帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 冬 (百五十)(百五十一)

2015-04-15 01:09:42 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って『拾遺抄』の歌を紐解いている。

近世以来の学問的解釈によって見捨てられてしまった歌の「心におかしきところ」が蘇えるだろう。そうすれば、和歌の真髄に触れることができ、この時代の歌論や言語観が内部から見えるようになる。それを簡単に言えば、貫之は「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しいほどおもしろくなるだろう」と述べ、清少納言は「聞き耳(によって意味の)異なるもの、それが我々の言葉である」と述べ、俊成は「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似ているが、その戯れに歌の主旨や趣旨が顕れる。それはいわば煩悩である」と述べたのである。


 

拾遺抄 巻第四 冬 三十首


        此歌柿下人丸集に有り、或る本には三方沙弥がともはべり

百五十  あしひきの山ぢもしらずしらかしの 枝にもはにも雪のふれれば

この歌は柿本人麻呂集に有り、或る本には三方沙弥の作ともある

(あしひきの山路もわからない、白樫の木の枝にも葉にも、雪が降っているので……あの山ばののぼり路も、わからない、堅き我が身の・白樫の枝にも、妻の身の・端にも、白ゆきが降るので)


   言の心と言の戯れ

「あしひきの…枕詞」「山ぢ…山路…山ばへ上る路」「しらず…知らず…わからない…感知できない」「しらかし…白樫…材質は堅く弾力があり春に花も咲く木…木の言の心は男」「枝…身の枝…おとこ」「は…葉…端…身の端…(女の身の)端」「雪…白…おとこ白ゆき…逝き…おとこの情念…おとこの魂」「れ…る…自然にそうなる意を表す」

 

歌の清げな姿は、雪の山路を行く旅人の様子。

心におかしきところは、樫と自負するおとこ、はかなくも山の途中で白く色褪せてしまうありさま。

 

 

題不知                           読人不知

百五十一 水のうへとおもひしものを冬のよの こほりはそでのものにぞ有りける

題しらず                         (よみ人しらず・男の歌として聞く)

(水の上と思っていたのに、冬の夜の氷は、舟の・へりの、身近な・ものだったのだなあ……をみなの上と共にと、思っていたものの、冬の夜の、冷ややかな・こ掘りは、わが身の端の物だったなあ)

 

言の心と言の戯れ

「水…池・川・湖など…これらの言の心は女」「うへ…上…女の敬称…上のもの…舟…夫根…男…おとこ」「と…引用のと…共に…一緒に」「こほり…氷…冷たい…冷やか…こ掘り…井掘りなどと共に、まぐあい」「そで…端…舟のへり・へさき…袖…衣の端…身の端」「ける…けり…気付き・詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、冬の船路での旅人の実感。

心におかしきところは、冷ややかなこほり、我が身のそでの冬を実感。


 

冬の景色や風物は歌の主題ではない。歌は「人の心に思うことを、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」と、古今集仮名序冒頭にあるように、四季の景物は、託され、付けられるものにすぎない。古今集では「羇旅歌」や「哀傷歌」の巻に在るべき歌が此処に在っても、解釈の間違いではない。

 

申し後れたけれども。「拾遺抄」十巻は次のようになっている。

巻第一 春(五十五首)。巻第二 夏(三十二首)。巻第三 秋(四十九首)。巻第四 冬(三十首)。巻第五 賀(五十一首)。巻第六 別(三十四首)。巻第七 恋上(六十五首)。巻第八 恋下(七十四首)。巻第九 雑上(百二首)。巻第十 雑下(八十三首)


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。