帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(8)かしらの雪となるぞわびしき

2016-09-02 18:41:25 | 古典

               


                            帯とけの「古今和歌集」

                   ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで解き直せば、隠れていた歌の重要な部分が顕れる。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上(8)

 

二条の后の春宮の御息所と聞こえける時、正月三日御前に召して、

仰せごとある間に、日は照りながら、雪の頭に降りかかりけるを、

よませ給ひける                  文屋康秀

 春の日の光にあたるわれなれど かしらの雪と なるぞわびしき

(春の陽光に・春宮の御栄光に、あたる我であるけれども、頭が雪と・頭が白髪と、なっているのだけが、みすぼらしく、つらいことで……春情の火にあたる我なれど、寄せ来る心波に・もののかしらが、白ゆきとなるのだけが、わびしいことで、ございまして)

 


 歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「春…季節の春…春宮(皇太子)…張る…春情」「日…陽…日の御子…皇太子…火…情熱の火」「光…陽光…威光…栄光…おかげ」「あたる…(光に)当る…受ける…(火に)触れる」「かしら…頭…頭髪…ものの頭…小亀がかしら、などともいう、おとこ」「雪…白雪…白逝き…おとこの果て…おとこの情念…おとこの残念」「ぞ…強調する意を表す…限定する意を表す」「わびしき…侘びしい…みすぼらしい…つらい…わびしの連体形、余情を残す止め方…わびしいことでございまして…わびしことでございましょう」。

 

歌の清げな姿は、初春の陽光が照りつつ、雪の頭に降りかかる風景。それに付けて、日の御子のご栄光のおかげを受けつつも、寄る年波だけが辛いと、心の内を表出した歌。

心におかしきところが、添えられてある。その具体的な情景を想像させられれば、下劣としか言いようがない。

 

「少し間がある、康秀よ(帝の前では臣を名前で呼ぶのが習わし)、雪の頭に降りかかるを題に、歌を詠め」と、二条の后の仰せごとがあったので、詠んだ歌。今の人々は、この歌を聞いて、どのように思うだろうか。次の紀貫之による、文屋康秀(ぶんやのやすひで)批判に同感できれば、この歌を正当に聞けているのである。「ぶんやのやすひでは、ことばは巧みにて、そのさま身におはず、いはば、あきひとのよききぬ着たらむが如し(仮名序)」――文屋康秀は、言葉の用い方は巧みで・清げな姿を詠むが、その内容は、汚げで・清げな衣が身に合っていない。言わば、商人が良き絹衣を着て物売っているようなものである。

 

今の国文学的解釈のすべては、歌の「清げな姿」を見ている、歌の生の心が見えず、包んでいる衣だけを見ているのである。おそらく貫之の批評は理解できず、歌と共に曲解するか、無視するか、仮名序を書いた思われる貫之を下手な歌詠み(下手な歌の批評家)と貶めるか。このどれかになるだろう。歌学、国学を継承した国文学的解釈が間違っていて、和歌には、貫之らに聞こえて、近代人には聞こえなくなった意味が有ったとは、考えられないところにある。「春」を季節の春か、せいぜい春宮としか聞こえない耳には、和歌の「心におかしきところ」は永遠に聞こえない。


 康秀の歌は、他に「吹くからに秋の草木のしほるれば むべ山風をあらしといふらむ」など四首ある。その露骨な様は、その時々に読み直しましょう。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)