山種美術館「日本画の教科書ー京都編ー」2016.12.10~ 2017.2.5
(伊藤小坡、上村松篁、山口華陽は 1に。)
展覧会全体を通して、明治以降の京都の美術業界(?)のひとつの流れが俯瞰できました。
1880年に京都府画学校が設立(→京都市立絵画専門学校→京都市立芸大)。日本初の公立画学校となる。
東京美術学校(現東京芸大)が設立される1887年よりも前のことだったとは。
市民から声が上がって設立されたというのが興味深い。東京遷都により、発注主の宮家や大店も東京へ引っ越してしまう。危機的状況に対して、旧来の徒弟制度から脱し、早くも近代教育へ移行させようとする民間のフレキシブルさ。東(やまと絵、円山四条派)、西(洋画)、南(文人画南画)、北(狩野派)と、伝統の系統の中に東京美術学校よりも早く洋画が設けられているあたり、京都の伝統と革新の気質なのでしょうか。
そして竹内栖鳳(1864~1942)の影響の大きさ。
展示にも、松園、小野竹喬、土田麦僊、池田遥邨、西村五雲、橋本関雪、西山 翠嶂と、「栖鳳とその弟子たち」と名付けられそうなくらい弟子が勢ぞろい。
栖鳳は指導者としてもすぐれていたそう。栖鳳の主宰する竹杖会では、門人の自由を認め、その力が発揮できるようにしむけるという方針だったとか。確かに、上記の弟子の画風も様々。
弟子には自由だけれど、本人は絵に対して、娘婿でもある西山推奨いわく「峻険たる態度」。
展示室を入ってすぐの一枚は、あの有名な猫からでした。
竹内栖鳳(1864~1942)「斑猫」1924(大正13年)
沼津の八百屋さんの店先の猫に、徽宗皇帝の猫を見出すところが栖鳳もすごい。女将に交渉して連れ帰る。写真も展示してあり、そのミステリアスなこと。
徽宗の描いた猫も尋常じゃないけれど、この猫もアンタッチャブルな宝石のよう。こちらを見ているのだ。眼があう。吸い込まれそうな碧さ。
栖鳳にしたら細密な描きよう。ちょっと不自然な体勢なのに、背中のもふもふから、触った骨の感触まで手に感じられそうな気がしてくる。背中の模様も奥へ吸い込まれそうな深淵さ。
竹内栖鳳「城外風薫」1930
栖鳳の旅した中国風景。川端玉章「海の幸図」1892 は、南画に遠近が入ったような妙な感じ(ワーグマンと高橋由一に習った。)と思ったけれど、この絵は遠近ありつつも、変にならない。奥の淡い感じもいいなあ。
竹内栖鳳「晩鴉」1933 69才
今回の栖鳳で一番好きな絵。(山種美術館のtwitterに画像)
にじんで広がる墨の美しさ。濃い墨の樹の背景には、細い線描の木々。カラスを何とか探し出すと、すみのほうにとても小さく。木漏れ日も水面に反射する光も、脳裏に印象が移りこんでくるようなとらえかた。つくづく栖鳳って力量があるんだなあと感嘆する。
栖鳳は西洋画の取り入れるべきところ、惑ってはならないところを冷静に見極めているよう。東京の多くの西洋画家、日本画家たちの試行錯誤と混乱とは一線を画す、ぶれなさ。
「日本は省筆を尚ぶが、十分に写生をしておかずに描くと、どうしても筆致が多くなる。写生を十分にしてあれば、いるものといらないものとの見分けがつくので、安心して不要な無駄を捨てることができる。」
「写生が天然自然から画家自身で絵になるものを探す手段なら、古画は、先達がどんなに自然を見たかの心のあとを偲ぶ材料(略)」
竹内栖鳳「憩える車」1938 74才
古びた水車の木肌。ふわりとした萱の屋根。丸くなるゴイサギの体温。どれも触った感じがやさしい。
栖鳳が見たこの情景から、いらないものを捨て、いるものとして栖鳳が残したものは。そう思って観ると、小さな黄色い花と蔓にも大事な役割がある。ないと全然違う印象になってしまうし、ゴイサギの醸す雰囲気が違ってしまう。
弟子の西村五雲の「松鶴」1933 を栖鳳に続いて見ると、筆致が栖鳳に似ているのに、なんだか外観のなかに、骨や肉が入ってる感じがしない。栖鳳は、あんなに荒く限られた筆致で描いているのに、既蝕感?というか中の骨格や体温まで感じるのだと改めて実感。不思議というか、恐るべしというか。
と素人のたわごとを言いましたが、五雲の「白熊」1907を見ると、五雲の目指した世界があるのだと思う。毛皮の中の中身とかの問題とは別のところに。
アシカもがぶっと噛みついて必死の抵抗をみせていた。
西山 翠嶂(1879~1958)「狗子」1957 は中身が入ってる感じ。どこが違うんだろう?。技術的なことがわからないのだけれど、子犬のこりこりした骨とお肉の触感がたのしい。雑種な感じが良くて、特にくろ犬がかわいい。
松園も確か栖鳳の画塾でのことに触れていた。
上村松園(1875~1949)「牡丹雪」1944(これだけ写真可。)
