徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

山口と大内氏

2005-08-25 | 歴史
8月7日

山口は、「西の京」を目指した大内氏が、京都に似せて、わざわざ盆地に町を造ったという。旅してみないとこんな話は実感できない。だいたい国道9号線の山陰道の街とは。山陽道国道2号線は山一つ向こうである。湯田温泉という山陽道随一の温泉が、JRの隣駅である。そこでは、幕末の志士が集まって謀議したという宿もある。萩から山口までは本当に山道で、京に進出したければ、やはり地の利は山口にあがるだろう。

室町時代、明や李氏朝鮮の貿易で利益を上げた大内氏がこの地に大内文化と呼ばれる文化を築いたという。雪舟もザビエルもこの山口を訪れているという。中原中也の生まれた土地(これは別稿で)。その片鱗を垣間見るために、津和野行きは取りやめて山口市内(と防府)を訪問することにした。

「目で見る大内文化」等によると、1360年ごろ、第24代大内弘世が、現在の龍福寺のあるあたりに大内館を建て守護所とし、町づくりを開始したという。1395年、九州探題の今川了俊が失脚すると、第25代大内義弘は朝鮮貿易を開始し、経済力をえたが、それで、足利義満と対立するところなり、1399年に応永の乱で最後を遂げる。義弘の菩提を弔うために建立されたのが国宝瑠璃光寺五重塔。法隆寺五重塔、醍醐寺五重塔とともに三名塔と称えられる。第28代教弘の時代となると朝鮮貿易は全盛期となる。第29代政弘が1465年に家督を相続してすぐ、将軍家と管領の嗣子問題に端を発し、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)との勢力が絡み合い、応仁の乱(1467から)がおこる。大内氏は、細川氏と対明貿易で対立していたので西軍につく。応仁の乱で京が焼け野原になった反面、山口は対朝鮮、対明貿易で繁栄し、また政弘が山口では文化に理解を示したので大いに発展した。雪舟を明に派遣したのも大内氏である。常栄寺の雪舟庭も政弘が命じて築かせたもの。大内氏の全盛期は第30代義興、第31代義隆の時代。義興は管領代として幕府の実権を握り、一時京都に滞在した。義隆は、対明貿易の主導権を巡って細川氏と熾烈な争いをしたが、1508年管領代となり優位に立った。さらに、義隆は、対明貿易を独占するところとなった。

さて、石見銀山を最初に発見した神屋寿貞は、大永6年(1526)に博多から大社に向かう途中に日本海から仙の山が光っているのを見て銀山を発見したといわれている。さらに天文2年(1533)博多より宗丹・桂寿という2人の技術者を伴い、銀の製錬法を導入した。 その支配をめぐっては、その後大内、小笠原、尼子、毛利によって争われたわけだが、その中で、天文十二年(1543年)出雲尼子氏との戦いで、大内義隆(第三十一代)の嗣子大内晴持が溺死という惨事がおこった。この敗戦後、、義隆は戦争を嫌って、もっぱら学問と学芸の日々をすごした。この結果、大内文化は絶頂に達した。1551年にはザビエルの山口で布教を許可した。

文化は盛んになったが、政治をおこたったため、家臣団の対立を生むことになった。忠勤であった武断派の陶隆房は、1551年反旗を翻した。戦闘らしい戦闘もなく家臣から見放された大内義隆は放伐され、陶隆房(のちに陶晴賢)は当主として豊後の大内晴英を迎えた。陶氏は、石見の吉見氏と対立関係にあったが、1553年ごろから戦闘が始まった。毛利元就は、大内義隆の知遇を受けたとして(陶氏は逆賊だとして)吉見氏を援助した。(この辺は石見の銀の利権の方便でしょうか。)結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定。銀山と温泉津を直轄地とした。さらに毛利氏は1年の攻防戦の上、大内氏を1557年完全に滅亡させた。

この大内氏の興隆と滅亡は、貿易と銀山発掘という経済利権を争う戦いの歴史です。ある意味室町時代の歴史の潮流をなすものと思いますが、初めて知りました。

陶晴賢は、一昔前までは、山口の観光をすると「陶氏の謀反によって大内氏は滅亡され。。」と説明されていたそうだ。勝てば官軍らしい喧伝が、450年前からごく最近まで続いていたということだ。山口では、大内氏の文化の見直しはやっと始まったところのようである。

さて、龍福寺、瑠璃光寺(国宝瑠璃光寺五重塔)、常栄寺の雪舟庭と訪問した。時間がなく、ザビエル記念聖堂を訪れることができなかったのは残念。

龍福寺は、室町時代の寺の様式で重要文化財とのこと。落ち着いたいいお寺。

瑠璃光寺。この地には大内義弘が建立した香積寺があったが、1616年、萩に移された。そのときに山口町民の嘆願によりしかし五重塔だけは、残されたという。1690年に陶氏の菩提寺の瑠璃光寺がこの地に移され、瑠璃光寺となった。義弘の菩提を弔うために建立されたのが五重塔が、陶氏の菩提寺にある訳だが、逆賊陶氏と大内義弘の菩提が一緒になって不自然という感覚と、そのほうが自然という感じがあるのだろうと思う。国宝瑠璃光寺五重塔の横に、(chiy333さんもかかれていれていますが、)司馬遼太郎文学碑がある。朝日新聞の記事よれば、《大内文化のまちづくり協議会(福田礼輔会長)が、募金や市の助成で00年8月に建立。フランシスコ・ザビエルの山口来訪から450年と、大内義隆(1507-51)の没後450年を記念した。福田さんは「司馬さんのお陰で、庶民の繁栄や海外との交易に力を注いだ大内氏の時代に対する市民の関心が深まった」と話す。》とありました。

さらに、若山牧水歌碑、大内弘世像などがある。うぐいす張り石畳は、意図したものではなく偶然の産物とか。でも拍手して鳴らしてみると確かに響く。
eltsyn-nさんも書かれているが、狭いところに、いろいろなものがある。出雲の一畑薬師(目の仏様)山口文院、四国の金比羅様(道中安全)と身切地蔵様等。出雲の一畑薬師には、わざわざ出雲にいったのに参拝できなかったのでここで拝んだ。

常栄寺の雪舟庭:小さな観光ガイドの写真で見るよりは格段雰囲気のいい庭。外人さんがゆっくりと庭を愛でてました。たしかに禅の精神の感じられる場所。

catalan_scottishさんさんはじめ皆さん、数年前の大河ドラマ「毛利元就」を見ていての訪問のようだが、私は、知識がなかったので、勉強になり大変楽しかった。

後日談。「山口って盆地なんだね。」と旅行に行ってきた話をすると、鉄道ファンの彼は、「そうだよ。台風を避けられるから衛星通信のパラボラアンテナがあるんだよ。山口っていえばSLだけど、今はどこでも走っているからなあ」と応える。旅してみも興味は様々である。

参考文献:目で見る大内文化 山本一成著 発行 大内文化研究会 500円(瑠璃光寺で購入)


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 防府天満宮 | トップ | 毛利氏庭園、毛利博物館には... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (el'tsyn)
2005-08-29 11:43:35


 TBありがとうございました。

 「旅をしてみないと分からない」という意見には同感です。



 以前、福井の朝倉氏の拠点、一乗谷を旅しました。

 一乗谷は山奥にあって攻めにくい、と聞いていたのですが、行ってみて実感。現代でも交通の便が良いとはいえず、中世ならばなおさらだったろうと思いました。

 またどこかへ旅したくなりました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史」カテゴリの最新記事