市原湖畔美術館 ワンロード展 2016 .10.1~1.9
(HP序文)1,850キロの砂漠の一本道(ワンロード)を、アボリジニ・アーティストたちは旅した。
失われた歴史と誇りを取り戻すために―
オーストラリア西部の砂漠地帯を縦断する一本道(ワンロード)、キャニング牛追い(ストック)ルート。今から100年以上前、ヨーロッパから来た入植者が北部の牧草地から南部の食肉市場へと牛を移動させるために切り拓いたこの道で、先住民アボリジニは初めて「白人」と遭遇し、その生活を激変させることになります。
「ワンロード」展は、かつてそこに住んでいたアボリジニとその子孫であるアーティスト60名が、2007年に1850キロの道を5週間にわたって旅をし、「白人」の側からしか語られて来なかったキャニング牛追いルートの歴史をアボリジニ自らがたどり直す過程で描いていった絵画を中心に、映像、写真、オブジェ、言葉によって構成される、アートと人類学を架橋する稀有でダイナミックなプロジェクトの記録です。
多文化・多民族国家オーストラリアが国家プロジェクトとして実現し、本国で22万人を動員し大きな成功をおさめた本展が、大阪・国立民族学博物館を皮切りに日本全国を巡回します。
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アボリジニ(呼び方はどう呼ぶのがいいかわからないのですが、ひとまずHPにあわせます)のアートに出会ったのは2008年の「エミリー・ウングワレー展」(ウィキペディアに)。
私の人生を変えた展覧会3つのうちのひとつ。と言ってもいいくらい、飲み込まれた。
エミリ・ウングワレーの絵は、人に見せる、評価されるという意識から完全に超越していた。彼女の描くものは自分であり、自分を取り巻く世界であり、完璧に一体化している。絵に一体化しているのではなく、彼女の世界(大地とか神話とか?)と一体化しているというのか。彼女そのもの。その世界は、なんの制御もなく計算もなく、そのまま彼女の腕をとおして絵筆に伝わり、カンバスに表出し。
それでも、どうしてこんなに自分が心打たれているのか、その感動の正体がつかめず、もう8年。
わかることがあるかもと、海ほたるを渡って市原へ行ってきました。
わかったことは、
アボリジニの世界がすごい。彼らがすごい。ものすごくすごい。彼らが描いているものもすごい。
彼らがいったいどのような世界を生きているのか。すべてをわかりようもないけれど、大きくて驚くべき世界だってことはわかる。
うまく言えないけれど、感じ取れたのは、太古と現在が切り離されるものでなく、一体である。神話の世界も、自分の体と別のものでなく、きり離されるものでなく、一体である。自分がその一部である。大地も動物も環境も、自分と別のものでなく、一体であり、アイデンティティである。根源的なものの、自分は一部なのである。
エミリ・ウングワレー展でよくわからなかった「ドリーミング」の世界観も、少し把握できた。「ドリーミング」「ソングライン」という概念は、彼らの世界の根源的なこと。
「ドリーミング」は、現地の言葉ではジュクルパという。神話の創造の時代のこと。この時代に、祖先である精霊たちは歌い、旅をし(日本の神々のように人間臭く、争ったりもする)、その旅の道中で、大地を形つくり、動物や植物をつくり、儀礼やしきたりを定めた。この時代のこと、その旅の物語全体、そこで語られる場所(現存する)、登場するものすべてを含めて、「ドリーミング」であるようだ。地域集団ごとに、精霊たちはたくさんいる。人によっては、あるドリーミングをもって生まれるらしい。そういえば、エミリ・ウングワレーはヤムイモとエミューのドリーミングの継承者だった。
その精霊たちが旅した道筋は、歌にして子孫へと伝えられる。それが「ソングライン」。実際にある具体的な場所を示し、だから彼らは、水の場所や、危険な場所がどこかも知ることができる。
エミリ・ウングワレーの絵にわけもわからずとも圧倒されたのも、こういう世界がそこにあったからだった。この大きくて根源的な世界が、なんのかい離もなく、そのままエミリ・ウングワレーであり、エミリの絵であり。
