はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●戦国時代展 江戸東京博物館

2017-01-13 | Art

戦国時代展 江戸東京博物館 2016.11.23~2017.1.29

岩佐又兵衛展に行こうと家を出たのだけど、いやまて先に又兵衛の生まれた戦国の世を少し感じてみようかと、行き先変更。

数年ぶりの江戸東京博物館。

こんなの前からいたかな。亀にのりのりの徳川家康。

 

混まないうちに、お目当て1の狩野元信(1476~1459)「四季花鳥図屏風」1546(天文18年)(白鶴美術館)に直行。

金もたっぷり、極彩色の赤や緑や青。たくさんの種類の花。鳥は57羽もいるらしい。これは発注主も文句なしでしょう。

二羽でぐるり楕円を描くような孔雀。雌の地面にがしっと立った足つきが印象的だった。戦国の女性もこんなふうに芯が強かったのかも。視線の先の雄孔雀は、極彩色。尾の上向きラインがリズミカル。他にもオナガドリや飛びまわる小鳥たちといい、そこここにリズムと動きが発生していて、元気な屏風。

牡丹の鮮烈な赤に驚いているうちに、季節は夏へ。渓流の青が美しかった。青竹の根元に、タケノコがかわいい感じで育っていた。そこに顔を突き合わせた鶉が二羽。この一角はほのぼのしていて、お気に入り。

水流に入れた線と言い、鳥の羽の筋や羽毛の細い線まで緻密に描き込む、元信の仕事ぶり。


左隻は、色づき始めた紅葉にに始まり、これまた鮮烈な色をまとった雉。

そして冬へ。白梅はまだ蕾のほうが多く、ちょうど今の季節くらい。滝の水は白く凍るよう。ぬれるように真っ赤な冬の椿と、葉の肉厚感に見惚れてしまった。

細部は緻密に、全体は豪胆で、動きに満ちた屏風だった。

以前、出光で見た75歳の「西湖図」も、広大な構図と、細部がとても細やかな水墨に見惚れたけれど、今回は彩色の鮮やかさにも感嘆。

父正信から教え込まれた水墨に、土佐光信の娘と結婚してやまと絵風も融合させる。大胆で豪壮なやまと絵となり、孫の永徳の豪華絢爛な桃山絵画へ結実する。出光の水墨と、この極彩色の屏風と、元信の中の二つの合流過程を見られたのかも。

 

最初に戻って順に見ました。

序章:時代の転換

享徳の乱(1454)、応仁の乱(1467~1477)あたりから、信長が将軍足利義昭を追放し安土桃山時代が幕開けるまで、100年続く戦国の世。

太田道灌が戦場から送った手紙(ここのみ写真可)には「どのようにしてもこの状況を鎮めます」。先ほどの花鳥図で雅びな気持ちになっていたたけど、時代は戦国。武将たちの生死をかけたリアル。

 

「信行寺大悲尊像縁起絵巻」1838は、応仁の乱で炎上する寺から僧が本尊を救い出し、階段を駆け下りるシーン。布につつまれて僧に抱えられた仏像が、矢を噴射して、兵士から己と僧を守っていた。猛火の赤さ、追いかけるように飛んでくる火のかたまり。す、すごい縁起。

戦国の洗礼を受けたところで、一章へ。

 

第一章:合戦ー静寂と喧騒ー

戦さの実感を伝える品々が展示されていました。

国宝「上杉家文書 関東幕注文」は、謙信が出兵した時に、参集した領主の名簿。

国宝の上杉家文書が集まっているのは、見ものだった。鎌倉から江戸時代のものまで、表装しなおしたりせず当時の状態のまま。平成元年に米沢市に寄託するまで、上杉家は散逸させず守ってきたのは、素晴らしいことだと思う。

 

長野の真田宝物館から、真田家ゆかりの品々が来ていたのは、真田丸ロスのところにうれしかった。

「無綾地の旗」は、真田の象徴の六文銭が染め抜かれている。たてよこ2mくらいの大きなもの。昌幸パパの父、幸綱のものとか。

「地黄八幡旗指物」の旗は、真田が北条からgetした戦利品。シミや痛みもほぼなく、大事に保管しておいたのでしょう。

「法螺貝」は、戦地で使われたであろう目の前の実物に、動揺に近い感動。あの音が耳に響く感じ。昌幸が信玄から拝領し、信之に伝来したもの。江戸の太平の時代にはもう使われることなく、大泉洋は子々孫々に伝えたのね。六角形を形作る緒鎖がきれいだった。

 

