「なあ、偉度。そういえば、趙将軍の御宅はこの近くだったよな。近くに来たついでだし、やはり声をかけてみないか」
「なんて言って? あの人だって暇じゃないのだ。あまり迷惑をかけるな」
「偉度は、軍師にはわがまま言うのに、趙将軍には遠慮するのだな」
「趙将軍にわがままを言える人間は、赤ん坊と軍師ぐらいなものだ」
偉度が言うと、文偉は、ちらりと、
「貧乏人ども、どうして馬車に乗らないんだろう、歩いて移動だなんて信じられない。まめが出来たらどうしてくれる」
とぶつぶつ言いながら、どこまでもついてくる馬謖をちらりと見て、それから小走りに偉度の横に並ぶと言った。
「あいつ、おそらくずっと長星橋までついてくるぞ。あの界隈に顔見知りの多いわたしや休昭、それにミョーに肝の据わったおまえならば問題はないが、あれがついてくるとなると、話は別だ。あいつがまたなにか揉め事を起こしたら、軍師を探すどころじゃなくなる」
「なるほど、知恵が回るな」
偉度が、今回にかぎって『兄弟』たちではなく、偉度や休昭を頼みにするのには理由があった。
それは、『兄弟』たちが、それぞれの仕事に忙しく、手薄である、という事情もあったのだが、本音をいえば、やはり孔明が、妓楼に通いつめている、などという生臭い話を、やはりある種の幻想(夢、と言い換えても良いかもしれない)を孔明に抱いて忠誠を尽くしている彼らに聞かせたくなかったのだ。
まだ事情はわからないし、なにか理由があるかもしれない。
しかし、なにも明らかにならないうちに、話ばかり先行して、『兄弟』たちが動揺をすることを偉度は恐れた。
休昭や文偉は、そっそかしいし、立ち回りも世間ズレしていないので危なっかしいところもあるが、口は堅いし、なにより、孔明の名誉優先に動けると判断してのことだったのだ。
が、後ろについてくる、生意気盛りをとうに過ぎているはずのプライドのカタマリ、これは予想がつかない。
孔明の姻戚であるから、孔明の不利は馬謖の不利である。
そこは弁えて、莫迦なことはしないであろうが、なにぶん、変なところで素直なので、そのつもりはなくても、功名心や過剰なサービス心から、ぽろりと人に話してしまうかもしれない怖さがある。
文偉が言ったような、馬鹿馬鹿しい理由での妓楼通いというのならばいいとして、ほかの理由…まったく想像付かないが、どこぞの妓女に入れ込み、その世話を焼いている…ならば、これは緘口令である。
馬謖はそれを守れるか?
確率は99.99999…%といったところだろうか。
守れないほうの確率が。
「よし、では趙将軍のお屋敷によって行こう。話は、休昭、おまえがするのだ」
「なぜわたしが?」
「わたしは、先刻行って、断られたし、文偉も同じことになる可能性がある。だが、おまえの話ならば、ちゃんと聞いてくださるだろう」
「わたしだと、なぜ聞いてくださるのだ? 父上の絡みか?」
父親のせいで贔屓にされている、という言葉に、休昭は敏感である。
「あの人は、そういう贔屓はしないさ。ある意味、軍師よりずっと、冷酷なくらいの実力主義者だぞ。
おまえの話ならば聞く、というのは、おまえが子馬っぽいからだ。あの人はわたしや文偉のように、多少の嫌味も笑って流すか、あるいは百倍の嫌味で返すようなふてぶてしい輩ならば、趙将軍も平気でほったらかしにするが、おまえはそうじゃないからな」
「要するに、打たれ弱いから、気の毒なので、世話を焼いてくれる、と?」
「お、いまのはちゃんとすぐに判ったではないか。判ったところで行け」
「うれしくない理由だな…」
しょんぼりと背中を丸めて、趙子龍邸に向おうとする休昭に、馬謖が唄うように言う。
「それならば、わたしが行ってあげようか? わたしの知略を持ってすれば、趙将軍は腰をあげるさ」
「いいや、ますます動かない。休昭、襄陽産の真ばか坊ちゃんは無視していいから、行って来い」
偉度がすかさず否定すると、馬謖はとうとう堪忍袋の緒が切れたらしく、こめかみをぴくぴくとさせながら小刻みに身体を震わせて言った。
「だ・れ・が! 莫迦だって? まったく黙って聞いていれば、言ってくれるじゃないか! わたしが襄陽産の真ばかなら、君はなんなのだい?
