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帯とけの枕草子〔二百五十九〕関白殿(その三)
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔二百五十九〕関白どの(その三)
宮が積善寺に・お着きになられたところ、大門のもとで、高麗、唐土の音楽がして、獅子、狛犬が踊り舞い、乱声(笛)の音、鼓の音にほうぜんとして、これは生きて仏の国にでも来たのでしょうか、身も音も・空に響きあがるように思える。
門内に入ると、色々の錦の幕を張った屋に、御簾を青く掛け渡し、数々の幔幕を引いてあるのなど、すべてすべて、とてもこの世と思えない。車を・桟敷にさし寄せると、また、この殿(伊周、隆家)たちがお立ちになられて、「とうおりよ(すみやかに降りよ)」とおっしゃる。乗った所でもそうだったが、いますこしあかう、けそうなるに(今はもう少し明るくはっきり見えるので…今は少し赤みて怪相なので)、つくろひそへたりつるかみ(繕い添えてある髪…取り繕い添えた付髪)も唐衣の中で、ふくだみ(ぼさぼさとなって)、変になっているだろう、色の黒さ衣の赤さとさえ見わけられないほどなのが、とってもわびしかったので、すぐに降りることができない。「まづ、しりなるこそは(先ず、後のお方を…先に、お尻の方をば)」と言うときに、それ(後の車に乗っている女房…憎んでいる女)も同じ心でしょうか、「しぞかせ給へ、かたじけなし(退いてくださいませ、介添えはもったいないですわ…その女退かせてください、片地毛無し)」などと言う。「はぢ給か(恥ずかしがっていらっしゃるのかな…恥を賜っているのか)」などと笑って、私が・やっとのことで、おりぬれば(車を降りたので…争いをおりたので)、お二人が寄って来られて、「むねたかなどにみせで、かくしておろせと、宮のおほせらるればきたるに、思ひくまなく(少納言を・胸張ったふうに見せないで、隠して降ろせと宮が仰せられたので来たのに、ひとの気も知らず)」と言って、ひきおろしてゐてまゐり給(引きずり降ろして率きつれて参られる)。いとかたじけなし(そのようにおっしゃっていただいたとは・ほんとうにもったいない…まさに片地毛無し)。参ったところ、初めに降りた人、もの見えない端に八人ばかり居たことよ。
宮は一尺余り二尺ばかりの長押の上におられる。「こゝに、たちかくしてゐてまゐりたり(ここに、立ち隠して率きつれて参りました)」と申されると、「いづら(どちら…出るわ)」といって、御几帳のこちら側にお出でになられた。まだ御裳、唐の御衣をお召しになっておられる。とってもすばらしい、紅の御衣の良ろしさよ。中に唐綾の柳の御衣、えび染の五重襲の織物に赤色の唐の御衣、地摺の唐の薄物に、象眼重ねてある御裳などをお召しになられて、その色などは、並のものに似ているはずもない。「我をばいかゞみる(我をば何だと思ってるのか…わが衣をどう見る)」と仰せられる。「いみじうなんさぶらひつる(おそれおおいとです、お仕えいたしております…とってもすばらしゅうございます)」などというのも、ことにいでては世のつねにのみこそ(言葉に出てはただ普通のことなのだ・お叱りを賜っていると聞こえるでしょう)。「ひさしゅうやありつる。それは、大夫の院の御ともにきて、人に見えぬるおなじしたがさねながらあらば、ひとわろしと思ひなんとて、ことしたがさねぬはせ給ひけるほどに、をそきなりけり。いとすきたまへりな(久しぶりではないか・十日あまり会ってない。久しいのは、道長が女院の御供をしたときに着ていて人々が見た同じ下襲がそのままであれば、人が悪いと思うであろうということで、今日の為に別の下襲を縫わせたときに、仕上がるのが遅かったの・女たちには嫌われているらしいよ。彼は・そなたも・とっても風流・好き者でいらっしゃるよ)」といって、わらはせ給ふ(お笑いになられる)。いとあきらかにはれたる所は、いますこしぞけざやかにめでたき(たいそう明るく、晴れがましい所では一段と際立って愛でたい……とっても聡明で、表向きにはさらによりはっきりしていらっしやって愛でたい・お方)。御額の髪をお上げになられている飾りかんざしに、分け目の御髪がいささか寄って目立って見えておられる様子さえよ。きこえんかたなき(申し上げようもない・お姿よ)。
