動揺など、この聡い少年にはとっくの昔に気づいているにちがいない。
怯えていることもそうだ。
完全に相手に呑まれている。
そうして、状況を把握し、楽しんでいるのは相手なのだ。
諸葛孔明ではない。
うつくしい色彩の蝋燭の下に、奇妙な神の絵図、女物の装飾品。
そうして、その前に、無造作に葛籠《つづら》に押し込められた、血まみれの女人の衣裳。
孔明は思い出していた。
『狗屠《くと》』は女たちを裸にして殺した。
まさか。
首筋に、ぴたりと冷たいものが押し当てられたのがわかった。
いつのまにか、花安英《かあんえい》が背後にいた。
咽喉元に刃を平然と突きつけ、その薄い胸板を、孔明の背中に押し付けるようにして、耳元でささやく。
「その衣裳に触ってはいけません。それに触ることができるのは、神だけです。
大切な、戦利品ですからね」
「本物なのか」
刃物をぴたりと首筋にあてたまま、花安英は声を殺して笑った。
「あなた、本当に人がいいな。ここまで来て、まだ私がマトモじゃないかと信じようとしている。
触らないで、よくそれを御覧なさい。それが作り物に見えますか?」
首を横に振ることができない。
孔明はくぐもった声で、
「いいや」
となんとか応えた。
「あなたは、さっき、かれらに啖呵を切っていらしたでしょう? 救う手段がある、と。
どんな手段なのか、助けてあげたお礼に、教えてくださいませんか」
「単純な話だよ。彼らを一介の兵卒としてあつかうのだ」
「本当に単純ですね」
花安英の鈴のような笑い声がする。
劉表の部屋にいた少年たちとおなじ笑い声だ。
そういう笑い方すら、訓練させられて身につけたものなのだろう。
暗い思いにとらわれていると、ぐい、とさらに冷たい刃が肌に押し当てられる。
「怒りますよ」
「もっともよい手段だ。かれらをふつうの生活に返すといって、すぐに世間に放り出して、うまくいくと思うか?
いったいどれだけの時間を『壷中』で過ごしてきたと思う。
かれらは全身に毒を含めさせられた綿のようなものだ。
元の生活に戻るには、毒をすべて抜き出すことが必要になる。
一部の者はすぐに順応できるかもしれないが、できない者のほうが多いはずだ。
もちろん、君も含めて。ちがうか?」
「そうかもしれません」
「それに現状を見るといい。明日にでも曹操来襲の狼煙があがってもおかしくない状況だぞ。
戦いは避けられぬ。
この状況でただ解放されただけならば、かれらは状況に流されて、また『壷中』とおなじ境遇に戻ってしまうかもしれない。
だが、わたしの軍に入るのならば、そのような目に遭わせないよう、保護することができる。
事情を知っているからこそ、わたしが諸葛玄の甥だからこそ、できる保護だ。
もちろん、人殺しなどを率先してやらせるようなことはしない。
新野のみなとともに、仕事をして汗をかき、まともな生活というものがどういうものか感覚をつかんだうえで、好きなように生きるよう解放するのだ。
君たちの身につけた技術のうち、汚い技術は、けっして使わせない。約束しよう」
「詭弁のようにも聞こえるけれど」
すっ、と刃が首筋を流れる気配がある。
斬られた。
孔明は身を固くしたが、そうではない。
肩から、さらさらと、切られた後れ毛の束が落ちる。
「潘季鵬《はんきほう》よりマシだから、許してさしあげます。
あなたにならば、弟たちを託してもいい」
「弟たち?」
振り返ると、薄い刃を闇の中でひらひらと、羽虫のように泳がせて輝かせている花安英の、嫣然とした笑みがあった。
「そう。『壷中』の子供は互いに全員が兄弟姉妹なのです。
表立って言うと、潘季鵬が嫌がるので、お互いにひっそりそう呼び合っているのですよ。
あなたも大体のところは読めているのでしょう?
『壷中』はいま、襄陽城の劉州牧側と、潘季鵬側に分裂をしている。
そもそものきっかけは、あなたが劉表の部屋で見た、白髪の者です。
あの子は、だれより優秀な子だった。うまく成長すれば、私以上になったでしょう。
もしかしたら、あなたの趙子龍を上回ったかもしれない」
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です(^^♪
まーだまだつづく「臥龍的陣」。
これからも話が転がりまくります、おたのしみに!
以前にベースとなった「孤月的陣」を読了した方でも、あらたな発見があるかもしれません。
読んでいただけたらうれしいです(*^▽^*)
これからも精進してまいりますので、ひきつづき当ブログをごひいきに!