大きくとられた雪空が、しんしんと深く。それで雪にちょっと困っている女性がよけいに美しい感じ。
と思うと、目線の強さに驚く。
冷静で意思のある眼差し。いつもの清らかなまなざしとはまた違う。真理をついたような、きっぱりとした。これはどうしたことでしょう。
せっかくなので、細部を撮ってみました。どこを見ても丁寧できれいな線、松園の仕事ぶり。
ぼたん雪は、濃くねった胡粉で、こんなふうに。
「砧」1938 蝋燭の流れる炎に流れる思い、かすかにあいた唇からあふれる寸前の思いが。息をつめてみてしまった。
もう一点は、ほたるの絵。
こちらは清らかなまなざし。日常の風景。
一瞬一瞬が、こんなに美しい景気になる可能性を秘めているんだなと思うと、いつもの日常でもなんだか元気がでる。
松園は、「その絵を観ていると、邪念の起こらないまでも、よこしまな心を持っている人でもその絵に感化されて邪念が鎮められる、といった絵こそ私の願うところ」と。
土田麦僊も栖鳳に弟子入りしたあと絵画専門学校へ。
「香魚」この絵楽しいなあ。
池田遥邨(1895~1988)の風景も心に残った。洋画から日本画へ進んだという。「草原」1976は、地平線が見えそうな草原は洋画のような構成かも。でも日本画の絵の具がとてもあっているように、素人ながら思ったり。風のなかを牛が駆ける。降りてきた黒雲の動きが好きなところ。
徳岡神泉(1896~1972)も竹杖会で学んだひとり。
「緋鯉」1966
直近で見たのが近代美術館の「狂女」だったので、うわっと怖いのをおもいだしたけれども。それから50年と思うと感慨深く。鯉にも水にも、その奥にしんと、いろいろな気持ちになる。
弟子ではないけれど、京都絵画専門学校の教授の宇田荻邨(1896~1980)「五月雨」1967も。黒牛の眼がかわいい。稲田でしろかきのおじいさん。雨が降って、新緑が美しい。乾燥気味な毎日のせいか、こういう瑞々しい風景が新鮮に思える。
同じく教授の今尾景年(1845~1924)「松月桜花」も美しい夜の時間。(山種美術館のtwitterに画像が。)筆のかすれと濃淡で描き出された、松の幹のごつごつした触感。跳ねるような松の葉。桜の花びらは限定された色で繊細だった。こんなに美しい月夜だけれど、抒情に流され過ぎない少しストイックな感じに魅かれた。
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今尾景年も含め、この展覧会、昨年の日本橋高島屋での「高島屋と美術」展と重なる顔ぶれ。あの折にひかれた画家に再会できたのもうれしい。
栖鳳とともに海外向けの大きなビロード友禅のタペストリーの下絵を描いた二人にも。
都路華香(1870~1931)の「萬相亭」1921
木々にも岩の合間にも新緑が美しくて、朝鮮半島の服の白色が印象的。村人たちがくつろぎ、談笑し、ものを運んだり。南画風な風景で、ほのあたたかい空気がながれる。いい季節だな~としばし和んだ。たくさんは見たことがないけれど、このひとの絵はどこか温かみがあるのかな。
「円山四条派に、禅の要素と南画の筆致を加えた異色の画家」と。
山元春挙1871~1933「火口の水」
やはりの山男ぶり。登山をし、撮った写真や写生をもとに描いた山岳風景。「四条円山派の技術、洋画の遠近、写真のリアリズム」と。遠近すごいけれど、ベースは山水画のようで、違和感なく心地よい。
岩肌の上手さやそこここに咲く白い花がなど、細部にも見とれた。小さく動物や人を入れるのが春挙の常道らしいけれど、鹿がしっかり描かれていてかわいくて、山紫水明な湖で水を飲んでいる。鹿の位置に腰を落として見上げると、山の雄大さがかぶさるよう。白い月を照らしだす雲間の光のなか、胸がすくような世界に遊べた。
華香の弟子、富田渓仙「嵐山の春」1919 は今回も自由で豪快な屏風。(高島屋展に見たのは猫の顔パンツはいてる風神雷神でしたからね。)
右隻は、豪快に始まっていた。いかだで急流を下る。新緑の芽生え始めるころに、わっと覆いかぶさるような深い山並み。左隻になると、下流に降りてきた流れは穏やかになり、山桜がけぶるように彩る。ざっくり描かれたカラスがかわいい。桜の花びらが舞っていて、心もほっこり。
渓仙は、嵐山の対岸に家と画室を設けて、毎日この景色を見ていた。どれだけあなたがここの景色が好きか、伝わりましたよ。会ってみたかった。
福田平八郎も6点。大正期の「桃と女」「牡丹」から、40代後半以降の昭和モダンな画風のへ変化も興味深いところだったけれど、このへんで。
時代が変わり顧客が変わり、西洋画の技法を取り込みつつも、日本的な美意識というか感性というか、逆に研ぎ澄まされていように思えた京都画壇でした。