※
市場であのテンの毛皮を見たときから、触れてみたいと思っていたのだ。
ただ触るだけならば、と手を伸ばしたことがあったが、店の主に見つかって、罵倒とともに殴られた。
そのときの痛みを、阿瑯《あろう》は忘れなかった。
二度と近づくまいと敬遠するどころか、復讐心をたぎらせるのが、阿瑯という子供である。
いつか必ず、きっと盗んでやると狙っていた。
巡回の兵卒に見つかったのは厄介だったけれど、うまく逃げおおせたわけだし、結果として、テンの毛皮は手に入った。
阿瑯は、自分だけの隠れ家にしている、新野のなかでもうらぶれた、人気のない路地の一角に積まれた箱のうえに腰をかけた。
箱は夜には寝台にもなるすぐれものである。
同じく盗んできた筵《むしろ》が布団がわりだ。
夏であるから、虫のことさえ気にしなければ、そんなもので十分に夜をしのぐことができた。
阿瑯は、道路端に放置されたままの古い木箱の上に腰を落ち着けると、初めて子供らしく顔をほころばせ、握りしめていた毛皮を首に巻き、うっとりと、その肌触りを楽しんだ。
毛皮の端っこを付かんで、頬ずりする。
おくさまの手を思い出す。
阿瑯は、おくさまが大好きであった。
母親の手は、水仕事で痛めつけられて、がさがさでアカギレだらけであったが、おくさまの手は、白くてやわらかだった。
いつか物語で聞いた、仙女さまの手は、こんなふうではないかとさえ思った。
なかなか子宝にめぐまれなかったご主人夫婦は、奴婢の子である阿瑯をかわいがって、いろいろと面倒をみてくれた。
阿瑯、という名前をつけてくれたのもおくさまである。
ずっと、おくさまがいてくれたならよかった。
しかしおくさまは、ウマズメだというので、ご主人から離縁をされてしまった。
あとからやってきた後妻とかいう女は、おくさまとはちがって気取った女で、阿瑯は大嫌いだった。
阿瑯をけして名前で呼ばず、奴婢の子と呼び、けなした。
近づくと、汚いのはあっちへ、と行って犬のように追い払う。
あるとき、その女が、阿瑯という名前は、奴婢の子に似合わないから、ほかの名前に変えてしまおう、と言い出した。
おくさまがつけてくれた、大事な名前を、とりあげてはたまらない、と阿瑯は思った。
その女は、豊かな美しい黒髪が自慢であった。
女が、母親に髪を梳かせながら、髪は命とおなじくらいに大切だ、と言っていたのをおぼえていた。
自分が大切なものを盗られたら、どんな思いがするか、実際におなじ目に遭ってみたら、阿瑯の名前を変えてしまおう、などと言わないだろうと阿瑯は考えた。
そこで、女が寝ているところに忍び込んで、寝ているうちに、黒髪を根元からばっさり切ってしまった。
とたん、大騒ぎになった。
女は狂ったようになり、黒髪を切った犯人を、かならず捕らえて復讐してほしいとご主人に訴えた。
ご主人も、おのれの妻が、寝ている間に髪を切られる、などという屈辱を受けたのだから、黙ってはいない。
髪を切られるということは、死罪を受けたというのにも等しい。
罪を得た女囚人が、髪を切られて雑役に従事しているのは、その罪がかなり重い、という意味でもある。
阿瑯が思っていた以上に、事態は深刻であった。
だが、阿瑯の仕業とは、だれも気づいていないようであった。
最初はおもしろがって、しらばっくれていた阿瑯であるが、次第に状況が変わっていくのにきづいた。
父母をふくめた奴婢や、下男下女がひとりひとり呼び出され、いろいろ話を聞かれた。
それを目の当たりにして、だんだん怖くなってきた。
いまは、子供であるからこそ、まさかそんな大胆な真似はすまい、と思われている。
が、これほど細かく詮議されるのであれば、そのうちに、ほかならぬ自分がしでかしたことなのだとばれるのではないか。
自分が疑われるだけならよい。
自分から目が逸れているかわりに、関係のないだれかが、犯人にしたてあげられてしまうのではないか、という恐ろしい可能性にも突き当たった。
もしかしたら、その気の毒な人物は、八つ裂きにされてしまうかもしれない。
それは、自分が犯人だと名乗った場合でも、おなじ結果になりそうな予感がした。
阿瑯はおそろしくなり、ひとり、屋敷から逃げ出した。
つづく
※ 一昨日より、当ブログに来訪してくださっているみなさま、どうもありがとうございます!
