帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(13)花の香を風の便りにたぐへてぞ

2016-09-08 18:33:14 | 古典

               


                            帯とけの「古今和歌集」

                                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。
それは何かの説明は言い難いので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
13

 

    (寛平御時后宮歌合の歌)           紀友則

花の香を風のたよりにたぐへてぞ 鶯さそふしるべにはやる

(梅の・花の香を、風の便りに伴わせてぞ、春告げる・鶯を誘い出すみちしるべとして、送ってやる……おとこ花の香を、心風の便りに伴わせてだ、をみな誘う・浮く泌す誘う、路しるべに・みち汁辺に、贈ってやる)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「花…梅の花…木の花…男花…おとこ花」「風…春風…心に吹く風…春情の風」「たぐへて…添えて…並べて…伴わせて」「ぞ…強く指示する意を表す」「鶯…うぐひす…鳥の言の心は女…浮く泌す、憂く秘す」「す…洲…おんな」「しるべ…道標…路しるべ…汁辺」「みち…路…おんな」「やる…遣る…送る…贈る」。

「浮く泌す」「す…おんな」「汁辺」などは、藤原俊成のいう、歌言葉の「浮言綺語の戯れにも似た」戯れの意味である。

 

梅の花の香り、春風、春告げる鶯の声、早春の風情を待望する人の心。――歌の清げな姿。

早春の風情に付けて、和合の極致へ性急に達しようとする若者の青い性愛が詠まれてある。――歌の心におかしきところ。

 

国文学的解釈では、歌の「清げな姿」の「事物の叙述」と、それに対する詠み手の心情表現との絡み合いに、歌の深い心が顕れるとするようである。

 

俊成は「煩悩」というエロス(性愛・生の本能)が、歌の言葉の戯れに顕れる。藤原俊成「古来風躰抄」の論述を聞くと、俊成の見解は国文学とは著しく異なる。その要旨は、「仏法の道も、和歌の道も、古より伝えられてきた経典、歌集の次第を聞き、深く心得るべきことである。ただし、仏法の『法文金口の深き義のある言葉』とは違って、歌の言葉は『浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れる』ものである。『これを縁として、仏の道にも、通はさむため、且つは、煩悩即ち菩提なるが故に』、世間の経書に人の『業(ごう)』など解くものあれば、皆正法にしたがうといわれる(和歌に顕れる煩悩も正法である)。歌の深き道を解くことも、仏法に似ているので、『歌の善き、悪しき、深き心を知らむことも、言葉をもっては、述べ難き』ものである。それは『天台止観によそへて、同じように思いやるべき事である』」。

 

「止観」は、「広辞苑」によると「心を一つの対象に集中させて雑念を止め(止)、正しい知恵によって、対象を観察すること(観)」。又、「煩悩」は「衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の妄念」。「菩提」は「仏の悟り。煩悩を断じ真理を明らかに知って得られる境地」である。従って、ここまで古今和歌集の十数首の歌の、エロス、即ち「業」「煩悩」を、明らかにして来たので、人の心を煩わしくも悩ませるものに接して、それを悟れる境地に近づけたかもしれない。少なくとも、和歌に顕れる強烈なエロスに途惑い、その存在を疑う必要はもはやない。心静かに和歌に集中して、雑念(特に国文学的解釈方法)を捨て、正しい知恵(平安時代の歌論と言語観)によって、歌言葉の戯れのうちに顕れる「煩悩」即ちエロス(性愛・生の本能)を観察することで、和歌の真髄に触れることが出来るのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)