せたな町は、日本で初めての女医である、荻野吟子さんが診療所を開業した地であります。国道の案内板から荻野吟子公園へ行ってみました。
広場があり、駅名の立札が立っています。昔JR駅があり、瀬棚線の終着駅でありました。廃線となった今駅舎は残っていません。昔、私は函館17:20発の急行せたなによく乗車していました。ほとんど森駅で降りましたが、せたな駅のひとつ手前、北檜山駅には数度降りた記憶があります。急行せたなはその後快速せたなになり、1987年の瀬棚線廃線に伴い函館-長万部間のみとなった快速アイリスに変更。そのアイリスも現在は普通列車に変わりなくなってしまいました。
瀬棚線の駅名が記された碑がありました。渡島半島の太平洋側と日本海側を結ぶルートだったのです
温泉施設、やすらぎ館も敷地内にあります。
荻野吟子女史の年表がありました。埼玉県妻沼町の出身で、女医になる覚悟を決めてから、東京女史師範学校(後のお茶の水女子大)に第一期生として入学、首席で卒業しましたが、その後医学校入学に苦慮し、さまざまないじめや、医術開業試験さえ受けさせてもらえない等、幾多の努力と苦難を乗り越え、やっとの思いで医師免許を取得した方であります。
こちらは立像です。当時もこのように凛とした姿で診療されていたのではと思います。
荻野女子を称えた碑が建っています。十字が描かれているのは、キリスト教徒であり、夫である志方之善氏と、他の同志8名とともに、お隣の今金町神丘地区(インマヌエルの丘)に入植し、開墾と布教、医療に専念した功績を称え、贈られたものでありましょう。当初は東京で開業していたようですが、未開の地に移住という困難を選んだ夫に、ついていく決心をしたようです。酷寒の見知らぬ土地で生きていく道を選んだ彼女は、くじけることがきらいで気丈な方だったんだと思います。
広場があり、駅名の立札が立っています。昔JR駅があり、瀬棚線の終着駅でありました。廃線となった今駅舎は残っていません。昔、私は函館17:20発の急行せたなによく乗車していました。ほとんど森駅で降りましたが、せたな駅のひとつ手前、北檜山駅には数度降りた記憶があります。急行せたなはその後快速せたなになり、1987年の瀬棚線廃線に伴い函館-長万部間のみとなった快速アイリスに変更。そのアイリスも現在は普通列車に変わりなくなってしまいました。
瀬棚線の駅名が記された碑がありました。渡島半島の太平洋側と日本海側を結ぶルートだったのです
温泉施設、やすらぎ館も敷地内にあります。
荻野吟子女史の年表がありました。埼玉県妻沼町の出身で、女医になる覚悟を決めてから、東京女史師範学校(後のお茶の水女子大)に第一期生として入学、首席で卒業しましたが、その後医学校入学に苦慮し、さまざまないじめや、医術開業試験さえ受けさせてもらえない等、幾多の努力と苦難を乗り越え、やっとの思いで医師免許を取得した方であります。
こちらは立像です。当時もこのように凛とした姿で診療されていたのではと思います。
荻野女子を称えた碑が建っています。十字が描かれているのは、キリスト教徒であり、夫である志方之善氏と、他の同志8名とともに、お隣の今金町神丘地区(インマヌエルの丘)に入植し、開墾と布教、医療に専念した功績を称え、贈られたものでありましょう。当初は東京で開業していたようですが、未開の地に移住という困難を選んだ夫に、ついていく決心をしたようです。酷寒の見知らぬ土地で生きていく道を選んだ彼女は、くじけることがきらいで気丈な方だったんだと思います。
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