「いま、被災地からー岩手・宮城・福島の美術と震災復興ー」東京藝術大学大学美術館
2016.5.17~6.26
第一部は、「東北の美術―岩手・宮城・福島」、それぞれの県立美術館の所蔵品が主に展示されています。
第二部は、「大震災による被災と、文化財レスキュー、そして復興」。直後の被害状況や、混乱の中取り残された美術品のレスキュー活動や修復作業が、写真で展示されています。さらに修復された美術品、または修復しきれなかった美術品も展示されていました。
地下の第一部から
入るとまず、見たかった酒井三良が展示されていました。
「雪に埋もれつつ正月は行く」1919 福島美術館蔵
22歳の作品。お母さんの顔が、観音様のように見えました。囲炉裏と灯りの火がほっとあたたかく、子供たちのほっぺや耳たぶもほんのり紅く。猫まで暖まって。観ている私もちょっと暖まり。室内なのに、外の青い夜空を感じるような広がり。特別になにかを話すこともなく、静かに時が過ぎていく。
三良は、数年前に「薫風」を見てひかれました。
こちらは制作年は昭和としかわかりませんが、おそらくこちらの方があとの作品でしょう。
三良についてもっと知りたいけれど、あまり出ているものがなく「大観・春草・御舟と日本美術院の画家たち」(岡田美術館)から要約すると、
酒井三良(1897ー1969)は福島県大沼生まれ。はじめ坂内晴嵐に学び、その後は独学。大正9年(1920)、心の師と仰ぐ小川芋銭と出会い、芋銭の勧めにより、再興院展に出品、13年には日本美術院同人に推薦された。昭和3年(1928)から会津若松に暮らし、7年に上京、21年には五浦にあった横山大観の別荘に移住し、作画を続ける。29年にふたたび上京してからは、水郷地区や福島方面、中国四国、九州などを旅し、大量のスケッチをのこした。
先日の山種美術館の土牛展の画集には、土牛の言葉のなかに三良が登場。
「酒井さんとの交際は40年近くになりますが、この間にずいぶん二人で旅行しました。これは酒井さんの郷里の関係で、主に東北地方が多かったのですが、この地方の事情に大変詳しかったので、一緒に歩いてずいぶん勉強にもなりました。いつも気楽な弥次喜多旅行でしたが、酒井さんの明るく軽妙なユーモアが、旅の楽しさを深めたように思います。 (「三彩」249号 1969年10月)
芋銭、土牛と親交があったとのこと。この二人の心優しい絵からも、三良の人柄もそのような穏やかな人がらを想像します。若いころは妻と子と苦しい生活だったらしい。回顧展もなかなかないですが、茨城県立美術館、福島県立美術館で、たまに常設のなかに展示があるようです。
この展覧会は、画集はないのですが、30ページを超える立派なパンフレットをいただけました。
ここに持ってきて展示されている作品、なんというか、浮ついた作品は一つもありませんでした。
角谷磐谷「水郷植田海岸」(福島八景十勝より)福島美術館蔵
おだやかな、引き潮の風景。海藻を集める人、かご、舟。むこうの家に煙突の煙。こういう遠景で生活感のある絵は個人的に好きです。1947に福島の観光名所の投票で選ばれた景勝地を描いたものだそうです。震災で風景が変わってしまった場所もあり、図らずも記録画のようになってしまいました。
関根正二が二点ありました。
姉弟 1918年 福島美術館蔵
神の祈り 1918年ごろ 福島美術館蔵
20歳で亡くなった関根正二の19歳ごろの絵。どちらの絵からも、閉じた口元から、足元の花から、瞳から、声に出さなくても、内面の思いを二人は伝え合っているような。
松本俊介が三点ありました。
「盛岡風景」1941
緑と青の澄んだ色なのですが、故郷というよりは、どこか不安定。盛岡の皆さんはどのように感じるのか、お聞きしてみたい気がしました。
「画家の像」1941 宮城県立美術館
この絵は、2012年の世田谷での回顧展の時にも観ました。松本俊介は反戦を訴えた画家とは言えないようですが、聴覚に不自由があり徴兵を逃れたこととともに、複雑な思いは抱えていたらしい。松本俊介は、文章だとはっきりと明瞭な言葉を書くのに、絵はそうではない。もっとストレートに言ってといいたくなる。でも深い奥の方から、地面の下から、音のないうねりのようにものが響いてくる。
一見感情を読み取れない画家の表情。硬く握ってはいないのに、楽な状態ではない手、肩。どうしてここに妻子を描いたのか、口元は見えず、片方の眼しか描かれていないのに、何かを訴えている妻と子の眼。
その俊介の向かいで、萬鉄五郎も強烈なものを発していました。
(ここまで見てきて思ったのは、どの絵も発するものが強いのです。)
「赤い目の自画像」1913
