帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(33)色よりも香こそあはれと思ほゆれ

2016-09-30 18:22:51 | 古典

               


                            帯とけの「古今和歌集」

                   ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
33


         (題しらず)             (よみ人しらず)

色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖ふれし宿の梅ぞも

(色彩よりも香りこそ、すばらしいと思われる、誰の袖に触れた、わが宿の梅の花かしらねえ……色情よりも、香こそ・彼子こそ、あゝ、悲しくなるほど愛しく思える、誰の身の端に触れた、わが家の、梅の花・おとこ花なのよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「色…色彩…色や形ある有形のもの…色情」「香…かおり…か…彼」「こそ…強調する意を表す…これぞ…子ぞ…おとこぞ」「あはれ…感嘆した時に発する声…あゝ…悲しい…愛しい…いじらしい」「袖…衣の袖…わが身のそで…おんな」「やど…宿…家…言の心は女…やと…家門…おんな」「ぞも…詠嘆を含んだ疑問の意を表す」。

 

白梅の花の色よりも香りこそ「あはれ」と思える、だれの袖の香に触れたの、わが家の梅よ。――歌の清げな姿。

色彩や形ある時よりも、いまは香こそ「あはれ」と思われる、だれの身の端に触れた、わたしのお花なのよ。――心におかしきところ。

 

女の歌として聞いた。

和歌はエロチシズムのある文芸である。人麻呂・赤人の歌も、貫之・躬恒の歌も、よみ人しらずの歌も、公任の捉えた同じ「歌のさま」をしている。

これらは、今や自然詠とか自然観照の感想を詠んだ歌としか聞こえなくなったようである。古代人の和歌は、清げな姿に、人のほんとうの心の内を表出した人間味あふれる「をかし」くて「あはれ」な文芸であった。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)