前置きが長くなったけど、今回の展覧会。
エミリはほとんど言葉で語っていなかったけれど、今回この展覧会の画家たちは、自分たちの世界を、絵だけでなく言葉でも伝えていた。
見る側でなく、製作者の彼らにとってこそ、このワークショップと展覧会は意味を持つもの。一つの歴史は、別の側からしたら、全く別の歴史なのだ。
Part1:キャニング牛追いルートプロジェクトの背景(「」は図録から引用)。
1788年にオーストラリアにイギリス人が入植して以降も、砂漠である西部には来ることがなく、20世紀に入ってもここのアボリジニの人々は狩猟をしながら、ソングラインに定められた道を移動して暮らしていた。この展覧会の画家たちも、子供の頃や若いころにそうやって暮らしていた人々。
西部に白人が入植したのは1906年。キャニングという白人探検家が測量を行い、砂漠に2000キロに及ぶ牛の移動のための道が通された。解説にアボリジニの「生活を激変させることになります」という抑えた表現にとどめられているその歴史は、文化や生活の急激な破壊に他ならない(こちらなどに)。本格的に牛追いの往来が増えた1930年代から、先住の人々は、砂漠を離れ始めた。白人の経営する牧場で働くようになったり、同化政策、stolen generaitions、キリスト教のミッションに移ったり。(牛追いルートは、輸送手段の変化により1959年に廃止される)
2006年にFORMという非営利団体の呼びかけたワークショップに参加し、自分の「カントリー」に戻ってきた。キャンプをし、作品を作り、共同制作し、年長者から話を聞き、歌や踊りを習い。(画像は図録から)
この展覧会の解説は少ない。ワークショップのもう少しの詳細(オーストラリア国立博物館のHpにほかの絵やキャンプの説明等あります)や、歴史の概略もない。
それらのかわりに、彼ら自身の出会った出来事や、見ているものを伝えており、それでこんなに心に残っているのかもしれない。
参加者から聞き取ったソングラインを記した地図があった。
色のついた線がソングライン、精霊たちの道であり、何千年も前から続くアボリジニの移動する道であり。(画像は全て図録)。測量図部分は、牛追いルート。ソングラインを分断して開通していた。
ブーカーリー・ミリー・ケリー「ブンタワリイ」(1935~)2007は、生まれた家を描いていた。特に好きな絵のひとつ。
「プンタワリイ、私のカントリー。私は裸で歩き回る小さな子供だった」
1935年ごろ、彼女は牛追いルートのあたりで、生まれた。黄色いところが、木の枝と草でできた伝統的な家。家族はカントリーを移動する生活をしていたけれど、母とともに配給所に移動して、夫に出会い、牧場で働いたのだそう。
Part2:プロジェクトから生まれた作品たち
いくつかのセクションに分かれて展示されていた。ワークショップでテーマごとにグループ分けして描いたものによるのかな?。砂漠の土の上に広げて、語りながら描いたり、共同で描いたりしたようだ。
Section1:聖なる水と砂漠
砂漠で暮らす人にとって、水場は大切な場所。生活のことだけでなく、ドリーミングの祖先たちが、創造の旅の途中に立ち寄り、亡くなったりした場所。その場所は「彼らのアイデンティティの本質を成している」と。
ジャン・ビリイカン(1930年ごろ~2015)「キリウィリイ」2008は、水源のそばの故郷を描いていた。
「ここは、私の父親の氏族集団が生まれた場所である。私たちの氏族集団もまた、キリウィリイと呼ばれる」
彼女は生まれた場所であるキリウィリイという場所に、自己を同一化している。「亡くなると彼らは自分たちのカントリーと再び結びつくために、その場所に戻ってくる」。
ダーダー・サムソン(1939~)「プルパ」2007、母と兄弟が水場で目撃したことを語っていた。
「母は私の三人の兄弟たちと一緒にジガロン(配給所がある?)に向かっていた。その途中、サンディ井戸に立ち止まった。白人たちは、ここで人を撃ち殺し、その場を立ち去った。私の家族は、ちょうどここを旅していた。彼らは銃を撃つ白人たちの姿を見て逃げた。」