聞いた話によれば、君は胡家の長子だという話だけれど、軍師に字を貰ったのだって? おかしいじゃないか。わたしの家と軍師の家は、姻戚だからね、軍師の交友範囲がそう広くないことも知っている。軍師が襄陽にお住まいになっていたころに、義陽の胡家と親交があったなんて聞いたことがない。
もちろん、胡家の名前は知っているさ。だがね、豪族の息子が、父親やほかの有力者ではなく、琅邪からの避難民で、一応の名前は通っていたけれど、どちらかといえば奇人ということで通っていた、まあ、ぶっちゃけ『荊州の人士とはちょっと違う』部類に思われていた軍師に字を貰った、ということが解せないのだよ。もしかして、君は胡家の子なんかじゃなくて…」
とうとうと流れるようにつづく馬謖の言葉は、ひゅん、と風を切ったものに遮られた。
それは、偉度が投げた足元の小石である。
小石は、馬謖の頬をかすめ、そして地面に落ちて、ころころと転がった。
転がる音が、いつもならば聞こえないほど小さいものであるにもかかわらず、張りつめた空気のなかでは、やけに大きく響いた。
馬謖は、小石の掠めた頬をさすりつつ、唸るように言った。
「石を投げたね?」
偉度は、若さに不釣合いなほどの殺気を身に纏いつつ、敢然と馬謖の怒りのこもった目線を受け止めた。
「投げたがどうした」
「忘れているかもしれないけれど、こちらは成都県の令なのだよ? たかが主簿の癖に、そして年下の癖に、石を投げるだなんて、どいういうことになるか、わかっているのかな?」
「わかっているさ。あんたが縊られる直前の家鴨みたいに、大騒ぎするだろうってことも、想像できるよ」
「ふん、判っているなら、お望みどおりしてあげようじゃないか。君も、ここで終わりだね」
「そうかな。終りかどうかなんて、わたしが決めることだ。騒げないようにする手段なんて、いくらでもある。生きているからといって、必ず口を利けるとは限らないよ」
淡々と言葉をつむぎつつ、偉度はいつもの、ちょっと嫌味で皮肉屋な文官の姿から、徐々に、本来の姿を取り戻しつつあった。
「偉度、怖い! 本気モードに入っているよ!」
うろたえつつも、どうやって間に入るかを考えている文偉の横で、休昭は踵を返して走り出した。
あわてて文偉は休昭を呼び止める。
「おい、偉度を一緒に止めてくれ!」
「ダメだ。父上がおっしゃっていた。もし、偉度が我を忘れるようなことがあったら、もう他の者では止められないから、軍師か趙将軍を呼べって! すぐに呼んでくるから、おまえは偉度を止めていてくれ!」
「おまえ、無茶をさらりと言うな!」
「がんばれ、文偉!」
「がんばれって…」
遠ざかる休昭の背中を見送りつつ、そろりと目線を偉度に戻せば、ふざけた調子はどこにもなく、ただひたすら、猛禽のように、目の前の敵に集中している偉度の姿があった。
偉度は、地味にして、わざと自分の容貌のよさを隠しているところがあるが、こうして見せる素の姿は、思わず背筋をぞくりとさせるような…この場には似合わない表現ではあるが、艶めかしさがにじんでいる。
思わず見とれていた自分に気付き、文偉は大きく頭を振った。
いかんいかん、わたしと偉度、もちろん休昭も含めて、この友情もまた、さきほどの喩えではないが、並べられた杯だ。
「偉度、やめろ!」
「うるさい」
静かに偉度はいうが、その中に潜む殺気に押され、文偉は言葉を飲み込みかける。
が、ここで偉度を止めなければ、大変なことになる、と己を励まして、あえて口を開いた。
「莫迦は相手にしないのじゃなかったのか? こんな莫迦につられて、いままでの積み重ねを無駄にするつもりなのか?」
文偉は、直感で言葉をつむいだのであるが、それは意外な効果をもたらし、偉度は、険しい表情を解いて、文偉を見た。
