さて、皇居外苑へやって来ました。東御苑を廻ってみます。
では参るぞ、たのもう~。おお、入り口のボタンがきれいでござるよ。
大手門を含む多くの建物が、明暦の大火で焼失しました。
当時の写真とほぼ同じ姿で復元されています。
入り口詰所で入園票をもらいます。入園は無料です。
絵画、書、工芸品などの美術品はもとより、皇族のご遺贈品、ご寄贈品が多数所蔵されています。
蒙古襲来絵詞や唐獅子図屏風など、歴史の教科書に出てくる絵画も所蔵しています。企画展示も随時開催しています。
三の丸尚蔵館を出てすぐ向かい側から、凄まじい気合いとともに、竹刀の打突音が響き渡っています。皇宮警察の武道場、済寧館での稽古が行われていました。それにしてハンパない気迫です。(一応、剣道経験者なもんですからね。)
外人さんが写真を撮っているのは、同心番所。警備の詰所で、三の丸から本丸に入る途中、大名のお供の監視にあたっていました。鬼瓦に葵の紋が刻まれているので、見つけてみよう。
巨石を高く組み上げた中之御門石垣。登城前、御三家を除く大名は駕篭から降りて、ここから徒歩で本丸へ登って行かねばならなかったそうです。
石垣の修復作業の解説図。築石は35t前後のものが使用されているとのことです。
そして本丸への道を厳重に守る百人番所。
大番所。本丸までの最後の番所で、先述の番所より、位の高い与力や同心が、目を光らせていたようです。
植物もいっぱい。これはさざんかかな?
江戸城本丸図。さて、いよいよ本丸へ。
おっ、これか?
富士見櫓でした。天守が焼失したあと、代用天守となったそうです。
敵を攻撃する重要な防御施設です。
ここから品川沖や富士山、両国の花火も見えたそうです。
赤穂浪士討ち入りのきっかけとなった、刃傷事件があった現場です。広大なお屋敷があったようですが、今は跡形もありません。
富士見多聞です。
中には屋敷跡図面がありました。今ではだだっ広い公園となっていますが、相当な規模の建造物があったようです。
窓格子は、物見と銃口を向けるのに適しています。
多聞は、櫓とともに築かれた設備です。緊急時以外は武器弾薬の貯蔵庫、女中の住居として利用され、襖があった形跡もあることから、様々な用途があったと考えられます。
江戸の太平の世にあって、実際には戦闘はなかったと思いますが、相当な用心深さがうかがえます。
抜け穴、金蔵とか諸説ありますが、大奥の非常用保管室であったと考えられています。
平成天皇のお考えで、吹上御所から移設整備されました。日本・中国のもので、笹を含め13種類が植林されています。
おっ、石垣が台座のように組まれている。いよいよ天守台の登場じゃ。
ここまで大儀であった。では登るとしんぜよう。
まずは中段の石垣からの眺望。
お、なんだあの洒落た建物は、後で行ってみよう。
本丸より下方にある二の丸。城内一周コース上外せない。
巨石の方位盤。ベンチになりそうなほどでかい。
本丸は、表、中奥、大奥と御殿が建ち並ぶエリアであり、そのなかでも大広間は500畳もあったといいます。奥方やお女中方が暮らしていた大奥は、銅堀で遮られ、表および中奥からは1本(後に2本)の廊下しかなかったそうです。
太田道灌の設計した江戸城は、徳川家康が征夷大将軍になってから、天下普請により、何年にも渡って各大名に修復・建設させ、権力を誇示するべく巨大化し完成しました。しかし、こんな広大な敷地が江戸城の一部とは。。
60m近く高さがあったとされる天守閣。今は大火で焼けた跡の台座が残るのみです。
大火で焼失した天守は、当時の幕閣、保科正之らにより再建は中止になりました。それは、もう天守閣にお金をつぎ込む時代ではなく、城下の復興に充てよ、という理由からなのでした。
