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帯とけの枕草子〔二百五十七〕うれしき物
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔二百五十七〕うれしき物
嬉しいもの、まだ見ていない物語の一を見て、もっと見たいとばかり思っていたのが、残りを見つけている。そうして、読んで・がっかりするようなこともあることよ。
他人の破り捨てた文を継ぎたして見るときに、元と同じ続きの多くの行を見続けている。
どうしてだろうと思う夢を見て、恐ろしいと胸が苦しいときに、こともなく夢解きで合点がいっている、とってもうれしい。
高貴な人の御前に人々が多ぜい控えているとき、昔あった事にしろ、今お聞きになられ世間で言っていた事であっても、お話しされるのに、私をご覧になって、私に・合わせておっしゃっている、とってもうれしい。
遠いところは言うまでもない、同じ都のうちでも隔たっていて、わが身にとってもお世話せずにおれないと思う人が患っていると聞いて、どうかしらどうかしらと、気にかかって何もわからないのを嘆いているときに、治った由、消息を聞くのは、とってもうれしい。
思い人が人に褒められ、高貴なお方が期待に違わぬ者にお思いになられ、そうおっしゃる。
何かのおり、もしくは人と言い交わした歌を、宮が・お聞きになられて、うち聞き帳などに書き入れておられる。自らはまだ経験のないことだが、うれしいだろうなと、やはり思いやることよ。
全くうちとけていない人が言った古い歌などの、知らなかったのを、他の人に聞き出したのもうれしい。後に物の本の中などに見つけだしたのは、ただおかしく、これだったのだなあと、あの古歌を言っていた人はすばらしい。
陸奥紙(上質紙)でも、ただの紙でも、良いのを得ている。
気が引けるような人が歌の本か末かを問うているときに、ふと思いついている、我ながらうれしい。常に覚えている事も、やはり、人が問うときに気よく忘れていて、言い止んでしまうときが多くある。
急なことで求めている物を見つけだしている。
もの合わせ(歌合・絵合など)で、何なりと挑むことに勝っている、どうしてうれしくないことがあろうか。それに、我こそはと思って得意顔の人を、その程度かと見定めることができている。女どうしよりも相手が男ならば、ましてうれしい。これのお返しは、何時か必ずするぞと思っているだろうと、常々心をつかっているのも我ながらおかしいのに、相手は・まったくつれなく何とも思っていない様子で、気をゆるめて過ごしているのもまたおかしい。
憎い者が悪いめにあうのも、罪(神仏の罰)を得たのだろうと思いつつ、またうれしい。
何かの折りに、衣を艶だしに打たせに遣って、どうだろうかと思っていて、輝くように美しくなって受け取っている。
さし櫛(飾櫛)を擦り磨かせたところ、いい感じになっているのも又うれしい、又もおほかるものを(他にもうれしいことは多く有るものを……股が多くあるのに)。
日頃、数ヶ月、痴るき、ぼけっとする事があって悩みつづけていたが、治ったのもうれしい。思う人の身の上は、我が身よりもまさってうれしい。
御前に人々が所狭しと居るときに、今参上したので少し遠い柱のもとなどに居るのを、すぐご覧になられて「こち(こちら…近く)」と仰せになられると、道あけて、たいそう近くに召し入れられたのこそ、うれしいことよ。
言の戯れと言の心
「うれし…嬉し…快い…喜ばしい」「しるき事…痴るきこと…ぼけっとした事…ばかげた事…著るきこと…はっきりした事」「おこたる…怠る…悩みがおさまる…病気が快方に向かう…事が一応おさまる」「おもふ人のうへ…恋人の身の上…心配な人の身の上…宮の身の上…宮の兄弟の身の上」。
「いとうれし」と思う事柄は、人により異なる。これは、どちらかというと変わり者でしょう。ここしばらくは、人の顔、中納言の君のこと、特別な聞き耳をもった成信の中将と大蔵卿のこと等、特異なものについて書いてある。これらの話には、清よげな姿に包んで、「心におかしきところ」がある。
その意味がわかれば、「清少納言だけは、ひどい侍りざまだった人、得意顔して、まな(真名…漢字…間名…女のこと…勿…禁止事項)書き散らし」という、紫式部の的を射た批判に同感できるでしょう。また、俊成卿女『無名草子』の「枕草子こそ、心のほど見えて、いとをかしう侍れ、さばかり、をかしくも、あはれにも、いみじくも、めでたくもあることども、残らず書き記したる」という、称賛とも受け取れる批評に本当に同感できるでしょう。藤原定家より何代か後には、古今和歌集の歌と共に枕草子も「心におかしきところ」が埋も木となってしまった。よみがえらすべきものを、江戸に都が移って以来、和歌も歌物語も枕草子も、大真面目な男たちによって、平板な解釈に凝り固められた。言葉の戯れに顕われる、色氣も、しゃれっ気も、今も消えたままなのである。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。