「岩櫃古城図」1843(天保14年)は、飛び出す絵本のような仕掛け。険しい山が切り立っていた。昌幸パパの拠点。複雑な奇岩で、信仰の山なのだそう。8代目が古文書をもとに考証して作成したもの。子孫の方にとって、ご先祖様の中でも、昌幸・幸村は偉大なのだろうな。

 

「川中島合戦図屏風」は、後期展示は福井勝山城博物館のもの。前期の米沢本の川中島合戦絵巻物が見れなかったのは残念だけれど、謙信の顔や画風はよく似ていた。

血で血を洗う合戦の場面だけれど、この名戦?を俯瞰すると、川の青と、山並みの緑と、金で美しくさえある。

細部を観ると、川に入って水しぶきをあげながら切りあっていたり、あるものは深みに足をとられそうに両手を挙げて川を進んでいたり。

右隻には、白ハチマキの謙信が川に入り、馬上から刀を振り下ろしていた。(坊主頭に白ハチマキを巻いた姿の謙信は、上杉系の発注によるもの。頭巾をかぶった謙信像で描かれているものは、武田系のものなのだとか。)

陣中では、鉄砲や刀を構えて配置についており、緊迫感が。謙信は陣中にどかっと座っていた。

上がった旗印、どの武将のものか詳しい方はわかるのでしょう。歴女?というらしい女の子グループがけっこういて、あ、〇〇がいる~とか詳しくて尊敬してしまう。

 

第二章:郡雄ー駆け抜けた人々ー

武将たちの絵姿の掛け軸が展示されていましたが、3点あった下絵のほうが印象に残った。絵師が実際に会ったときの実感とともに、人物の特徴をつかんでいる。

「足利義晴像紙形」は、土佐光茂画。小さな紙片ですが、わりに写実的。信長に似たおでこと細面。隣に展示されてある息子義輝とは、あまり似ていない。光茂は土佐光信の子なので、狩野元信と義兄弟ということなるのね。

「足利義輝像紙形」永禄10年1567年は、土佐光吉画。光茂の子か弟子らしい。将軍義輝(1536~65)が殺されたのが、29歳という若さだったとは。がっしりした顔立ちに、多くのあばた。額や眉間のしわが刻まれて、20代には見えない。将軍権力の復活を目指した力量と苦悩が同居しているような肖像。

「武田信玄象」は、信玄の実弟が描いたものの写し。眼光も強い信玄像図も展示されていたけれど、弟が描いたこちらのほうが面白い。戦地の臨場感があった。投げ出し気味に開いた足。肩はまだ上がったまま。足元に法螺貝がそのまま置かれていた。たれ眉で、丸顔のおじさん。これが実物に近い顔なのでしょう。

 

「緋羅紗陣羽織」は上杉神社から。深紅のラシャ地に、紺色の縁どり。見えないけれど内側は黄色の緞子だそう。財力とセンスの良さを誇示し、広告効果もばっちり。

戦地で美しくあることは大事なことなのでしょうね。

「黒塗紺糸織具足」1536も、鳥の羽が目立つ。(知らないけど)佐竹義重のもの。

兜の前立てのモチーフが毛虫とは(ひいい)。前にしか進めない=後退しない、葉を食べる=刀を食べる、で縁がいいのだとか。

 

刀のコーナーは、行列だったのでスルー。

こちらの章にも上杉家文書が数点。

謙信の祖父がもめ事を調停する書状、「内々に処理しようと思っていたけれど、あちらが・・」と、老練さがうかがえる。

信長から、謙信の家臣への書状、「謙信へ(呼び捨てかい)年頭のあいさつを申し上げようと佐々長明を派遣したからよろしく」と短く用件のみ。ざっと手早く詰まった文字だった。信長の肉筆。戦国とはいえ、どれ程の武人や僧、岩佐又兵衛の母や兄弟を含む女子供を死にいたらしめた手かと思うと、ちょっと怖い。

 

第三章:権威ー至宝への憧れー

足利将軍家のコレクションは、あこがれの存在であったとか。「戦国の世でも、京で生み出された秩序や文化は列島を一つに結んでいた」と。美術品も、戦国時代に大きな役割を果たした。そういえば畠山美術館の国宝の牧谿も、足利義満、松永弾正、信長、家康と渡っていた。

元信の四季花鳥図はこの章に展示されていた。狩野派が権力者の下で絵師集団としての地位を築いたのも、展示と政治的な贈答にふさわしい大きさと豪華さが権力者に愛されたのでしょうか。