彼女の家族は配給所に移動し、彼女はそこで生まれたそう。
真ん中の円がプルパ。その左の円は水。上方の四角は窪地、下の部分は、ブッシュの小屋。
彼らの絵は、水場もカントリーも「まる」でとらえている。大事な場所であり、世界のすべてであり。
仙厓の禅画の「まる」で頭を抱えたことを思い出す。彼らの世界に触れていたら、禅の「まる」に視界が開けた気がした(!)。
Section2:ミニイプル(七人姉妹)
プレアデス星団(日本名だと「すばる」)は、7人姉妹(ミニイプルとその姉妹たち)の物語になっていて、女性の重要なソングラインなのだそう。ドリーミングの時代に、女性たちは西海岸から旅をはじめ、大陸を横断しながら、土地を形作った。(ちなみにオリオン座は、彼女たちをつけまわした好色な老人ということになっている。)
ミニイプルのソングラインを3人で共同して描いていた。幅何mもある大きな絵。
ムーニー・シンプソン(1941~2008)、ロージー・ウイリアムス(1943~)、ドゥルスイ・ギプス(1947~) 「ミニイプル」2007
描いた三人は姉妹。湖のそばのカントリーで暮らしていたけれど、1957年に父が亡くなってから、配給所に移ったそう。
左上から二番目の青い丸は、上述の老人がミニイプルたちと出会った場所。その他の青い丸もすべて具体的な場所や井戸。線は、ソングラインの道なのでしょう。カントリーを分断する真ん中の赤い部分は、牛追いルート。
ノーラ・ナンガパの「ミニイプル」は、圧倒的な力強さに打たれた。なんと1916年ごろ生まれ。七人姉妹を追いかけていた老人は、ニイピリ(井戸34番)で踊る彼女たちをみていた。すると彼女たちはクナワラチ(井戸33番)へ飛んで戻った。
ジャーカイブ・ビルジャブ「ウィキリイ」2007も、牛追いルートに分断された世界と、その真ん中に33番の井戸。まわりに、砂丘とともに植物の種や、草や林を描いていた。種は確か、つぶして練って食べると何かで見たような。
Section3:人食いのカントリー(失望の湖)
この章は、「クムプピリンティリイ」と呼ばれる塩湖のことを語っていた。ここを見つけた白人探検家は、淡水でなかったので「Lake Disappointment 失望の湖」と名付けた。でもそこはドリーミングでは大事な意味を持つ場所。人食いが真下におり、危険な場所。だから今でも塩胡の上を歩いたりしないのだそう。(google)
これは絵とともに、数分のアニメが上映されていた。ビリー・アトキンス(1940~)「人食いのものがたり」
アニメでは、地底で人食いに追いかけられて食べられてしまっていた。グロい恐怖感。彼の祖父は、人食いに捕まって食べられかけたけれど、逃げ出せたそう。実際になにかの出来事があったのだと、疑いなく思う。
彼は、子供のころ、同化政策により保護施設に連れ去られそうになったところを逃げおおせたけれど、姉妹は連れ去られたそう。その姉妹たちの実話は、ストールンチルドレンを取り上げた映画「裸足の1500マイル」になっているそう。劣悪な施設から逃げ出し、年端も行かない子供たちが母の所へ帰ろうとする。
Section4:ヘビを殺す
砂漠の井戸の多くには、祖先の精霊である虹ヘビ「クリャイ」が住んでいるのだそう。そのうち井戸42番は、牛追い人の井戸の掘削のために爆破され、虹ヘビは死んでしまった。
参加者の言葉だと思うけれど、(図録から)「クリャイが殺されてしまったとき、わたしたちは空っぽになったと感じた。人々は立ち去り、動物たちも立ち去った。人間も動物もつながっている。大きな価値のあるものが失われてしまい、他では変えることができないのだ」。
Section5:砂漠を離れる
砂漠で伝統的な生活を送った最後の人々のひとりである、1970年ごろ生まれの女性、ジョージナ・ブラウン
「私が生まれたところ」(1970頃~)2007
「だから私は、私の記憶、私と姉妹や兄弟、そして家族について描くのです」
この絵は、両親や兄弟と遊んだ砂漠の楽しかった暮らしと土地そのものに見える。
