間もない。
「戦いがあったのだな。趙将軍、どうやら、魏と呉の戦争を、蜀の地で行った様子ですよ」
偉度が言う方角を見ると、わずかに離れた先に、大きな山犬が息絶えて横たわっていた。
「呉の細作の娘、芝蘭があやつっていた山犬でございましょう。こちらもまだ温かい…どうやら、魏と呉は連合していない様子ですな。これはよい兆しでございますぞ」
「なぜ」
「魏も呉も、いまだこの地を離れていない、ということは、かれらがいまもって、本来の目的を果たせていない、ということでございましょう。もし軍師を殺めるつもりならば、この地にいつまでも留まる理由はないし、逆に略取せしめるのが目的にしても、長逗留は命取り。なのに、いまだにここに留まっている、ということは、軍師は無事、ということです」
「逃げたのであろうか」
「あるいは、逃がされたのか。呉が軍師を捕らえる理由はないので、おそらく助けが入ったとしたら、呉かもしれませぬ。此度の劉括に帝位を譲るという話、魏や蜀にはよい話かもしれませぬが、呉にとっては一大事。一度は引き上げたものの、魏の動きを知り、取って返してきたのやもしれませぬぞ」
「なればよいが。さて、とすると、軍師はどこだ?」
「あれでは?」
と、偉度が、となりにいる趙雲の腕をつよく引っ張り、倒木の陰に隠れるように指示をする。
そおっと木陰からのぞくと、地面に伏した黒い鎧の兵卒と似た格好をした兵卒たちが、両脇に抱えるようにして背の低い若者を引きずっていくところであった。
そのうしろ姿は孔明とは似ても似つかない。
安堵するものの、さて、あの若者はなにものか。
「尾けましょう。ここにいたら、馬があるので、すぐに見つかる。それよりも、連中が油断をしているあいだに、村に入り込んだほうがいい」
「油断をしていると、なぜわかる」
すると、偉度はふふん、と鼻を鳴らした。
「油断も隙もない細作がどこで気を抜くかといったら、ひと仕事終えたとき、それに限ります。ともかく、やつらは仕事を終わらせたようです。いまならば、侵入はたやすい」
「だとよいが」
偉度の言葉を信じつつ、趙雲は足音を立てないように注意しながら、小柄な青年を両脇で引きずる男たちのあとに従った。
やがて、かれらは村の前までやってくると、堂々と正門を叩き、中に入っていく。
茂みに隠れて様子を見る二人であるが、さすがに正門を突破するのはむずかしいようだ。
村はぐるりと高い塀に囲まれており、櫓と楼閣に配置された兵士たちが、それぞれ侵入者を見張っている。
近場の木から飛び降りる、あるいは櫓の兵を倒して侵入、という策は取れなさそうだ。
「だめか」
ぼやく偉度に、趙雲は言った。
「たやすいと言っていなかったか」
「こうなれば、仕方がない。一度、馬へもどりますよ。用意していたものが役に立つ」
「なんだ、それは」
だが偉度は答えず、やはり疾風のように森を駆け下りると、だれにも見つかっていないことを確認し、馬に積んでいた荷物を外した。
そして、それを趙雲にも分けた。
荷物を受け取った趙雲は、わけがわからず、眉をしかめる。
「これは?」
「見たままのもの」
言いつつ、偉度は臆面もなく、みずから纏う衣を手早く脱ぎはじめている。
「なにをするつもりだ?」
「侵入です。ほら、将軍もぼんやりなさらずに、早いところ御召しかえなさいませ」
「…偉度よ、おまえが何をかんがえているかは、おおかたの予想がつくが、それに俺も噛め、というのは過ちだとおもうぞ」
「冷たいことをおっしゃる。将軍は、有望な若い士人ひとりを、敵地にひとりで乗り込ませようとおっしゃるか? 軍師があとで聞かれたら、子龍は薄情者よと嘆かれましょうな」
趙雲は、あくまで慎重な人間であり、勝算のとぼしい賭けには決して乗らない。
だが、この先行き不透明な状況において、打つ手もなくぐずぐずしていることはできなかった。
こうしているあいだにも、孔明がどうなっているのかわからないのである。
それに、こういった行動に経験の多い偉度がかんがえたことなのであるから、案外、よい策かもしれぬ。
自分をごまかし、趙雲は受け取った荷物を解き、着替えをはじめた。
※
数刻後…
終風村の櫓を見張っていた兵卒は、村に近づく二人組を見つけ、鋭く地上へ呼びかけた。
「おい、おまえたちは何者だ!」
笠をかぶった二人組みのうち、一人が笠を上げて、櫓を見上げる。
その白い手が笠の縁を掴み、花の顔(かんばせ)を表にあらわした途端、櫓の兵士は、そのまま地面に落ちてしまうくらいの錯覚をおぼえた。
それほどに、女は美しかった。
垢抜けて、洗練された雰囲気、文句の付けようのないほどに整った容姿。
目から唇から、まるで花のように男を誘う香りがあふれているようではないか。
匂いたつ美女、というのはこういう女のことを言うにちがいない。
「道に迷った、旅芸人でございます。仲間たちとはぐれ、しかも日が暮れてしまいました。お慈悲でございます、どうかお宿を取らせてくださいまし」
殊勝なか細い声も、あわれをさそうものである。
とはいえ、その兵卒は、決して村にはだれもいれてはならないと、きつく言われていた。
情は動かされたものの、素直に諾というわけにはいかない。
「だめだ、すぐに引き返せ!」
「お慈悲でございます。どうか」
そのとき、女の声を後押しするかのように、甲高く山々をぬって、狼の遠吠えが四方に響き渡った。
狼に、「例の二人」を追った者たちが襲われたことは、兵卒も知っていた。
おもわず、手にした槍を強く握りなおす。
「ほら、あのように狼すら出ているのでございますよ」
地上の女はさらに言う。
いかん。
ここで返せといえば、ほかの土地に女が回ったとき、あそこの村はおかしかったと噂になってしまうのではないか。
「しばし待て」
兵卒はそういうと、士卒長のもとへ行き、二人組みの男女の旅芸人が村の戸を叩いていると報告した。
狼の声がさきほどからこだまとなって、山間を走っている。
たしかにこの状態で旅人を追い返せば、無用な噂が麓の里に出回るのは確実であった。
「仕方ない。中に入れろ。ただし、二度と出すことはできぬが」
了解しましたといって、兵卒は櫓へと取って返した。
あらわれた女が、絶佳であることは黙っておいた。
そうでなければ、士卒長は、女を独り占めにしてしまうだろうから。
どうせ殺してしまう女ならば、多少はこちらの役に立ってもらわねばならぬ。
暗い楽しみを見つけ、そのときから兵卒の理性が狂い始めた。
つづく……
(旧サイト「はさみの世界」 初出・2005/07/22)