お、いいぞ。
文偉は己を励まして、言葉をつづける。
「おまえがこんな莫迦に足を引っ張られてしまったなら、軍師だってお嘆きになる! それでもよいのか?」
偉度が、文偉の言葉に説得され、徐々に険しさを解いていくのに比例して、馬謖のほうは、怒りをにじませ文偉をはげしくにらみつけた。
「だれが『こんな莫迦』だって? 没落豪族の貧乏小役人ふぜいが、舐めた口を!」
「あんたは、そういうところが莫迦だ!」
「年上に向かってなんだ、どいつもこいつも! 最初は親しげにしてきたくせに、結局、みんなそうやって本性を出して、人をガッカリさせるばかりだ! わたしがおまえたちを莫迦にしたんじゃない、おまえたちが最初にわたしを莫迦にしたんじゃないか! だから、わたしは、その数倍も莫迦にしてやるのさ! わたしがなにをしたっていうんだ。低脳ども!」
「莫迦に莫迦と真正面から言うのも、莫迦だぞ、文偉」
静かな声が場を制するように響き、見れば、いつのまにか到着していのか、趙雲が、背中に電源の落ちたアイボのようにぐったりしている休昭を背負って立っていた。
「仲裁に来たのだが、いまは偉度と馬太守ではなく、文偉と馬太守か」
「申し訳ありませぬ」
偉度は、素直に頭を下げた。
文偉はそれを見て、なんとなく、虎に従う小動物の図を思い出した。
「おまえたちは、俺よりも言葉を大事に扱わねばならぬ職についているはずなのに、どうも自覚が足りぬようだな。醜い言葉はそれ自体が石つぶてだ。
おまえたちは何気なくこぼしたものでも、相手をどう傷つけているのかわからぬ。それゆえ慎重にならねばならぬ。斯様なことは、古人の言葉を引くまでもなく、当然の道理だと思っていたが」
「返す言葉もございません」
偉度と文偉は素直に頭を下げるが、馬謖だけはつんと顔をそらして、頭を下げようとしない。
「わたしは頭なんか下げないよ。あんたの言葉が間違っているというわけじゃないけれど、わたしの誇りが傷つけられたことは、確かなのだからね」
「論点がずれているだろう。素直に謝れ。というか、わたしも悪かったが」
偉度がたしなめると、馬謖はふんと鼻でせせら笑って、言った。
「当然の言葉だね。でも、わたしの怒りが、その程度で治まると思ったのかい?」
偉度はもてるかぎりの忍耐力を駆使しつつ、趙雲に言った。
「趙将軍、もう一回、こいつに、得意技の説教をお見舞いしてください」
「いまのそやつには、なにを言っても聞こえまい。それよりも、日が落ちるというのに、三人で妓楼の軍師を探しに行くというのか」
「はい。三人だけでは心もとないので、将軍にもご同行いただければと」
「わたしを入れて四人じゃないのかい」
意地になっているのか、まだ付いてこようとする馬謖に、趙雲は言った。
「おまえは、おとなしく白まゆげの家の宅配ボックスの2番目に入っておれ。まあ、あのあたりも、あまり若者が長くうろついていて、よい街ではない。付いていってもよいが、軍師を探しきれるかどうかは自信がないぞ。あいつ、隠れるとなると、徹底的に隠れるからな」
「でも、真っ先に見つけるのも将軍でしょう」
まあな、と生返事をする趙雲に、さあさあ、となかば強引に言って、偉度と文偉と休昭、おまけの馬謖は、長星橋へと向かったのであった。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/09/04)
「なんて言って? あの人だって暇じゃないのだ。あまり迷惑をかけるな」
「偉度は、軍師にはわがまま言うのに、趙将軍には遠慮するのだな」
「趙将軍にわがままを言える人間は、赤ん坊と軍師ぐらいなものだ」
偉度が言うと、文偉は、ちらりと、