台座に立つこの松は、「そんな歴史があったから、こんなにお江戸は発展したんだよ。」と言うかのように見下ろしています。 桃華楽堂。
香淳皇后のご還暦を記念して建てられた音楽ホールです。外壁には華やかなタイルや、信楽焼、有田焼の陶片が用いられています。入口の屋根には、鬼瓦ではなく、金色の雛人形が飾られています。
北桔橋門。
「きたはねばしもん」といいます。橋の片側を跳ね上げて、敵の侵入を防ぐ北側の門です。通常は跳ね上げた状態で、いざという時脱出するためにおろしたそうです。
太田道灌が多数の梅を植えたとされます。今は70本の紅白の梅が、冬場に楽しめます。
平川門。
当初は徳川御三家の登城口だったそうです。お局御門や不浄門との異名もあるそうですが、門を出ると太鼓橋の平川橋がかかっており、江戸時代にタイムスリップしたような、景観が楽しめるとのこと。見ないで通過。。
緑の庭園が広がります。各都道府県の木260本が植えられています。
東京都はいちょうの木。
あれれ、神奈川県もだわ。
北海道はえぞまつです。
諏訪の茶屋。ご休所として吹上御所で使われていたものを、こちらに移築しました。
小堀遠州が造ったこの庭園は、家光公が修復させたとあり、世継ぎの家綱公のために建てた御殿もありましたが、大火で焼失しています。池の位置は造ったときのままだそうです。
家光公と秀忠公が茶会を開いたという記録も残っています。池の中に能舞台も造られていました。
明暦の大火後は、将軍の隠居場所、生母の居場所となりましたが、幾度も焼失と再建を繰り返しました。しかし、これも復活せずです。
菖蒲田もあり、春から夏にかけては、花いっぱいの庭園ですね。それと松の木が素晴らしいです。
桜も280本植えられ、春はお花見の名所です。スポーツおよび飲酒は禁止なので、そんなに混雑しないそうですよ。
お池には錦鯉。日本のニシキゴイと、インドネシアのヒレナガゴイを交配させた、ヒレナガニシキゴイもいるそうです。
二の丸池には可憐なお花も見られ、準絶滅危惧種のアサザも生育しています。
明治には一時荒廃していたこの庭園も、家重公時代の絵図面をもとに造成され、復活しました。
青竹の竹林。これは北海道にはなかなかない風景です。涼やかな緑が目に心地よい。
園内でちょっと気になった、直角に曲がっている木の枝。なんでこんな形になったんだろうか、、しかも先になるほど太くなってる。。
そろそろ出発点の、三の丸に近づいてきました。
大手門から東御苑を出ました。けっこう疲れたわ。ほんとは、和気清麻呂公像、震災いちょうなども見たかった。外苑に至っては、二重橋や桜田門も有名だしね。
江戸城は、室町時代後期、扇谷上杉氏に仕える太田道灌が築城し、守護として治めました。道灌濠は、当時のまま皇居内に残されているそうです。(築城前は江戸氏の居館があったのが、城としての始まりでした。)
外堀を歩くと、手前の巽櫓、奥には富士見櫓が見えます。その間には桔梗門がチラッと見えています。外堀はジョガーがものすごく多くて、ロードレーサーも、車道を猛烈なスピードで駆け抜けます。皇居周辺は、もはやジョガー&サイクラーグッズの品評会会場ですね。
楠公駐車場前。観光バスの駐車場なんですが、相当広いです。
なんせ皇居は広いので、今日はちょっと無理だな。東御苑だけでも面積は21万㎡、東京ドームの4.5倍はあるのだ。くたびれるのも無理はない。
ビル群を背景とした、石垣と和田倉橋のアーチを見ながら、次のスポットへ。暑いしけっこう汗かいたから、しゃっこいビールでも飲みたいなあー。
(記事:2018年11月 Update:2020年7
月)