不安定さ、危うさを立ち上らせている自画像。あのおおらかで天真爛漫な「裸婦美人」を描いた直後とは思えない絵。どのような心情をとらえたものかわからないですが、それでもそんな自分を、少なくとも率直に見ることができている。
「地震の印象」1924
あの日が思い起こされます。空気が、地面が、こんな風でした。茅ケ崎で住んでいたときにおこった関東大震災のことを描いたのだそうです。
真山孝治「彼岸に近く」1914 宮城県立美術館
渡辺亮輔「樹蔭」1907 宮城県立美術館蔵
金子吉彌「失業者」1930 宮城県美術館蔵
五反田で医院を開業していたときに描いたそうです。
その妻が描いた絵も展示されていました・
「野良」大沼かねよ1933 栗原市教育委員会蔵・宮城美術館寄託
この二枚に、夫婦で同じ目線を感じました。でも夫は34歳で亡くなり、妻もその三年後に夫と同じ34歳で亡くなります。
中頃からは、東北の風土、根を張った強さを感じた絵も続きました。
橋本八百二「津軽石川一月八日の川開」1943
吉井忠「百姓祭文」1969 福島県立美術館蔵
どの顔からも、祭りの高揚感が。この日ばかりは、おとなも子供も、はしゃぎ楽しむ。カラスもフクロウも。押しとどめることなくストレートに感情を出している顔は、この展覧会場ではこの作品くらいだったでしょうか。
白石隆一「三陸の魚」年不詳 岩手県立美術館
冷たくさらされた風を感じるようでした。
佐々木一郎「帰り路 松尾鉱山(長屋)の夕べ」1975?82
仕事の帰り、ほっとするように尊いように、路に光が当たり。
本田健「山あるきー九月」2003 岩手県立美術館蔵
壁一面の大きな作品。写真のようですが、なんとチャコールペンシルだけで描いているのです!
斉藤清「会津の冬26」1977 福島県立美術館
木版画。モノクロの雪景色に、人影がひとり、洗濯物だけがほのかに色を添えて。大好きな作品。
このあたりになるともう、何か「お前も、ちゃんと、描けよ」と声が聞こえたような気が。
ここで見た絵からは、大きくみせるでもない、ぶれるばかりの人間でない。そこにある暮らし、自然、生活。他人がいえることではないけど、足が地についている感じ。
抽象画のほうは、ストレートに訴えてくるものがありました。
田口安男「手のうら焔」1980
手が念の渦に。炎と一体になり。
昆野勝「眠る女」1965 宮城県立美術館蔵
画像の色がくすんでしまい申し訳ないですが、金がとても美しい作品でした。
どの絵もすばらしく、きりがないのでここで。
岩手、宮城、福島と、ひとくくりにはできず、地元の人にとったら、隣の県とは人も風土にも大きく違う、一緒にしないでと言うのかも。大きく見ての感想で申し訳ないのですが、この展覧会全体で思ったのは、多くを口に出さない人々の、心のうちの厚みというのか、その声。結んだ口から、発するものが強い。
展示冒頭の、美術館会議副議長、東日本大震災復興対策委員会委員長 山梨俊夫さんという方の言葉が心にぶつかってきました。
「美術の中心は首都圏にしかないのではありません。」と。
「さまざまに地域に様々な核があり、それらが相互に関連しながらそれぞれの美術を作っています。地域のイメージは、見る側とその地とのかかわりや連想に左右されますが、大事なのは、ここに集められた一群の作品に、地域ごとの厚みを感じるにあると思われます。」
多くの美術が、日本中のいろいろな自然や生活や、またはその地域の開放感や太陽の色や、逆に閉塞感や無常感の中で生まれ、育くまれ。もちろん個性の表出である絵を、地域的なまとまりの中で扱いきれるものではないかもしれません。それでもこの展覧会の帰り道、全体として発する声を受けていたような気がしました。展示された絵たちの上空に立ち上る総意というか。そしてこの展覧会を企画した、学芸員さんたちの思いもあるのでしょう。
地方の美術館に行くと、常設の中に一枚か二枚だけ展示され、初めて知る地元出身の画家の絵にとてもひかれることが多々あります。その素晴らしい画家の多くは、画集や情報も少ない。一冊だけ出したらしい画集を、やっと古書で手に入れると、白黒だったり・・。他の絵がなかなか見られず、いつも残念に思います。
パンフレットの中でも、県ごとの美術の潮流や、美術会などの活動が紹介されていましたが、1ページでは書ききれるものではないほど。どんなに厚い多くの画家たちの足跡があったのか。眼にする機会もないまま消えたりしまい込まれたままの絵、機会があっても通り過ぎた絵がどんなに多いんだろう。
地域の美術館の果たす役割の重要さ、東京で目にすることがなくとも地方でしっかり描き出される芸術の層の厚さを、改めて感じました。