「貧乏人ども、どうして馬車に乗らないんだろう、歩いて移動だなんて信じられない。まめが出来たらどうしてくれる」
とぶつぶつ言いながら、どこまでもついてくる馬謖をちらりと見て、それから小走りに偉度の横に並ぶと言った。
「あいつ、おそらくずっと長星橋までついてくるぞ。あの界隈に顔見知りの多いわたしや休昭、それにミョーに肝の据わったおまえならば問題はないが、あれがついてくるとなると、話は別だ。あいつがまたなにか揉め事を起こしたら、軍師を探すどころじゃなくなる」
「なるほど、知恵が回るな」
偉度が、今回にかぎって『兄弟』たちではなく、偉度や休昭を頼みにするのには理由があった。
それは、『兄弟』たちが、それぞれの仕事に忙しく、手薄である、という事情もあったのだが、本音をいえば、やはり孔明が、妓楼に通いつめている、などという生臭い話を、やはりある種の幻想(夢、と言い換えても良いかもしれない)を孔明に抱いて忠誠を尽くしている彼らに聞かせたくなかったのだ。
まだ事情はわからないし、なにか理由があるかもしれない。
しかし、なにも明らかにならないうちに、話ばかり先行して、『兄弟』たちが動揺をすることを偉度は恐れた。
休昭や文偉は、そっそかしいし、立ち回りも世間ズレしていないので危なっかしいところもあるが、口は堅いし、なにより、孔明の名誉優先に動けると判断してのことだったのだ。
が、後ろについてくる、生意気盛りをとうに過ぎているはずのプライドのカタマリ、これは予想がつかない。
孔明の姻戚であるから、孔明の不利は馬謖の不利である。
そこは弁えて、莫迦なことはしないであろうが、なにぶん、変なところで素直なので、そのつもりはなくても、功名心や過剰なサービス心から、ぽろりと人に話してしまうかもしれない怖さがある。
文偉が言ったような、馬鹿馬鹿しい理由での妓楼通いというのならばいいとして、ほかの理由…まったく想像付かないが、どこぞの妓女に入れ込み、その世話を焼いている…ならば、これは緘口令である。
馬謖はそれを守れるか?
確率は99.99999…%といったところだろうか。
守れないほうの確率が。
「よし、では趙将軍のお屋敷によって行こう。話は、休昭、おまえがするのだ」
「なぜわたしが?」
「わたしは、先刻行って、断られたし、文偉も同じことになる可能性がある。だが、おまえの話ならば、ちゃんと聞いてくださるだろう」
「わたしだと、なぜ聞いてくださるのだ? 父上の絡みか?」
父親のせいで贔屓にされている、という言葉に、休昭は敏感である。
「あの人は、そういう贔屓はしないさ。ある意味、軍師よりずっと、冷酷なくらいの実力主義者だぞ。
おまえの話ならば聞く、というのは、おまえが子馬っぽいからだ。あの人はわたしや文偉のように、多少の嫌味も笑って流すか、あるいは百倍の嫌味で返すようなふてぶてしい輩ならば、趙将軍も平気でほったらかしにするが、おまえはそうじゃないからな」
「要するに、打たれ弱いから、気の毒なので、世話を焼いてくれる、と?」
「お、いまのはちゃんとすぐに判ったではないか。判ったところで行け」
「うれしくない理由だな…」
しょんぼりと背中を丸めて、趙子龍邸に向おうとする休昭に、馬謖が唄うように言う。
「それならば、わたしが行ってあげようか? わたしの知略を持ってすれば、趙将軍は腰をあげるさ」
「いいや、ますます動かない。休昭、襄陽産の真ばか坊ちゃんは無視していいから、行って来い」
偉度がすかさず否定すると、馬謖はとうとう堪忍袋の緒が切れたらしく、こめかみをぴくぴくとさせながら小刻みに身体を震わせて言った。
「だ・れ・が! 莫迦だって? まったく黙って聞いていれば、言ってくれるじゃないか! わたしが襄陽産の真ばかなら、君はなんなのだい?
