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帯とけの拾遺抄
藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って拾遺抄の歌を紐解いている。
江戸時代以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。
このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。近世以来の学問的解釈方法の方を棄てたのである。
拾遺抄 巻第三 秋 四十九首
延喜御時中宮御屏風に 貫之
百二十七 ちりぬべき山のもみぢを秋ぎりの やすくも見せでたちかくすらん
延喜の御時、中宮の御屏風に 貫之
(散ってしまうにちがいない山の紅葉を、秋霧が、散り安いとは見せないで、たち隠すのだろう……果ててしまうにちがいない山ばの飽き色を、飽きの限りのように、果て安くは見せないで、おとこは・立ち、それを隠すだろう・どうしてかな)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「ちりぬ…散りぬ…散ってしまう…果ててしまう」「ぬ…完了の意を表す」「べき…べし…確実な推量・当然の意を表す…に違いない…当然そうなる」「山…山ば」「もみぢを…紅葉を…飽き色したのを…果て方のおとこ」「秋ぎりの…秋霧が…飽き限りのように…山ばの果てのように」「の…が…主語を示す…のように…比喩を表す」「やすくも…安くも…(果て)やすくは…(折れ)やすくは」「見せで…見せないで…見しないで」「見…覯…媾…まぐあい」「たちかくす…(霧が)立ち隠す…(決起して立ち、し折れるおを)隠す」「らん…らむ…推量する意を表す…原因・理由を推量する意を表す…どうしてだろう」
歌の清げな姿は、散り初める紅葉と秋霧の風情。
心におかしきところは、はかないさがに絶え果てるのを、そうは見せまいと決起するおとこの気色。
わかりやすく言えば、はかない性(さが)を隠して起立するおとこを愛おしいと思って、女達よ、「法師…ほ伏し」とか「つつ…筒」とか「扇忘れ…合う気忘れ」などと、悪口を言わないでくれという貫之のメッセージである。この御屏風は、主上、中宮、お仕えする多くの女房・女官たちが御覧になられた誰もが、心におかしいと思うだろう。
貫之集によれば、延長二年(古今和歌集撰集からほぼ二十年後)五月に中宮御屏風のための和歌二十六首を詠んだ。その一首。
題不知 僧正遍昭
百二十八 秋のよのあらしの声をきくときは この葉ならねど我ぞかなしき
題しらず 僧正遍昭
(秋の夜の嵐の音を聞く時は、散る・木の葉ではないけれど、我は哀しい……飽きの男女の仲の夜の嵐の声を聞くときは、木の端くれではないけれど、われぞ、わがものが・愛おしい)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「秋のよ…秋の世…飽きの男女の仲…飽きの夜」「あらし…嵐…山ばで吹く心風…感極まった情況」「声…音…こゑ…小枝…おとこ」「この葉…木の葉…この端…身の端くれ」「我ぞ…我自身…わがもの」「ぞ…何かを強く指示する意を表す」「かなしき…悲しき…哀しき…愛しき…いとおしい…かわいそう」
歌の清げな姿は、秋の嵐の夜の風情。
心におかしきところは、木の端くれ、ただの筒と見なして来たお前がいとおしいと申されるところ。
古今集仮名序で、貫之は次のように述べた。「古のことをも、歌をも知れる人、詠む人多からず」、その中にあって、歌詠みとして「近き世に、その名聞こえたる人は、即ち、僧正遍昭は、歌の様は得たれども、まこと少なし、たとえば、絵に描ける女を見ていたずらに心を動かすがごとし」。歌の様を心得ておられるがその余情は妖艶ではない。ただの色好み歌に堕する中に在って、先ず手本とすべき歌であるということ。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。