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帯とけの拾遺抄
藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って『拾遺抄』の歌を紐解いている。
近世以来の学問的解釈によって見捨てられてしまった歌の「心におかしきところ」が蘇えるだろう。和歌を中心にした古典文芸は、人の「奥深い心」をも表現しているのに、今、人々に見えているのは氷山の一角、「清げな姿」のみである。
拾遺抄 巻第四 冬 三十首
屏風に 平兼盛
百四十 ふしづけしよどのわたりをけさ見れば とけむごもなく氷りしにけり
屏風に 平兼盛
(魚獲るふし・柴、浸けた川の淀の辺りを、今朝見れば、融ける期もなく氷っていたことよ……伏し木、浸けた夜殿のあたりを、今朝見れば、うち解けるごもなく、こ掘りしてしまったなあ)
言の心と言の戯れ
「ふし…柴…低雑木又は小枝を束ね川に浸け置き魚を集め獲るもの…夫肢…伏し・小・粗雑…おとこの自嘲・卑下」「つけ…浸け…(川に)浸す…侵入」「よどのわたり…淀の辺り…夜殿あたり…寝室あたり…よどんでいる方」「けさ…今朝…努めた翌朝」「とけむ…融ける…氷がとける…解ける…うちとける…心おきなく親しむ」「ご…期…時…御…婦人の敬称…後…おそい…後発」「氷…冷やか…こほり(肢掘り・川掘り・井掘り)…まぐあい」「に…ぬ…しまった…完了した意を表す…終わってしまった」「けり…詠嘆」
歌の清げな姿は、川の淀みの柴束と初氷の景色。
心におかしきところは、うちとける時なくこ掘りし、冷ややかに迎えた朝の気色、自嘲・詠嘆・終わりの予感。
藤原俊成「古来風躰抄」拾遺集冬で、この歌を次のように評している。
これひとつの姿なり。期などは、うちまかせぬ歌の詞なれど、この歌にとりていとをかしかるべし。
(これ、一つの男女の・一つの歌の、姿である。期などは、普通ではない歌詞であるけれども、この歌にとっては、御や後と戯れて・とっても心におかしいであろう)
題不知 読人不知
百四十一 冬さむみこほらぬ水はなけれども 吉野のたきはたゆるよもなし
題しらず (よみ人しらず・女の歌として聞く)
(冬、寒いため氷らない水はないけれども、吉野の滝は絶える世はない……ものの終り、心さむいため、こ掘らないをみなはいないけれども、好しのの・わたしの好しの、多気は絶える夜もなし)
言の心と言の戯れ
「冬…四季の終わり…ものの終わり」「さむみ…寒いため…心寒いため…肌寒いため」「み…原因理由を表す」「こほらぬ…氷らない…こ掘らない」「水…言の心は女」「吉野…地名…名はさまざまに戯れる。良し野、美良しの、見好しの、まぐあい好きの」「たき…滝…言の心は女…多気…多情」「たゆる…絶ゆる…終わりと成る」「よ…世…代…男女の仲…夜」「も…意味を強める」
歌の清げな姿は、吉野の滝の荘厳な姿。
心におかしきところは、自称美良し女の、見好しの多気の、終わりなきありさま。
清少納言は公任と同年輩であり、枕草子も拾遺抄の歌と同じ文脈にある。ものの表現様式も「言の心」も言の戯れも同じであるにちがいない。そのつもりで、枕草子の「滝は」という文章を読む。
滝は、音なしの滝。ふるのたきは、法皇の御覧じにおはしましけんこそめでたけれ。なちの滝は、熊野にありときくが哀れなり。とゞろきの滝は、いかにかしがましく、おそろしからん。
(……多気女は、おとなしく気配り気遣いの多い・人よね。今も情を忘れぬ老いた・古の女は、出家された帝が御覧になりに行幸されたようで愛でたいことよ。無〈父・土地・知・智・乳房〉の多気女は、熊野で健在と聞くが哀れである。轟きの多気女は、どれほど口喧しく〈貸しがましく・借りて・狩りして・娶ってと言って〉、恐ろしいでしょうね)
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。