豪華なだけでなく、シブいのや内省的なのも人気な戦国。

李迪 国宝「雪中帰牧図」南宋 12世紀 はお目当て2。李迪は先日の東博の国宝「紅白芙蓉図」に重ね、貴重な出会い。足利義尚が後藤祐乗に下賜した。

東山供物の中でも当時から至宝だったのでしょう。表装も、高価な渡来裂を取り合わせた「東山表装」だとか。

そんなことはわれ関せず、牛がなんてかわいい♪。墨の濃淡の牛のしまった肉づきがなんともいい感じ。

左側は、農夫も牛ものんびり感。右側は、牛なりに急いでいる。木は、幹にも枝ぶりにも立体感が少しあって、応挙の雪松図を思い出す。


土佐光信の北野天神縁起絵巻が前期展示だったのは悔しいけれど、「松崎天神縁起絵巻 室町本」があった。

大内義興が作らせた鎌倉本を、16世紀に写した室町本。道真の「天神縁起絵巻」に、松崎天神(防府天満宮)の創建由来が加えられたものとか。斜め上からのシャープな建物に、細やかな梅や人物のきれいな絵だった。

屋根がはがれ、壁も竹芯がむき出しになった侘し気な屋敷。梅の咲く頃に、公家と話す稚児。(防府天満宮のこちらに絵巻とストーリー。)貧しい学者の菅原是善のところに、どこからか稚児が現れ、両親がいないのでお父さんになって下され、と。大切にお育てしたその子が、道真。道真の出生秘話を初めて知った。

 

第4章:列島ー往来する人とものー

これは当時の交易や経済に焦点を当てた、個人的に興味深い章。

戦国時代が、今につながる村や町が成立した初めの時代なのだそう。村人、町民、商人が活躍し、熊野や伊勢詣で、西国巡礼と、人の往来も活発になった、と。東南アジア、明、朝鮮、北方のアイヌ民族との交易について紹介されており、面白い。学芸員さんの思い入れが伝わる気がした。

戦国武将が戦いに明け暮れ、幕府の権力が弱まったそのわきで、商人や職人は着々と力をつけていたのでしょう。商人や町人の財力が蓄えられてきたのを感じる展示物の数々。

「寺町大雲院跡出土 一括出土銭」は、染色屋の住む地域で出土した、備前の大きな壺にみっちり詰まったお金。現在の数百万円だとか。戦乱のなかで床下に埋めておいたのかな。

「清水寺勧進帳」「清水寺再興奉加帳」は、応仁の乱で焼失した清水寺再建のための寄付を呼び掛ける文章と、寄付をした人リスト。


力を入れて展示してあるのかなと思ったのは、アイヌに関する展示物。

「新羅記録」は、初代松前藩主の6男景広がまとめたもの。

コシャマインとの戦い(1457年)を記録した部分が展示されていた。中世以降、和人が北海道に移住しはじめ、いくつか和人の拠点となる館が築かれ、アイヌ民族との衝突が増えていく時局。読み取れた範囲では、「花澤の館主の蠣崎(蠣崎波響の先祖かな)・・堅固に城を守り・・」「酋長 胡奢魔犬(コシャマイン。敵だとこういう漢字を当てるのか‥)父子二人を斬り・・」。

 

「上ノ国勝山館跡出土遺跡」は、15~16世紀の北海道の遺構から出土した品々。上ノ国勝山館は、コシャマインとの戦い(1457年)に勝った武田信広の本拠地。和人とアイヌのボーダー。白磁や備前の食器類と交じって、アイヌの骨角器のへらなどありました。

 

「庭訓往来」1583(天正11年)には、14世紀の各地の名産品がつらつらと書かれていた。読み取れた範囲では、「宇賀(函館のあたり)昆布、鮭」「松前鰯」「出雲鍬」「甲斐駒」など、なるほど聞いたことあるようなものばかり。

北方ばかりでなく、この時代の南方からの交易品もある。

琉球、奄美経由でもたらされた華南三彩陶器は鴨型の水差しがかわいい。

李氏朝鮮が作成した「海東諸国記」は、地名まで詳細に記載された日本地図。沖縄なら国頭城、琉球国都。津軽や陸奥の地図も。

 

戦国武将が争いつつも、人の移動を生み、商人が力をつけ、物が廻り、美術品も新たに生まれ。そういえば、アユタヤやルソンの日本人町もこの時代に活況を呈していた。雪村や雪舟のアートもこの時代。安心安全もないけれど、ある意味自由な時代ではある。生命の保証もないのに草刈正雄パパは、「大ばくちの始まりじゃあ」と叫んでいた。

 

第五章は「新たなる秩序」。

徳川家光が夢で見た家康を狩野探幽に描かせた、「東照大権現像」がどんとにらみを利かせていた。

統制と引き換えに、平和の世にうつっていくんだなというところで、戦国時代展の出口だった。

戦国時代展の、第二弾があるとしたら、戦国時代と庶民、芸能などが気になるところです。

 

1階カフェでお茶。どら焼きがほかほかでした^^。