帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百二十七)(百二十八)

2015-04-01 00:10:11 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄



 藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って拾遺抄の歌を紐解いている。

江戸時代以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。

このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。近世以来の学問的解釈方法の方を棄てたのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

延喜御時中宮御屏風に                   貫之

百二十七 ちりぬべき山のもみぢを秋ぎりの やすくも見せでたちかくすらん

延喜の御時、中宮の御屏風に                 貫之

(散ってしまうにちがいない山の紅葉を、秋霧が、散り安いとは見せないで、たち隠すのだろう……果ててしまうにちがいない山ばの飽き色を、飽きの限りのように、果て安くは見せないで、おとこは・立ち、それを隠すだろう・どうしてかな)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「ちりぬ…散りぬ…散ってしまう…果ててしまう」「ぬ…完了の意を表す」「べき…べし…確実な推量・当然の意を表す…に違いない…当然そうなる」「山…山ば」「もみぢを…紅葉を…飽き色したのを…果て方のおとこ」「秋ぎりの…秋霧が…飽き限りのように…山ばの果てのように」「の…が…主語を示す…のように…比喩を表す」「やすくも…安くも…(果て)やすくは…(折れ)やすくは」「見せで…見せないで…見しないで」「見…覯…媾…まぐあい」「たちかくす…(霧が)立ち隠す…(決起して立ち、し折れるおを)隠す」「らん…らむ…推量する意を表す…原因・理由を推量する意を表す…どうしてだろう」

 

歌の清げな姿は、散り初める紅葉と秋霧の風情。

 心におかしきところは、はかないさがに絶え果てるのを、そうは見せまいと決起するおとこの気色。

 

わかりやすく言えば、はかない性(さが)を隠して起立するおとこを愛おしいと思って、女達よ、「法師…ほ伏し」とか「つつ…筒」とか「扇忘れ…合う気忘れ」などと、悪口を言わないでくれという貫之のメッセージである。この御屏風は、主上、中宮、お仕えする多くの女房・女官たちが御覧になられた誰もが、心におかしいと思うだろう。

 貫之集によれば、延長二年(古今和歌集撰集からほぼ二十年後)五月に中宮御屏風のための和歌二十六首を詠んだ。その一首。

 

 

題不知                         僧正遍昭

百二十八 秋のよのあらしの声をきくときは この葉ならねど我ぞかなしき

題しらず                        僧正遍昭

(秋の夜の嵐の音を聞く時は、散る・木の葉ではないけれど、我は哀しい……飽きの男女の仲の夜の嵐の声を聞くときは、木の端くれではないけれど、われぞ、わがものが・愛おしい)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「秋のよ…秋の世…飽きの男女の仲…飽きの夜」「あらし…嵐…山ばで吹く心風…感極まった情況」「声…音…こゑ…小枝…おとこ」「この葉…木の葉…この端…身の端くれ」「我ぞ…我自身…わがもの」「ぞ…何かを強く指示する意を表す」「かなしき…悲しき…哀しき…愛しき…いとおしい…かわいそう」

 

歌の清げな姿は、秋の嵐の夜の風情。

 心におかしきところは、木の端くれ、ただの筒と見なして来たお前がいとおしいと申されるところ。

 

古今集仮名序で、貫之は次のように述べた。「古のことをも、歌をも知れる人、詠む人多からず」、その中にあって、歌詠みとして「近き世に、その名聞こえたる人は、即ち、僧正遍昭は、歌の様は得たれども、まこと少なし、たとえば、絵に描ける女を見ていたずらに心を動かすがごとし」。歌の様を心得ておられるがその余情は妖艶ではない。ただの色好み歌に堕する中に在って、先ず手本とすべき歌であるということ。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。