聞いた話によれば、君は胡家の長子だという話だけれど、軍師に字を貰ったのだって? おかしいじゃないか。わたしの家と軍師の家は、姻戚だからね、軍師の交友範囲がそう広くないことも知っている。軍師が襄陽にお住まいになっていたころに、義陽の胡家と親交があったなんて聞いたことがない。
もちろん、胡家の名前は知っているさ。だがね、豪族の息子が、父親やほかの有力者ではなく、琅邪からの避難民で、一応の名前は通っていたけれど、どちらかといえば奇人ということで通っていた、まあ、ぶっちゃけ『荊州の人士とはちょっと違う』部類に思われていた軍師に字を貰った、ということが解せないのだよ。もしかして、君は胡家の子なんかじゃなくて…」
とうとうと流れるようにつづく馬謖の言葉は、ひゅん、と風を切ったものに遮られた。
それは、偉度が投げた足元の小石である。
小石は、馬謖の頬をかすめ、そして地面に落ちて、ころころと転がった。
転がる音が、いつもならば聞こえないほど小さいものであるにもかかわらず、張りつめた空気のなかでは、やけに大きく響いた。
馬謖は、小石の掠めた頬をさすりつつ、唸るように言った。
「石を投げたね?」
偉度は、若さに不釣合いなほどの殺気を身に纏いつつ、敢然と馬謖の怒りのこもった目線を受け止めた。
「投げたがどうした」
「忘れているかもしれないけれど、こちらは成都県の令なのだよ? たかが主簿の癖に、そして年下の癖に、石を投げるだなんて、どいういうことになるか、わかっているのかな?」
「わかっているさ。あんたが縊られる直前の家鴨みたいに、大騒ぎするだろうってことも、想像できるよ」
「ふん、判っているなら、お望みどおりしてあげようじゃないか。君も、ここで終わりだね」
「そうかな。終りかどうかなんて、わたしが決めることだ。騒げないようにする手段なんて、いくらでもある。生きているからといって、必ず口を利けるとは限らないよ」
淡々と言葉をつむぎつつ、偉度はいつもの、ちょっと嫌味で皮肉屋な文官の姿から、徐々に、本来の姿を取り戻しつつあった。
「偉度、怖い! 本気モードに入っているよ!」
うろたえつつも、どうやって間に入るかを考えている文偉の横で、休昭は踵を返して走り出した。
あわてて文偉は休昭を呼び止める。
「おい、偉度を一緒に止めてくれ!」
「ダメだ。父上がおっしゃっていた。もし、偉度が我を忘れるようなことがあったら、もう他の者では止められないから、軍師か趙将軍を呼べって! すぐに呼んでくるから、おまえは偉度を止めていてくれ!」
「おまえ、無茶をさらりと言うな!」
「がんばれ、文偉!」
「がんばれって…」
遠ざかる休昭の背中を見送りつつ、そろりと目線を偉度に戻せば、ふざけた調子はどこにもなく、ただひたすら、猛禽のように、目の前の敵に集中している偉度の姿があった。
偉度は、地味にして、わざと自分の容貌のよさを隠しているところがあるが、こうして見せる素の姿は、思わず背筋をぞくりとさせるような…この場には似合わない表現ではあるが、艶めかしさがにじんでいる。
思わず見とれていた自分に気付き、文偉は大きく頭を振った。
いかんいかん、わたしと偉度、もちろん休昭も含めて、この友情もまた、さきほどの喩えではないが、並べられた杯だ。
「偉度、やめろ!」
「うるさい」
静かに偉度はいうが、その中に潜む殺気に押され、文偉は言葉を飲み込みかける。
が、ここで偉度を止めなければ、大変なことになる、と己を励まして、あえて口を開いた。
「莫迦は相手にしないのじゃなかったのか? こんな莫迦につられて、いままでの積み重ねを無駄にするつもりなのか?」
