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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(18)
(題しらず) (よみ人しらず)
み山には松の雪だにきえなくに 宮こは春のわかなつみけり
(深山では、松の雪さえ消えていないのに、都は、早くも・春の若菜摘みしていることよ……深い山ばには、待つ女の、白ゆきさえ、消えていないのに、宮こは・山ばの有頂天は、春の張るものが・なおも、若菜つみしていることよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「みやま…深山…奥深い山ば…見山…媾の山ば」「み…深…奥深い…見…美…接頭語」「山…山ば…もの事の盛り上がった所」「見…覯…媾…まぐあい」「松…待つ…松の言の心は女…松葉」「雪…冬の景物…逝き…おとこ白ゆき…白い花」「宮こ…都…京…山ばの頂上…快楽の頂点」「春…季節の春…春情…張る…張るおとこ」「若菜…若い女…菜・草の言の心は女」「つむ…摘む…引く…採る…娶る…積む…積み重ねる…詰む…詰め込む」「けり…気付き感嘆・詠嘆する」。
深山の松に降り積る雪の遠景、都の春の野では若い男女が若菜摘みしている、早春の風情。――歌の清げな姿。
あの深い山ばには、女の端の白ゆきさえ消えないのに、有頂天の京には、春の張るものが、若い女つみ、積み詰めていることよ。――歌の心にをかしきところ。
若い男の有頂天の有様である。姫まつは、いまだ情は冬だったかな。おとこのはやる性情を女の立場で詠んだ歌と思われる。
さて、「雪」「見」という言葉が、万葉集において、すでに同じ「言の心」をもっていた証しになるだろうか。万葉集 巻第八春雑歌 駿河采女歌一首を聞く、
沫雪かはだれに降ると見るまでに 流らへ散るは何の花ぞも
(淡雪か、まだらに降ると見ていると、流れて、散るのは、何の花かしら……泡沫のおとこ白ゆきか、薄くまだらに降と見るほどに、ながれ、散りはてるのは、何のお花かしらね)
「雪…冬の景物…逝き…おとこ白ゆき…白い花」「はだれに…まだらに…薄く」「見…覯…媾…まぐあい」「までに…程度をはっきり表わす」「花…木の花…おとこ花」「何―ぞも…強く指示する意を表…何と呼ぶべきでしょう…いったい何なのよ」。
花吹雪のように沫雪の降り散る風情とそれに付いての人の思い。――歌の清げな姿。これは、国文学的解釈に近いだろう。
平安時代の人々は、おそらく、次のような意味も聞こえていただろう。おとこ花が淡々しく降り散った時、女の心に思う不満・憤懣を、言い出した。――心におかしきところ。女と男の本性の格の差まで感じられるならば、――心深い。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)