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帯とけの拾遺抄
藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って拾遺抄の歌を紐解いている。
江戸時代以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。
このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。近世以来の学問的解釈方法の方を棄てたのである。
拾遺抄 巻第三 秋 四十九首
二条右大臣のあはたの山庄の障子のゑにたび人のもみぢ有るところにやどりたる
かた有るに 恵京法し
百三十一 いまよりはもみぢのもとにやどとらじ をしむにたびのひかずへぬべし
二条右大臣(藤原道兼)の粟田の山荘の障子の絵に旅人が紅葉のある所に宿っている姿があるので 恵慶法師
(今よりは、紅葉の近くに宿をとらないつもりだ、愛でているうちに、旅の日数が経ってしまうだろう……井間寄りはもみ路の許に屋門とらない・女のもとに宿らない、つもりである、愛おしみ愛着するに、たびたび、引かず・日数経ってしまうだろう)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「いま…今…井・間…言の心は女」「より…起点を示す…寄り」「もみぢ…紅葉…飽き色…もみもみ路」「路…言の心は女」「もと…許…も門…門の言の心は女」「やど…宿…屋・門…言の心は女」「じ…打消しの意志を表す…しないつもりである」「をしむ…愛おしむ…惜しむ…愛着する」「たび…旅…修行の旅…度…度数・回数…たびたび」「ひかず…日数…引かず…退去せず」
歌の清げな姿は、見れど飽かぬ紅葉のすばらしさ。
心におかしきところは、裏声で述べる煩悩断つ法師の決心。
浮言綺語の戯れに似た歌詞の戯れに顕れるのは人の深き心で、煩悩であるが、歌に詠めば、煩悩即ち菩提(悟りの境地)であると、ほぼこのような事を、藤原俊成は『古来風躰抄』で述べている。それが解り易い形になっている歌である。
題不知 読人不知
百三十二 とふ人もいまはあらしの山風に 人まつむしのこゑぞきこゆる
題しらず (よみ人しらず・女の歌として聞く)
(訪う人も今は、有らじの・嵐の山風に、人待つ・松虫の声が聞こえている……訪う男もいない、井間は、荒らしのよう、山ばの心風に、男待つ、身の虫の泣き声が、聞こえている)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「いまは…今は…井間は…女の身は」「あらじ…無いだろう…あらし…嵐…山の名…荒し…粗し…粗雑」「山風…山おろしの風…山ばの心風」「人…男」「まつむし…虫の名…鳴く虫の言の心は女」「まつ…待つ…松…言の心は女」「こゑ…松虫の声…待つ虫の声…女の身に棲む煩悩という虫の声だろう」
歌の清げな姿は、風と松虫の音が聞こえている嵐山の風情。
心におかしきところは、事情があって、見捨てられた女の身の虫が鳴いているという。
言の心は、万葉集・古今集の歌々から心得るほかない。そのつもりになれば、歌詞から字義以外の意味が聞こえる。紀貫之「土佐日記」(正月九日)で、船人が、「見渡せば松の梢ごとに住む鶴は千代のどち(友達)とぞ思ふべらなる」と詠む。(二月十六日)には、小松を亡き少女に喩えて歌を詠む。貫之は、松と鶴(鳴く鳥)の言の心が同じであることを、教示しているのである。言の心を女と心得て、いつかどこかで、「松風」「松の声」や「たづなきわたる」などと詠む歌を聞けば、その句の裏の心も知ることができるだろう。土佐日記ではそのほか多くの「言の心」をそれとはなしに教示してある。
「歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人」になれば、古今の歌が恋しい程になるのだろうと、古今集仮名序は結ばれてある。今では、ことの心を「事の心」と訳し、「物事の真意義」「事の意味・事の趣意」「内情・事情」などとする。そのような文脈に今の人々は置かれている。それでは、歌の言葉に「言の心」があるという、心づもりさえできないので、「言の心」は永遠に心得えられない。古今集の歌を恋しがることなど出来そうもないのである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。