39回目の夏-123便事件の本質
経過した年月を思い返すと本当に驚きます。あれからもう39年も経ってしまったのですね。あの時仲の良かった友人知人は今何をしているのか、事件の記憶と共に当時が偲ばれます。
さすがに39年も経てば、残念ながら若くして鬼籍に入られた友人も何人か出てきます。飛行機から沢山人が落ちる夢を見たと無邪気に語ってくれたあの人も、今は帰らぬ人となっています。彼・彼女等は、あの時目にした123便の悲劇について、天国からどのように見下ろしているのでしょうか?
そんな感傷を胸に、慰霊の為、今年も今月の初めに御巣鷹の尾根に行って参りました。
現地の到着が少し遅かったこともあり、尾根までの登山は諦めざるをえず、登山道入り口の近くで祈りを捧げてきたのです。
写真1:登山口前の駐車場は岩が崩れて使用できない状態に
写真2:登山道入り口
写真3:沢の上流に向かって合掌
時間が遅かったこともあり、登山口の前には誰もおらず、また下山してくる人もいなかったので、この時期には珍しく静かな慰霊となったことをご報告申し上げます。
慰霊訪問からの帰り、神流川ダムから少し上流にあるお社へお参りに立ち寄りました。
写真4:上野村楢原のお社
その時、ふと辺りを見渡すと、比較的新しい案内板が置かれているのに気付きました。どうやらここに分校があったようです。
写真5:分校跡であることを示す案内板
記述によると、ここに昭和38年まで小学校の分校があったようです。この分校跡の位置を3D地図で確認すると次のようになります。
地図1:昇魂の碑と分校跡の位置関係
この地図を見ても、この分校が上野村中心部よりも御巣鷹の尾根の現場に近いところにあるのが分ります。
これが、何を意味しているのかは明白でしょう。123便事件の20年ほど前まで、こんな山奥でも家族単位で生活していた人々が居たということなのです。
過去の記事でも、御巣鷹の尾根周辺はかつて林業が盛んであったことはお伝えしましたが、今回慰霊に向かう際も、神流川の対岸にトロッコ列車の軌道が設置されていただろう土台の跡が続いているのを確認してきました。
ここは、古くから人の出入りがあった場所なのです。しかし、事件当時の週刊誌上で、当時の航空幕僚長であった森繁弘氏は、
日本のチベット
と言い放ち、乗客乗員の夜間の救助は困難だったと言い切ったのです。
明らかな嘘なのですが、自衛隊幕僚長をしてこう言わしめた理由はいったい何なのでしょうか?
世間では、相も変わらず墜落原因について侃侃諤諤の論争が続いていますが、そもそも123便に搭乗していない外野の人々が、事故調査報告書はもとより、2次資料、3次資料を元にいくら議論を続けたところで、確かなものは何も見つかるはずがありません。
それよりも、自衛隊幕僚長が言い放ったこの明らかな嘘にこそ、この事件の本質が隠れていると私は考えます。
123便事件を巡る裾野は皆さんの想像を遥かに超えて広く、1点だけを見つめていてもその全容は理解できるものではありません。もう15年も調査活動を続けてきた私ですら、全体像の半分も見渡せた気がしないのです。
それでも、これまで拾い集めてきた同事件のピースが、いったいどのような像を結ぶのか、本日夕刻よりゲスト出演する有料ライブではこれまでの成果を簡潔にお話ししたいと思います。
画像1:ライブでお話しする予定のレジメ
ライブ情報:https://jl123.stores.jp/
* * *
123便が消息を失ったとされる本日18:55分頃、読者の皆様にはどうか犠牲者の為に手を合わせて頂けたらば幸いです。
あなたの口を開いて弁護せよ
ものを言えない人を
犠牲になっている人の訴えを
(箴言 第31章8節 レムエルの言葉より)
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
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