東京国立博物館の本館の7室で、「伊藤マンショの肖像」「親指のマリア」「三聖人像(原図と模写)」が展示されていました。
2016.5.17~7.10
建物正面にも大きな幕が張られ、このための立派なパンフレットも置いてありました。
パンフなどでおさらいしたところ、イエズス会により、伊藤マンショ(1569-1612)が天正遣欧使節団の一人として派遣されたのは1582年。長崎を出港し、スペインでフェリペ二世、ルネッサンス期のローマで法王グレゴリウス13世に謁見します。
個人的な趣味で、経路も気になりました。風を待ちつつ、マカオ、マラッカ、ゴア、モザンビーク・大西洋の島を経て、リスボンに到着。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見あってこその道順かな?。
それでも行きに2年半!帰り道に3年!
ポルトガルでは、コインブラとエヴォラ、スペインではトレド、マドリード等を経てイタリアに着。フィレンッツェ、ボローニャ、ベネチア、ミラノなど16都市を回り、またリスボンから帰国の途に。13,4歳だった少年たちは二十歳を超える青年になって帰ってきます。
、
行きに寄港したアフリカの西側の島が気になり、調べて見ると、当時ポルトガル領のセントヘレナ島。無人島でしたが、使節団が到着した80年ほど前にポルトガル人が発見。定住というよりは、船の補給基地に利用していたようです。今でも人口4000人。当時も寂しい島だったのでは。この50年後にはオランダ領に、その後イギリス領に。ちなみにナポレオンが流され、亡くなった島。いろいろなものたちがこの絶海の孤島を通り過ぎ・・。
セントヘレナ島の公式サイトを見るとなんとなく、当時の船で大海を渡っていた様子をなんとなく想像。(公式サイトの写真から)
まあ素敵♪
興味ついでにマラッカも調べてみると、ポルトガルがマラッカを征服したのも1511年、使節団が通る70年ほど前でした。
マラッカには今でもポルトガル人の子孫が住む地域があり(外観は普通の住宅街です)、学生のころ行ってみたことがあります。お話したその街の人が、「何百年も前に日本人も来たんだよ」と言っていたけれど、たぶん使節団のことなのでしょう。
使節団が通った航路が、当時はまさに大航海時代のダイナミズムの真っただ中にあったことを実感。
マンショの肖像は、1585年にベネチアを訪問した際、元老院が歓待のためにティントレットに発注したそうです。ティントレットの没後、工房に残っていた絵を息子のドミニコ・ティントレットが完成させたようです。
マンショは、幼いころに両親と死別し孤独な少年時代を送りますが、聡明な少年だったそうです。
当時の日本の少年が、こんなに生き生きと西洋画の中によみがえることに感動を覚えます。
表情からは、聖職者になるものとしての純粋さと誠実な人柄とともに、長い旅や責任の大きさに少し緊張しているように感じました。ティントレット父は、東の果てから来た年端も行かない少年(東洋人は幼く見えそうだから)に、いじらしさも感じ、優しいまなざしでこの肖像を描いたように想像しました。
使節団は向こうでは大きな話題となったとか。フェリペ二世もこの少年たちに感激し、法王グレゴリウス13世も感激のあまり少年たちを抱きしめたとか。グレゴリウス13世は少年たちの滞在中の亡くなったそうですが、亡くなる時も「あの少年たちはどうしているか」と気にかけたそうです。ティントレットのこの肖像にも、そんな思いが共通していたのでは。
帰国後マンショは、秀吉に謁見し、士官も進められますが、それを断り布教の道を進みます。天草の修道院、さらにマカオのコレジオで学び、長崎のコレジオで司祭として教えていましたが、1612年に病死。他の三人は、千々石ミゲルが棄教、中浦ジュリアンは1633年に処刑、原マルティノは追放先のマカオで1629年に死亡。ヨーロッパで歓待され、頑張ってきたのに・・。
(気になったのが、この4人の少年のほかに、印刷技術を学ばせるために二人の日本人の少年も同行したようなのですが、その子たちはどうなったのかな??)
でもこの時代のヨーロッパと日本のつながりは、一部の人に限られていたとはいえ、未知な驚きにあふれ、人間的。興味ひかれるものがあります。
マンショの肖像の隣には、三聖人像(16-17世紀)と、その模写(16-17世紀)が。
原図
模写
原図の方は、外国人宣教師が持ち込んだもの。模写は日本人によるものだそうです。思わず違うとこをあらさがししてしまいましたが、細かいところまで完璧に写そうという真摯さが感じられる気がしました。
当時の九州のセミナリオでは、来日した若いイタリア人修道士が日本の少年に絵画や銅版画を教えていたのだそうです。リアルタイムにルネサンス絵画を伝授されていたことに感動を覚えますが、ほかの絵ももっと残っていればと、もどかしいです。この二つも「長崎奉行所旧蔵」とのことなので、禁制下で没収したんでしょうか。
その隣には、同じく長崎奉行所旧蔵の「親指のマリア」17世紀後半。
イタリア人宣教師のシドッチ(1667-1714)は1708年に屋久島に上陸したところを捕まり、江戸に送られます。尋問を行った新井白石は彼を何度も訪ね、さまざまな話をしあったことが、細かく西洋紀聞に記されているようです。最初は軟禁状態ではありながらも、厚遇されていたようです。が、お世話係の老夫婦を改宗させたことで、三人とも地下牢に幽閉され、シドッチは10か月後に亡くなります。2014年にマンション工事の折に、手厚く葬られた三人の遺骨が出土したそうです。
この親指のマリアは、ボルゲーゼ美術館にあるドルチの「親指の聖母」の模写のようです。ドルチ工房は、弟子たちが多くの模写を作成していたようですので、そういう一枚かもしれないそうです。
清らかで、悲しみを知っている表情のように思いました。親指だけ出ていることで、私は切なさやひたむきな思いも感じたのかなと思います。宗教画の見方はよくわかりませんが、先日の山下りんのイコンを見ていて、たくさんの宗教画を見られる環境にない者たちにとって、一枚の宗教画が信者の心にどれほど寄り添うものであるかを少しは感じたところ。キリストや他のスタイルのマリアの絵もある中で、この絵をシドッチが持ってきたのもわかるような。この絵は、もし布教していたならば、隠れキリシタンの人々や生活の苦しい農民たちの心にも、寄り添い、響いたかもしれません。シドッチも、不安な日本への航海に際し、この絵を心のよりどころにしていたんででしょう。
いろいろ、脱線しつつ思った第七室でした。
その長崎奉行所、他にもこのような時代の犠牲になった品々を蔵にしまい込んでいたのでは?。長崎歴史文化博物館に、長崎奉行所のコーナーがあり、目録は出ていませんでしたが、踏み絵やシドッチの資料の展示があるようです。現地ならではですので、いつか行ってみたいです。