ほこりの匂いと、汗の匂いがそこはかとなくする部屋である。
地下の小部屋だ。
本来ならば、貯蔵庫として使われているものであろう。
天井は低く、積まれた石がむき出しになっている。辛うじて壁の途中に、装飾らしいものが施されているのは、どこであろうと美しく清らかにという襄陽城の表向きの意向を受けてのことだろうか。
奥行きのない長方形の部屋の中央には、背の低い長方形の卓や椅子がある。
小箪笥もあれば、鏡台もある。
調度品の趣味はばらばらで、余った家具をてきとうに見繕って運んできたのだろう。
孔明の腿の高さまである大きな甕《かめ》が壁伝いに並べられており、中を見ると、果実酢や酒であった。
「ここに案内した方には、もれなく一杯ずつ差し上げているのです。どれかお好きなものをどうぞ」
花安英《かあんえい》がおどけた仕草で杯を差し出す。
花安英は、血に汚れた衣を片肌で脱いで、乱雑に血をぬぐっていた。
当然、その青白い肌は晒したままになる。
通常、漢族のあいだでは、人に肌を晒《さら》すという行為は、おおいに恥とされる。
花安英がなにも感じていないように振る舞っていることと、そのことに慣れていることに、孔明はおおいに眉をひそめた。
花安英自身にではない。
花安英をそのように躾《しつ》けた大人たちに向かって。
「早く服を着たまえ」
そう言うと、孔明は薄暗がりを見回す。
紙燭の明かりに浮かび上がるそこには、花安英の私物が無造作に並べられていた。
血のついた衣は処分されずに、丸めたまま積まれており、それを隠すために大きな布がかぶせられているだけ。
経書などがあるかと思えば、その横には、血のついた錆びた小刀が整然とならぶ。
うつくしい色彩を施された蝋燭の下には、祭壇にささげる供物のように、女物の装飾品が並べられている。
装飾品は紙の上に置かれており、その下には、孔明の見たことのない文字と、漢字をさまざまに組み合わせて出来上がったような、気味の悪い角の生えた神の絵があった。
装飾品はどれもきれいに手入れをされていて、あまり高価なものではないが、単品で見る限り、異常なところはない。
しかし、その横にある、葛籠《つづら》が妙に気にかかる。
小部屋に充満する異臭は、そこから発せられているようだ。
まさか、遺体でもあるのか。
孔明はおそるおそる、葛籠に手をかける。
開ける直前に、花安英のほうを見るが、かれは知らぬ顔で汗をぬぐい続けている。
音もなく葛籠を開け、そこに大量の衣服があることをみとめ、孔明は安堵した。
なんだ、こんなものと思ったが、それも一瞬のこと。
衣服にべっとりついている、赤黒い染みにすぐに気づいた。
それが一着や二着ではない。
女ものの衣裳。
凄まじいまでに血にまみれた衣裳が、葛籠の奥までぎゅうぎゅうに詰められていた。
もはや常識では理解できない、深くおぞましい闇が、そこに突然あった。
これがなんなのか、聞くべきか。
それとも気づかぬフリをするべきか。
聞いたらダメだ、と本能が告げてくる。
たとえ平静を装ったとしても、いまの自分がそのことに触れれば、声が尖る。
詰問調になる。
いま、自分は囚われ人なのだ。
虎の檻にいるのと同じ。
慎重にならなくては。
葛籠は、稚拙に描かれた角を持つ神の絵の前に置かれていた。
祭壇というわけか。
慎重になれ、怖じるなと自分に言い聞かせながらも、孔明は、その悪夢のような祭壇から目を離せないでいた。
「ああ、それ? 触らないでください。|供物《くもつ》だから」
花安英の声が、背後からかかる。
びくりと背筋が震える。
これほどまでに緊張したことは、かつてない。
相手は一回りも年下の少年だ。
背丈もじぶんの顎《あご》あたりまでしかないちいさな少年。
なのに、恐怖していた。
じっとりと汗が背中に浮かぶ。
声が震えないように、動揺をさとられないように、あえて背を向けたまま孔明は声に応える。
「だれのだね」
「だれって、誰に対して、ってこと? それとも、その供物の元の持ち主ってこと?」
「両方だ」
「兵主神《へいしゅしん》…つまり蚩尤神《しゆうしん》を祀っている部族がいるんです。
ご存知でしょう? 黄帝と戦って、負けた神」
「知っている。羌族《きょうぞく》の祀る神だ」
「なら話は早いや。最後は捕らえられて、身体をバラバラにされたそうだけれど、でも魂はひとつなのですって。
そういう神ならば、千切れた人間の身体も、ふたたび元に戻すことができるかなって思ったのですよ。
だけど、あまり効き目がないようだから、蚩尤をまねて、自分で神さまを作ってみたのです」
「だれを元に戻そうとしているのかね」
「それを喋ったら、願いが消えてしまうから、言わない。そういうものなのでしょう?」
「見たところ、葛籠のなかにあるのは、女人の衣裳のようだが」
つづく
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めっきり寒くなりました。皆様、暖かくしてお過ごしください。
今日はまた外出の予定がありますので、サクッと出かけて、帰ってきたら「空が高すぎる」の推敲のつづきをやります。
継続して創作ができるよう、これからも精進してまいります!