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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(26)
(歌奉れと仰せられし時によみて奉れる 貫 之)
あをやぎの糸よりかくる春しもぞ みだれて花のほころびにける
(青柳の細枝に撚りをかける、春の季節よ、みだれて、花が・つぼみが、ほころんだことよ……吾おや木の細肢、撚りかける春の情よ、みだれて、お花が、綻んでしてしまったなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「あをやぎ…青柳…青年男子…木の言の心は男…吾おや木…吾がおとこや」「糸…細いもの…よわよわしい物…細枝…身の小枝…若きおとこ」「よりかくる…(細糸を数本)撚りをかける…強くする…(太く)成長させる」「春…季節の春…春情」「しもぞ…強調の意を表す…下ぞ…肢もぞ」「みだれて…乱れて…淫らになって…身垂れて」「花…木の花…男花…おとこ花」「ほころび…綻び…つぼみの開き始め…破綻…緊張や我慢ができなくなるさま…もらし」「に…ぬ…完了した意を表す」「ける…けり…気付き・詠嘆」。
青柳の細枝が成長する春の季節、みだれて木の花の蕾みがひらいたことよ。――歌の清げな姿。
吾おや木の細枝、緊張膨張させる春情よ、乱れ、身垂れて、おとこ花のつぼみ、綻んでしまったことよ。――歌の心におかしきところ。
おそれながら、醍醐天皇は「賢し、貫之を、勅撰集の撰者兼編者に選ぼう」とお思いになられただろう。お供の男どもは「あるある」と思って苦笑しながらこの歌に共感しただろう。
さて、近代から現代にかけての、この歌の解釈は「歌の清げな姿」から一歩も出ない。
或る明治の国文学者は「糸を撚って綻びを繕うべきなのに、青柳が糸を撚りかける春の季節は、花が思いがけず、甚く咲き乱れて綻びたことよ」とほぼこのように解釈する。また或る国文学者は「青柳が風になびいて、まるで糸を撚り合わせるように見えるこの春こそは、青柳の糸が風に乱れ、その柳の花が乱れ咲いているようだ」とし、或る古語辞典には「青く芽ぶいた柳の細い枝が(風になびき合って)、糸をより(縫物の準備をしている)、その春に桜の花は(花の衣が乱れ破れ)ほころび、盛んに咲き誇っているよ」とある。
この近代から現代の人々は、貫之のいう「歌のさまを知り、ことの心を心得たらむ人」ではない。公任の捉えた歌の様(歌の表現様式)に「心におかしきところ」があることを無視し、「ことの心」を「事の心」や「物事の真意義」などとして、「言の心」を心得ず。俊成のいう「歌言葉は浮言綺語の戯れに似た戯れである」という言語観をも無視したのである。人間味溢れて、心におかしい歌であるのに、「心におかしきところ」が全て消えている。
明治の正岡子規は「貫之は下手な歌詠みにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と言ったのは、正岡子規も歌を国文学的に解釈していたからである。この解釈では「貫之とても同じこと、(古今集には)歌らしき歌は一首も相見え不申候」という事になるのは当然で、解釈がくだらないからである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)