三尺の御几帳一双を差し違えて、こちらの隔てにして、その後ろに畳一ひらを長いままに縁を端にして、長押の上に敷いて、「中納言の君」というのは殿(道隆)の御叔父の右兵衛の督忠君と申し上げる方の御娘。「宰相の君」は富の小路の右の大臣の御孫。その二人が上に居て、宮のお世話をしておられる。ご覧になられて、「宰相はあなたにいきて、人どものゐたるところにてみよ(宰相はあちらに行って、女房たちの居る所で見なさい)」と仰せになられると、心得て宰相の君、「こゝにて、三人はいとよく見侍りぬべし(少納言が・ここですと、お三人はたいそうよく見えるでございましょう…宮の両脇に問題児二人、よく見えましょう)」と申されると、「さば、いれ(それでは入れ・少納言)」と召し上げられるのを、下に居る人々(女房たち)は、「殿上ゆるさるゝうどねりなめり(殿上許される内舎人なんでしょう…あの女・殿上ゆるされた雑役夫でしょう)」と笑うと、「こは、わらはせむと思給つるか(これは、笑わせようと思われたのでございましょうか…これは、笑奉仕でしょうか)」と言えば、「むまさゑのほどこそ(馬の鼻引く男の程度ですよ…馬の才の程度だからよ)」などと言っているが、ここに上って居て見るのは、いとおもだゝし(とっても晴れがましい)。
このようなことを自ら言うのは、吹き語り(ほら吹き)であり、それに君(宮)の御為にも軽々しゅう聞こえる、この程度の、わたくし如き・人を、このようにお思いになっただろうかなど、たまたま物事を知り世の中を批判したりする人には、気にくわないでしょうよ。立派な御事に関わってもったいないけれど、事実で有ることはさてどうでしょうか、まことに身の程に過ぎたことが、あったにちがいないでしょう。
女院の御桟敷、所々の御桟敷を見わたしている、愛でたい。殿の御前(道隆)、居られる御前より女院の御桟敷に参られて、しばしあって、ここに参られた。大納言お二人(伊周と山の井)、三位の中将は陣の任務についておられるままに調度(弓矢入れなど)背負ってたいそうお似合いで、すばらしくていらっしゃる。殿上人、四位、五位もことごとしく連なって、御供として並んでいらっしゃる。
殿が・こちらにお入りになられてご覧になられるときに、みな御裳、御唐衣、御匣殿までも着ておられる。殿の上(道隆妻、高内侍)は裳の上に小袿(女官たちの装束)を着ておられる。「ゑにかいたるやうなる御さまどもかな。いま一まえは、けふは人々しかめるは(絵に描いたようなご様子かな、いま一人・わが妻は、今日は女官、女房のようなようすだなあ)」と申される。
「三位の君、宮の御もぬがせ給へ。この中のすくんには、わが君こそおはしませ、御さじきの前にぢん屋すゑさせ給へる、おぼろげのことかは(三位の内侍よ・我妻よ、宮の御裳を脱がせ給え、この中の主君はわが宮でこそいらっしゃいます。女院の御桟敷の前に陣屋据えさせ給える、並のことか、これが)」といって、泣きだされる。もっともなことと見えて、みな人が涙ぐむときに、わが赤色の桜の五つ重ねの衣をご覧になって、「ほうふくの一つたらざりつるを、にはかにまどひしつるに、これをこそかり申べかりけれ。さらずはもし、又さようの物をとりしめれたるか(法服が一つ足らなかったのを、にわかなことでと惑うていたのに、それを、借りるべきだったな。それとも、さようなものを取りあつめ、ひとり占めにしているのか)」とおっしゃるので、大納言殿(伊周)、少し引き下がっておられたが、お聞きになって、「せいそうづのにやあらん(弟の清僧都の・清原僧都の、法服ではありませんか)」とおっしゃる。一言として愛でたくない言葉はないことよ。
僧都の君、赤色の薄物の御衣、紫の袈裟、たいそう薄色の御衣と指貫を着ておられて、頭が青く美しく、地蔵菩薩のようで、女房たちに交じりあっておられるのも、いとをかし(とってもおかしい)。「僧綱の中に威儀を正してしていらっしらないで、見苦しう女房の中に」などと、わらふ(笑う)。
大納言殿の御桟敷より、松君(三歳ぐらい)をお連れして来る。えび染の織物の直衣、濃い綾の光沢を出してある紅梅の織物など着ておられる。御供に例の四位、五位、たいそう多くいる。女房の中に抱き入れてさしあげたところ、何事が誤りなのか、泣きわめいておられるのさえ、いとはえばえし(たいそうあざやか…とってもおみごとよ)。
