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帯とけの拾遺抄
藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って『拾遺抄』の歌を紐解いている。
近世以来の学問的解釈によって見捨てられてしまった歌の「心におかしきところ」が蘇えるだろう。そうすれば、和歌の真髄に触れることができ、この時代の歌論や言語観が内部から見えるようになる。それを簡単に言えば、貫之は「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しいほどおもしろくなるだろう」と述べ、清少納言は「聞き耳(によって意味の)異なるもの、それが我々の言葉である」と述べ、俊成は「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似ているが、その戯れに歌の主旨や趣旨が顕れる。それはいわば煩悩である」と述べたのである。
拾遺抄 巻第四 冬 三十首
山井にゆきのふりかかるを見て 伊勢
百五十六 あしひきの山ゐにふれるしらゆきは すれる衣のここちこそすれ
山の井に雪が降りかかるのを見て (伊勢の御・女流歌人)
(あしひきの山井に降った白雪は、山藍で・摺り染めた衣のような感じがする……あの山ばの井に降られた白ゆきは、擦られる心と身のような、ここちがする)
言の心と言の戯れ
「あしひきの…枕詞」「山ゐ…山井(山の湧水で浅い井戸のようになったところ)…井の言の心は女…山あゐ(山ゐ)…山藍(草の名・葉を藍色の染料とした)」「すれる衣…摺り衣(白布に草木の染料で手書きの模様や文字を摺った衣)…擦られ衣」「る…自然にそうなる意を表す(井の部分だけ白雪がとけて自然に藍染め模様になる)…受身を表す…される…られる」「衣…常に心身を被うもので心身の換喩…身や心のこと」「の…比喩を表す…のように…のような」「ここち…心地…感じ…気持」
歌の清げな姿は、山藍染めの衣のような山の井の雪景色。
心におかしきところは、山ばの井に降られた白ゆきは、すられる心と身のような心地がする。
伊勢は女流歌人の第一人者。古今集・後撰集・拾遺集の入集歌数は女歌人中最多。
「袖すりあうも他生の縁」という仏の言葉のような、ことわざにも、「心におかしきところ」があるようで、今生で「身のそですり合うも多少の縁」ある心地はするだろう。
をんなをかたらひ侍りけるが年ごろに成りにけれどうとく侍りければ
雪のふり侍りけるひ 元輔
百五十七 ふるほどもはかなくみゆるあは雪の うらやましくもうちとくるかな
女を口説いて1年ほどになったけれど、親しくなれなかったので、
雪の降った日 清原元輔
(降る程も儚く見える淡雪が、羨ましくも、うちとけることよ……振るありさまも、たよりなく見ている、我が・淡い白ゆきが、心病ましくも、射ち、融けるなあ)
言の心と言の戯れ
「ふる…降る…経る…振る」「ほど…時間…程度…ありさま」「みゆる…見える」「見…覯…媾…まぐあい」「あは雪…淡雪…沫雪…はかないおとこ白ゆき」「うらやましくも…羨ましくも…妬ましくも…心病ましくも…痛ましくも」「うちとくる…打ち解ける…親しくなる…射ちとける」「うち接頭語…打ち…射ち…撃ち」「かな…感動を表す…詠嘆を表す」
両歌とも「白雪」「淡雪」と、他の歌詞の戯れの意味を知らずに聞けば、子供の言葉かと思えるほど、つまらない歌である。「ゆき」の言の心を心得て聞けば、ただの「色好み歌」と聞こえる歌である。この表と裏の色合いの違いも両歌のおかしさのうちである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。