怯えていることもそうだ。
完全に相手に呑まれている。
そうして、状況を把握し、楽しんでいるのは相手なのだ。
諸葛孔明ではない。
うつくしい色彩の蝋燭の下に、奇妙な神の絵図、女物の装飾品。
そうして、その前に、無造作に葛籠《つづら》に押し込められた、血まみれの女人の衣裳。
孔明は思い出していた。
『狗屠《くと》』は女たちを裸にして殺した。
まさか。
首筋に、ぴたりと冷たいものが押し当てられたのがわかった。
いつのまにか、花安英《かあんえい》が背後にいた。
咽喉元に刃を平然と突きつけ、その薄い胸板を、孔明の背中に押し付けるようにして、耳元でささやく。
「その衣裳に触ってはいけません。それに触ることができるのは、神だけです。
大切な、戦利品ですからね」
「本物なのか」
刃物をぴたりと首筋にあてたまま、花安英は声を殺して笑った。
「あなた、本当に人がいいな。ここまで来て、まだ私がマトモじゃないかと信じようとしている。
触らないで、よくそれを御覧なさい。それが作り物に見えますか?」
首を横に振ることができない。
孔明はくぐもった声で、
「いいや」
となんとか応えた。
「あなたは、さっき、かれらに啖呵を切っていらしたでしょう? 救う手段がある、と。
どんな手段なのか、助けてあげたお礼に、教えてくださいませんか」
「単純な話だよ。彼らを一介の兵卒としてあつかうのだ」
「本当に単純ですね」
花安英の鈴のような笑い声がする。
劉表の部屋にいた少年たちとおなじ笑い声だ。
そういう笑い方すら、訓練させられて身につけたものなのだろう。
暗い思いにとらわれていると、ぐい、とさらに冷たい刃が肌に押し当てられる。
「怒りますよ」
「もっともよい手段だ。かれらをふつうの生活に返すといって、すぐに世間に放り出して、うまくいくと思うか?
いったいどれだけの時間を『壷中』で過ごしてきたと思う。
かれらは全身に毒を含めさせられた綿のようなものだ。
元の生活に戻るには、毒をすべて抜き出すことが必要になる。
一部の者はすぐに順応できるかもしれないが、できない者のほうが多いはずだ。
もちろん、君も含めて。ちがうか?」
「そうかもしれません」
「それに現状を見るといい。明日にでも曹操来襲の狼煙があがってもおかしくない状況だぞ。
戦いは避けられぬ。
この状況でただ解放されただけならば、かれらは状況に流されて、また『壷中』とおなじ境遇に戻ってしまうかもしれない。
だが、わたしの軍に入るのならば、そのような目に遭わせないよう、保護することができる。
事情を知っているからこそ、わたしが諸葛玄の甥だからこそ、できる保護だ。
もちろん、人殺しなどを率先してやらせるようなことはしない。
新野のみなとともに、仕事をして汗をかき、まともな生活というものがどういうものか感覚をつかんだうえで、好きなように生きるよう解放するのだ。
君たちの身につけた技術のうち、汚い技術は、けっして使わせない。約束しよう」
「詭弁のようにも聞こえるけれど」
すっ、と刃が首筋を流れる気配がある。
斬られた。
孔明は身を固くしたが、そうではない。
肩から、さらさらと、切られた後れ毛の束が落ちる。
「潘季鵬《はんきほう》よりマシだから、許してさしあげます。
あなたにならば、弟たちを託してもいい」
「弟たち?」
振り返ると、薄い刃を闇の中でひらひらと、羽虫のように泳がせて輝かせている花安英の、嫣然とした笑みがあった。
「そう。『壷中』の子供は互いに全員が兄弟姉妹なのです。
表立って言うと、潘季鵬が嫌がるので、お互いにひっそりそう呼び合っているのですよ。
あなたも大体のところは読めているのでしょう?
『壷中』はいま、襄陽城の劉州牧側と、潘季鵬側に分裂をしている。
そもそものきっかけは、あなたが劉表の部屋で見た、白髪の者です。
あの子は、だれより優秀な子だった。うまく成長すれば、私以上になったでしょう。
もしかしたら、あなたの趙子龍を上回ったかもしれない」
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です(^^♪
まーだまだつづく「臥龍的陣」。
これからも話が転がりまくります、おたのしみに!
以前にベースとなった「孤月的陣」を読了した方でも、あらたな発見があるかもしれません。
読んでいただけたらうれしいです(*^▽^*)
これからも精進してまいりますので、ひきつづき当ブログをごひいきに!