1976年に砂漠でディンゴを抱いて、弟を抱いた母とともに立っている写真も展示されていた。この年、彼女の親戚は砂漠に残っていた彼らを心配して捜索し、町で暮らすことになった。両親は砂漠に帰りたがっていたという。
1957年にヘリコプターと遭遇した家族のお話があった。
ヘリコプター・チューングライ「ワルウィア」(1947~)、クロガシラヘビのドリーミングを持って生まれたという彼が10さいのときの出来事。
1957年に、彼のカントリーに、初めてヘリコプターが着陸した。白人すら初めて見た人も。彼は重い病気だったので、彼の母親は白人に病院に連れて行ってほしいと頼み、彼と母親は初めてヘリに乗った。
白人と友好的な関係を保つこともあったのだ。人種差別撤廃の動きもあったでしょう。牛追い人の食料や珍しいものと引き換えに、時々牛追い人たちの手伝いをしたり。
そのヘリコプターの場に居合わせた、1935年生まれのパトリック・チューングライの絵もあった。一族たちはヘリを追って砂漠を離れたけれど、彼はもう一年砂漠をひとりで移動し、それから家族と合流したそう。
Section6「現代アートとコミュニティ」
階下の部屋の吹き抜け部分に、3m×5mもの大きな絵が床に置かれていた。6人の共同作品。
「マトゥミリイ・ノーラ」
階段の上から見たり、横から見たり、オーストラリアの砂漠に見えてくる。地図であり、世界であり、ドリーミングであり。彼らは頭の中に、土地と祖先からの世界をこんなふうに把握できているのだと、圧倒された。
「この地図を白人の地図のように読まないでほしい。これはマルトゥの地図である。私たちがどのようにカントリーを見ているか、我々のカントリーについてのものがたりを語るために、私たちがどのように絵画を利用しているかを示している」と。
ここの人々は、カントリーを焼く「火付け技法」と狩猟とによって、この土地を管理し、土地のバランスを保ってきたのだそう。火付けによる生態学的な再生の段階を彼らは認識していて、この絵のグラデーションは植生の再生の段階を反映しているのだそう。
驚きの展覧会だった。
文字を持たなかった彼らの世界を、こんなに具体的に可視化してもらえるなんて。その絵の強さ。
アボリジニの絵が本来は、具体的で実用的なものだったとは。そのアート性ゆえ、アボリジニの自立と産業振興のためにアートセンターが設立され、商品としても注目されているけれど、本来は、具体的生活上の必要不可欠なものであり、ドリーミングそのものであり。
以前旅番組で(たぶんBSの「堤真一×地球創世の大地」という番組だったような・・)、ウルルで育った男性(政府は99年間彼らからこの地を借りる契約になっている)が言っていた。自分たちは岩などに絵を描いて、土地の大事なことを子供たちに教えてきた。その岩は小学校のようなものだったと。
自分は幸運にもここで育ったので、アボリジニの生き方を学べた。だからこの土地のことを訪れる人に伝えたい。そうじゃなければアボリジニたちがここに戻ってきても何もわからなくなってしまう。というようなことを言っていた。
エミリ・ウングワレーの絵も抽象画のように見えるけれど、具体的なものを描いていると、やっと実感する。
そして、ずっと気になっていた、エミリは大事なことを見えないように絵にしている、というのも腑に落ちた。
エミリは、いくつかの絵の描き初めは誰にも見られないように書いていた、と。人喰いのカントリーの章で、精霊の守護者の物語を描いたヤンジミ・ローランズの絵の解説には、この物語が秘密の知識を含んでおり、これ以上は明らかにできないものである、と。エミリも彼も、5万年前からの祖先から受け継いだドリーミングの管理者としての役割を果たそうとしていた。
このワークショップには砂漠の暮らしをしたことがない子や孫も参加して、年長者からいろいろなことを学んだということ。作品を観ながら、知里幸恵「アイヌ神謡集」を何度も思い出した。感想を書きながらも、実はどう言葉にしていいか途方に暮れてばかり。
**市原湖畔美術館は素敵な美術館だった。長くなってしまったので写真は次ページに。