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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(22)
歌たてまつれと仰せられし時、よみて奉れる 貫 之
かすが野のわかなつみにや白たへの 袖ふりはへて人の行くらん
醍醐天皇「貫之よ、春のよき日を題に・歌を詠め」と仰せられた時、詠んで奉った歌
(春日野の若菜摘みにかな、白妙の袖振り、栄えて・映えて、人が行くのだろう・今頃……春の微かなひら野のせいかな、白絶えの身の端、振り、延えて、男が逝くのだろう)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「かすがの…春日野…若い男女が若菜摘みに集う所…年頃となった男女の、言わば野外婚活パーティーの場…微かの…山ばのないひら野」「わかなつみ…若菜摘み…若女娶り…若汝摘み」「にや…でかな…にやあらむ…であろうか」「白たへ…白栲…白妙…白絶え…おとこの果て」「袖…端…衣のそで…心の端…身の端」「衣…言の心は心身」「ふり…振り…降り」「はへ…栄え…映え…延え…のびて」「人…人々…男」「行く…ゆく…逝く」「らん…今、見えていない所のことを推量する意を表す…原因・理由を推量する意を表す」
喜び勇んでことさら袖振りながら、春日野へ行く若者たちの様子を想像した。――歌の清げな姿。
若い男の、初めて逢い合うありさまを推量した。おとこのどうしょうもないさが、おとこの本性。――歌の心におかしきところ。
貫之が批判した文屋康秀の「春の日の光にあたる我なれど かしらのゆきとなるぞわびしき」という歌と、何処がどのように違うのだろうか、「心におかしきところ」が聞こえれば、比較検討できるだろう。あえて、やってしまおう。康秀の歌は、初老の男の風情につけた、おとろえたおとこの白絶えのありさまの独白。片や、貫之の歌は、若者たちの喜び勇んで行く想像的風情につけた、若きおとこの、最初の白絶えのありさまの想像的客観的描写。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)