文偉は、直感で言葉をつむいだのであるが、それは意外な効果をもたらし、偉度は、険しい表情を解いて、文偉を見た。
お、いいぞ。
文偉は己を励まして、言葉をつづける。
「おまえがこんな莫迦に足を引っ張られてしまったなら、軍師だってお嘆きになる! それでもよいのか?」
偉度が、文偉の言葉に説得され、徐々に険しさを解いていくのに比例して、馬謖のほうは、怒りをにじませ文偉をはげしくにらみつけた。
「だれが『こんな莫迦』だって? 没落豪族の貧乏小役人ふぜいが、舐めた口を!」
「あんたは、そういうところが莫迦だ!」
「年上に向かってなんだ、どいつもこいつも! 最初は親しげにしてきたくせに、結局、みんなそうやって本性を出して、人をガッカリさせるばかりだ! わたしがおまえたちを莫迦にしたんじゃない、おまえたちが最初にわたしを莫迦にしたんじゃないか! だから、わたしは、その数倍も莫迦にしてやるのさ! わたしがなにをしたっていうんだ。低脳ども!」
「莫迦に莫迦と真正面から言うのも、莫迦だぞ、文偉」
静かな声が場を制するように響き、見れば、いつのまにか到着していのか、趙雲が、背中に電源の落ちたアイボのようにぐったりしている休昭を背負って立っていた。
「仲裁に来たのだが、いまは偉度と馬太守ではなく、文偉と馬太守か」
「申し訳ありませぬ」
偉度は、素直に頭を下げた。
文偉はそれを見て、なんとなく、虎に従う小動物の図を思い出した。
「おまえたちは、俺よりも言葉を大事に扱わねばならぬ職についているはずなのに、どうも自覚が足りぬようだな。醜い言葉はそれ自体が石つぶてだ。
おまえたちは何気なくこぼしたものでも、相手をどう傷つけているのかわからぬ。それゆえ慎重にならねばならぬ。斯様なことは、古人の言葉を引くまでもなく、当然の道理だと思っていたが」
「返す言葉もございません」
偉度と文偉は素直に頭を下げるが、馬謖だけはつんと顔をそらして、頭を下げようとしない。
「わたしは頭なんか下げないよ。あんたの言葉が間違っているというわけじゃないけれど、わたしの誇りが傷つけられたことは、確かなのだからね」
「論点がずれているだろう。素直に謝れ。というか、わたしも悪かったが」
偉度がたしなめると、馬謖はふんと鼻でせせら笑って、言った。
「当然の言葉だね。でも、わたしの怒りが、その程度で治まると思ったのかい?」
偉度はもてるかぎりの忍耐力を駆使しつつ、趙雲に言った。
「趙将軍、もう一回、こいつに、得意技の説教をお見舞いしてください」
「いまのそやつには、なにを言っても聞こえまい。それよりも、日が落ちるというのに、三人で妓楼の軍師を探しに行くというのか」
「はい。三人だけでは心もとないので、将軍にもご同行いただければと」
「わたしを入れて四人じゃないのかい」
意地になっているのか、まだ付いてこようとする馬謖に、趙雲は言った。
「おまえは、おとなしく白まゆげの家の宅配ボックスの2番目に入っておれ。まあ、あのあたりも、あまり若者が長くうろついていて、よい街ではない。付いていってもよいが、軍師を探しきれるかどうかは自信がないぞ。あいつ、隠れるとなると、徹底的に隠れるからな」
「でも、真っ先に見つけるのも将軍でしょう」
まあな、と生返事をする趙雲に、さあさあ、となかば強引に言って、偉度と文偉と休昭、おまけの馬謖は、長星橋へと向かったのであった。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/09/04)