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帯とけの拾遺抄
藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って『拾遺抄』の歌を紐解いている。
近世以来の学問的解釈によって見捨てられてしまった歌の「心におかしきところ」が蘇えるだろう。和歌を中心にした古典文芸は、人の「奥深い心」をも表現しているのに、今、人々に見えているのは氷山の一角、歌の「清げな姿」のみである。
拾遺抄 巻第四 冬 三十首
しぐれし侍りけるひよみ侍りける 貫之
百三十八 かきくらししぐるるそらをながめつつ おもひこそやれ神なびのもり
又神なづきしぐるるそらをとも
時雨降った日に詠んだ 貫之
(にわかに暗くなった時雨降る空を、眺めながら思いをはせている、大和の・神奈備の杜……搔き果て、時のお雨降る、空しきを、長めつつ思いを晴らせよ、髪なびの・なびやかな盛り)
又は(神無月、時雨降る空を……かみな尽き、片や・時のお雨ふる、空しきを)とも
言の心と言の戯れ
「かきくらし…かき暮らし…搔き暗くし」「しぐるる…初冬の雨降る…終わりのおとこ雨降る」「そら…天空…むなし」「を…対象を示す…折…おとこ」「ながめ…眺め…見続け…長め」「つつ…継続を表す…筒…中空のもの」「おもひこそやれ…思い遣る…思いをはせる…思いを晴らす」「神なびのもり…神奈備の社…髪なびの盛り」「神…上…髪…女」「なび…靡…(髪など)なびく…なび(やか)…美しくかわいい」「もり…森…社…盛り…さかり」
「神なづき…神無月…十月…冬の初め…かみな尽き…女尽きない」「かみ…神…上…髪…女」「な…無…ない」
歌の清げな姿は、遠く思いをはせるのは、大和の山々と神の社。
心におかしきところは、おとこは努めて長め、空筒と成ろうとも、かみの靡く盛りと成るまで、と聞こえるところ。
深き心は、和合の一つのかたちを示したところか。
寛和二年清涼殿の御障子のゑにあじろをかける所に 読人不知
百三十九 あじろぎにかけつつあらふからにしき ひをへてよするもみぢなりけり
寛和二年(986年)、清涼殿の御障子の絵に網代を描いた所に (よみ人しらず・男の歌として聞く)
(網代の杭に掛けながら洗う唐錦織、日数を経て寄せる紅葉だったのだなあ……吾白木に懸けつつ荒ぶ空錦木、干を経て、寄り添いくる、もみ路だったなあ)
言の心と言の戯れ
「あじろぎ…網代木…(宇治川の)網代の杭…吾白木」「吾…自称」「白…色失せた…色情無し」「木…言の心は男…気」「かけ…掛け…懸け…(命を)懸け」「つつ…継続を表す…筒…中空」「あらふ…洗う…染織の仕上げ作業…荒ふ…荒夫…あばれる」「からにしき…唐錦織…色豊か…空錦木…色失せたおとこ」「ひをへて…日を経て…後日になって…女はごたち(後発)で…干を経て…(おとこは)干上がって」「よする…寄せる…流れ寄る…寄り添う…身を寄せる」「もみぢ…紅葉…もみ路…をみなの盛り」「なりけり…であった…であったなあ…気付き・断定・詠嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、氷魚獲る網代と散り落ち流れ寄る紅葉の風景。
心におかしきところは、おとこ色失せてもあばれつつ干あがってのちに、もじ路となるをみな、詠嘆。
みとのまぐあひの、現実的情況を詠んだ。
作歌事情が明らかで、よみ人が知れないはずはない。「よみ人しらず」と匿名にしなければならない理由は、「心におかしきところ」のなまなましさにあるのだろう。吾白木を詠んだ人のプライバシーを守るためかな。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。