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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(19)
(題しらず) (よみ人しらず)
春日野の飛火の野守いでて見よ いまいくかありてわかなつみてん
(春日野の飛火の野守、野に・出て見よ、今から・幾日あれば、若菜摘み出来るだろうか……春の・微か野の、情熱の・ほとばしる火の、ひら野まもる女、野を・出でて見よ、井間、逝くか在りて、わが汝、摘みとっているだろう・積み詰めているつもりだ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「春日野…若い男女が若菜摘みに集う所…年頃となった男女の、言わば野外婚活パーティーの場…微かの…山ばのないひら野」「とぶひ…飛火…地名…名は戯れる。飛び交う情熱の火、ほとばしる火」「のもり…野守…野盛り…ひらのを盛り上げるひと…野まもり…ひら野に留まる人」「見…覯…媾…まぐあい」「いま…今…今より…井間…おんな」「いくか…幾日…逝くか」「若菜…若い女…若汝…我が汝」「な…汝…身近なものを、親しみ込めて汝と呼ぶ…おとこ・おんな」「つみ…摘み…積み…詰み」「てん…てむ…とよく推量する意を表す…(摘み)してるだろう…強い意志を表す…(積み重ね詰める)つもりだ」。
正月の若菜摘みの日(初めて女たちと出逢う日)を待つ、若い男のはやる気持ち。――歌の清げな姿。
和合の山ばへ、宮こへと、微かな春のひら野を盛り上げようと、はげむ若もののありさま。――心におかしきところ。
はやし言葉が入り、繰り返し唄われる民謡のようである。心におかしきところのエロス(性愛・生の本能)に、生々しさは消えている。
「催馬楽」は、民謡が精錬されて、楽器の演奏と伴に宮廷でも酒の席などで謡われるようになったものとされる。先に揚げた(5)梅が枝の鶯春かけて 鳴けどもいまだ雪は降りつつ、と同じ歌が催馬楽にある。どのように謡われていたか聞きましょう。
梅が枝に、来居る鶯や、春かけて、はれ、春かけて、鳴けどもいまだや、雪は降りつつ、あはれ、そこよしや、雪は降りつつ
歌言葉の「言の心」と戯れの意味は(5)の歌と同じである。
「梅…木の花…言の心は男花…春のお花」「枝…木の枝…身の枝…おとこ」「うぐひす…鶯…鳥…言の心はおんな…女…をみな」「春…季節の春…青春…春情」「かけて…懸けて…心にかけて…心をそそいで…言葉に出して」「鳴けども…泣けども…(感極まって)泣くけれども」「いまだ…未だ…今だ…井間だ…おんなに」「雪…ゆき…白ゆき…おとこの情念」「つつ…継続・反復の意を表す…筒…おとこの果ての自嘲的表現」。
今の人々にも、催馬楽の「心におかしきところ」は聞こえるだろうか。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)