「いま一まえ…道隆の妻高内侍…まことしき文者にて、御前の作文には漢文を奉られしはとよ、少々の男には優りてこそきこえ侍しか、と『大鏡』は言う。男勝りの風変わりなお方」「法服…わが赤い衣…妻を皮肉った返す刀で、衣を法服とは、そなたは何を着ても法服にしか見えないということ。いずれも人々をどきりと緊張させる、さるがう言のあざけりわざ。緩和されない気まずい場に、大納言が即座に用意したのは、若年の弟の僧都の君と無邪気な孫、たぶん道隆が無条件で愛するもの。僧都の様子に人々の目を向けさせ、松君の泣きののしりは、思惑とは違ったかもしれないが、その場の雰囲気を一変させた」「はえばえし…はなやかで見栄えがする…お見事…してやったり」。
事始まって、一切経を蓮の花の赤い一花筒に入れて、僧俗、上達部、殿上人、地下、六位も、だれもが持って続いている。たいそう尊い。導師、参って講が始まり、舞など一日中見ているので目もだるく苦しい。
御使に五位の蔵人が参っている。御桟敷の前に胡床(腰掛)を立てて座っている様子など、たいそう愛でたい。
夜になるころ、式部の丞の則理が参った。「やがて夜になれば、宮は内裏に・お入りになられるだろう、供として仕えよとの、主上の・仰せごとをいただきまして」といって、帰りもしない。宮は「まず、帰っていただいてね」とおっしゃるけれど、また、蔵人の弁が参って、殿にもお便りがあるので、ただただ仰せごとによって内裏にお入りになられようとする。
女院の御桟敷より、「ちかのしほかま(千賀の塩釜…近くに居ながら辛いのは親しい人に会えないことよ)」などと言うお便りが参り通う。すばらしい物など交換されるのも愛でたい。こと果てて、女院、お帰りになられる。院司、上達部など、この度は一部の方だけお供としてお仕えになられたのだった。
宮は内裏に参られたのも知らず、女房の従者どもは、宮は二条宮にいらっしやったのだろうと、そちらへ皆が行って、待てども待てども(従者たちの姿が)見えないうちに、夜がたいそう更けた。内裏でも宿直用の物を持って来るだろうと待っているのに、とうとう見えなかった。あざやかな衣など身にも付かないのを着て、寒いまま、何か言っては腹立てるけれど言うかいもない。明くる朝来たのを、「どうして、そう気が利かないのよ」などと言っても、のぶる事もいはれたり(述べることももっともだ…まのびした言葉がかえってくる)。
次の日、雨(涙雨…おとこ雨)が降っているのを、殿は、「これになん、をのがすくせはみえ侍りぬる。いかゞ御らんずる(これにですね、おのれの宿世は見えました。宮は・いかがご覧になられるか)」と申しあげておられる。御心おごりもことわりなり(御心のご慢心も、絶頂に極まり至ったので・もっともである)。けれども、そのとき愛でたしと拝見した御事の数々も、殿亡き・今の世の御事どもを拝見して比べますと、すべてひとつに申すべきにもあらねば、ものうくて、おほかりしことゞもゝ、みなとゞめつ(すべて同一に愛でたしと申すべきでもないので、何だかつらくて、多くあった事も・言も、みなまで、記すのは・止めました)。
古歌みちのくのちかのしほかまちかながら からきは人にあはぬなりけり(陸奥の千賀の塩釜、近という名ながら、辛いのは人に近く出会わないことよ……道の奥の千賀の、しほ・男、かま・女、近いのに、つらいのは人に合わないことよ)。
この歌が引用されると、歌にもとよりある「心にをかしきところ」が伝わる。「あはぬ…出会わない…逢わない…合わない…和合しない…気が合わない」、どのように聞こえるでしょう。女院は国の母、宮にとっては、叔母で姑、強力な味方のはずが、ではなかった。実弟の道長の御味方であられた。
「おのがすくせは見え侍りぬる…わが生涯の絶頂のおとこ涙の雨が降ったのだと、わが宿命は見えました」「雨…男雨…涙雨…山ばの絶頂でのおとこの別れの涙」。
積善寺法会の描写を通じて書き残そうとしたのは、行事よりも、人々が交わした言葉に包まれてある人の心。
殿はこの法会の一年数カ月後、絶頂期に亡くなった。享年四十三。以降の、宮の御不幸は敢えて書かない。これは、「心ばせ(才覚ある気遣い)」。
この章は、中関白家の道隆も定子皇后も亡くなられた後に記した追憶。追悼文とすれば読みよいでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。