帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(16)鶯のなくなる声はあさなあさなきく

2016-09-11 19:41:14 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
16

 

題しらず                 よみ人しらず

野辺ちかく家居しせればうぐひすの なくなるこゑはあさなあさなきく

(野辺の近くの家に住んで居れば、鶯の鳴いている声は、毎朝毎朝、聞こえている……山ばなし・ひら野の野辺近くに、井辺が居れば、憂く秘すの泣いて成る声は、朝な朝な・浅く浅く、聞こえる・ことよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「野辺…山ばでないところ…ひら野…心地も平静なところ」「家…言の心は女…いへ…井辺…おんな」「うぐひす…鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女…浮く秘す、憂く泌すなどと戯れる」「なく…鳴く…泣く」「こゑ…声…小枝…おとこの侮辱的表現」「あさなあさな…朝な朝な…朝毎に…浅な浅な…情が薄い毎に…色情が浅い浅い」「きく…聞く…連体形、余韻の有る止め方…(聞く)ことよ…(聞こえる)ことでしょうよ」

 

郊外の春の朝、鶯の声がする清々しい風情。――歌の清げな姿。

ものの極みに至らず、野辺にのびた小枝に、をみなのもの憂く泣く声は、聞こえるや。――歌の心におかしきところ。

 

詠み人の名は知らないが、女の詠んだ歌として聞いた。男君への不満など、心に思う事が、春の朝の清々しい風情に付けて、言いだされてある。

大方の国文学的解釈のように清げな姿だけの歌だとすると、それは和歌では無い。古今集仮名序の冒頭を読むと明らかである。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世中に在る人、こと(事)、わざ(業・ごう)、繁きもの成れば、心に思う事を、見るもの、聞くものに付けて、言ひだせるなり」とある。この論旨に適っているのは「心におかしきところ」のある解釈である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)