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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(16)
題しらず よみ人しらず
野辺ちかく家居しせればうぐひすの なくなるこゑはあさなあさなきく
(野辺の近くの家に住んで居れば、鶯の鳴いている声は、毎朝毎朝、聞こえている……山ばなし・ひら野の野辺近くに、井辺が居れば、憂く秘すの泣いて成る声は、朝な朝な・浅く浅く、聞こえる・ことよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「野辺…山ばでないところ…ひら野…心地も平静なところ」「家…言の心は女…いへ…井辺…おんな」「うぐひす…鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女…浮く秘す、憂く泌すなどと戯れる」「なく…鳴く…泣く」「こゑ…声…小枝…おとこの侮辱的表現」「あさなあさな…朝な朝な…朝毎に…浅な浅な…情が薄い毎に…色情が浅い浅い」「きく…聞く…連体形、余韻の有る止め方…(聞く)ことよ…(聞こえる)ことでしょうよ」
郊外の春の朝、鶯の声がする清々しい風情。――歌の清げな姿。
ものの極みに至らず、野辺にのびた小枝に、をみなのもの憂く泣く声は、聞こえるや。――歌の心におかしきところ。
詠み人の名は知らないが、女の詠んだ歌として聞いた。男君への不満など、心に思う事が、春の朝の清々しい風情に付けて、言いだされてある。
大方の国文学的解釈のように清げな姿だけの歌だとすると、それは和歌では無い。古今集仮名序の冒頭を読むと明らかである。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世中に在る人、こと(事)、わざ(業・ごう)、繁きもの成れば、心に思う事を、見るもの、聞くものに付けて、言ひだせるなり」とある。この論旨に適っているのは「心におかしきところ」のある解釈である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)