ブログランキングやブログ村に投票してくださってもいるようで、とってもうれしいです(^^♪
いま連載しているお話、なかなか趙雲と孔明が出てきませんが…もう少々、お待ちくださいませ。
そして、「臥龍的陣」以外もおたのしみいただけると、書いた人間としてはさいわいです(*^▽^*)
今後とも、当ブログをよろしくお願いいたします。
市場であのテンの毛皮を見たときから、触れてみたいと思っていたのだ。
ただ触るだけならば、と手を伸ばしたことがあったが、店の主に見つかって、罵倒とともに殴られた。
そのときの痛みを、阿瑯《あろう》は忘れなかった。
二度と近づくまいと敬遠するどころか、復讐心をたぎらせるのが、阿瑯という子供である。
いつか必ず、きっと盗んでやると狙っていた。
巡回の兵卒に見つかったのは厄介だったけれど、うまく逃げおおせたわけだし、結果として、テンの毛皮は手に入った。
阿瑯は、自分だけの隠れ家にしている、新野のなかでもうらぶれた、人気のない路地の一角に積まれた箱のうえに腰をかけた。
箱は夜には寝台にもなるすぐれものである。
同じく盗んできた筵《むしろ》が布団がわりだ。
夏であるから、虫のことさえ気にしなければ、そんなもので十分に夜をしのぐことができた。
阿瑯は、道路端に放置されたままの古い木箱の上に腰を落ち着けると、初めて子供らしく顔をほころばせ、握りしめていた毛皮を首に巻き、うっとりと、その肌触りを楽しんだ。
毛皮の端っこを付かんで、頬ずりする。
おくさまの手を思い出す。
阿瑯は、おくさまが大好きであった。
母親の手は、水仕事で痛めつけられて、がさがさでアカギレだらけであったが、おくさまの手は、白くてやわらかだった。
いつか物語で聞いた、仙女さまの手は、こんなふうではないかとさえ思った。
なかなか子宝にめぐまれなかったご主人夫婦は、奴婢の子である阿瑯をかわいがって、いろいろと面倒をみてくれた。
阿瑯、という名前をつけてくれたのもおくさまである。
ずっと、おくさまがいてくれたならよかった。
しかしおくさまは、ウマズメだというので、ご主人から離縁をされてしまった。
あとからやってきた後妻とかいう女は、おくさまとはちがって気取った女で、阿瑯は大嫌いだった。
阿瑯をけして名前で呼ばず、奴婢の子と呼び、けなした。
近づくと、汚いのはあっちへ、と行って犬のように追い払う。
あるとき、その女が、阿瑯という名前は、奴婢の子に似合わないから、ほかの名前に変えてしまおう、と言い出した。
おくさまがつけてくれた、大事な名前を、とりあげてはたまらない、と阿瑯は思った。
その女は、豊かな美しい黒髪が自慢であった。
女が、母親に髪を梳かせながら、髪は命とおなじくらいに大切だ、と言っていたのをおぼえていた。
自分が大切なものを盗られたら、どんな思いがするか、実際におなじ目に遭ってみたら、阿瑯の名前を変えてしまおう、などと言わないだろうと阿瑯は考えた。
そこで、女が寝ているところに忍び込んで、寝ているうちに、黒髪を根元からばっさり切ってしまった。
とたん、大騒ぎになった。
女は狂ったようになり、黒髪を切った犯人を、かならず捕らえて復讐してほしいとご主人に訴えた。
ご主人も、おのれの妻が、寝ている間に髪を切られる、などという屈辱を受けたのだから、黙ってはいない。
髪を切られるということは、死罪を受けたというのにも等しい。
罪を得た女囚人が、髪を切られて雑役に従事しているのは、その罪がかなり重い、という意味でもある。
阿瑯が思っていた以上に、事態は深刻であった。
だが、阿瑯の仕業とは、だれも気づいていないようであった。
最初はおもしろがって、しらばっくれていた阿瑯であるが、次第に状況が変わっていくのにきづいた。
父母をふくめた奴婢や、下男下女がひとりひとり呼び出され、いろいろ話を聞かれた。
それを目の当たりにして、だんだん怖くなってきた。
いまは、子供であるからこそ、まさかそんな大胆な真似はすまい、と思われている。
が、これほど細かく詮議されるのであれば、そのうちに、ほかならぬ自分がしでかしたことなのだとばれるのではないか。
自分が疑われるだけならよい。
自分から目が逸れているかわりに、関係のないだれかが、犯人にしたてあげられてしまうのではないか、という恐ろしい可能性にも突き当たった。
もしかしたら、その気の毒な人物は、八つ裂きにされてしまうかもしれない。
それは、自分が犯人だと名乗った場合でも、おなじ結果になりそうな予感がした。
阿瑯はおそろしくなり、ひとり、屋敷から逃げ出した。
つづく
※ 一昨日より、当ブログに来訪してくださっているみなさま、どうもありがとうございます!
ブログランキングやブログ村に投票してくださってもいるようで、とってもうれしいです(^^♪
いま連載しているお話、なかなか趙雲と孔明が出てきませんが…もう少々、お待ちくださいませ。
そして、「臥龍的陣」以外もおたのしみいただけると、書いた人間としてはさいわいです(*^▽^*)
今後とも、当ブログをよろしくお願いいたします。